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1-ようこそ、世界へ
4.少女、食べる。
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「だからさぁーニチカもずっとここで暮らそうよ。そうしたらご主人だってきっとニチカにひどいことはしないはずだよ」
「そうかな」
「うんうん、それがいい。そうしよう」
あの後、ニチカはぼんやりとソファに腰掛けていた。実に嬉しそうなウルフィを上の空で撫でるが、帰ることを諦めたわけでは無かった。
自分には帰りを待ってくれている家族が居るのだ。ここであの危険人物に仕える一生なんて考えただけでも身震いがする。
とは言え、自分に何ができるのか。逃げ出そうとしてもすぐに捕まるのが関の山だろう。今は懐いてくれているこのオオカミだって、いざとなれば主人には逆らえないだろうし、仮に逃げ出せたとしてもこの森から出られる保証がどこにあるのか。出たところで元の世界に戻る方法は? 生きていく手段は?
「うぅ、ミィ子……」
妹の無邪気な笑顔が蘇り、ぽろっと涙がこぼれ落ちる。いったい自分はどうなってしまうのか、先の見えない暗闇に一人取り残されたような気分になった。
壁にかけられた時計が日付けが変わったことを示す。部屋は相変わらず静かで、先ほどからグッスリと熟睡に入ったオオカミが、時おりスピッスピッと寝息をかく以外は何の音もしない。
ニチカは起きていた。眠れなかった。これからの事を考えるとどうしても横になる気分にはなれなかった。
ところが、ふいに外から物音が聞こえたような気がして顔を上げる。庭に向いた窓がほんのり輝いている。外の様子をそっとうかがった彼女は、おもわず目を見開いた。
「な、なにあれ」
今は夜だというのに、金色のひだまりがそこに出現したかのようだった。同時にとんでもなく甘い香りがふんわりとどこからか風にのってやってくる。
「……」
気づけばニチカは庭に躍り出ていた。軽やかな足取りで踊るように光に近づく。ようやく目が慣れ見えてきたのは、腰の高さほどのリンゴの若木だった。枝に一つだけ成っている小ぶりの果実がまるで黄金で出来ているかのように輝いている。
「ああ、あああ……」
その匂いをかいだ瞬間、不安が全て吹き飛んでしまった。天にも昇るような良い香りだ。そういえば昼から何も食べていないなと頭の片隅で考える。
「おいしそう」
どこかぼんやりとした笑みを浮かべながら誘われるように手を伸ばすと、金色のリンゴはいとも簡単に手の中に収まった。シャクリと一口かじれば後はもう止まらない。
ごくん。
最後の一口を飲み込んだニチカは、しばらくうっとりした顔をしていた。だが
「?」
ふと我にかえり愕然とする。今、自分はなにを……
目の前にあるはずのリンゴの木を見下ろし怪訝な顔で首をひねる。若木はいつのまにか大輪の花が揺れる紅薔薇の枝に変わっていた。神々しいまでの光は消え失せ、黒く陰鬱な枝が不気味に揺れている。どういうことなのかと手を伸ばしかけた瞬間、薔薇は見る間に枯れてしまった。散った花弁がはらりと地面に着くか否か――何の前触れもなくそれはやってきた。
「――っ!?」
突然、今まで経験したことのないような激痛が腹部を襲う。まるで内側から殴られているようだ。
声なき悲鳴をあげて地面に倒れこむ。痛みはジリジリと焼け付くようなものに変わり、腕と言わず足と言わず全身を這い回る。あまりのおぞましい感覚にあえぐことしか出来ない。
「……ひっ!?」
腕を見たニチカは息を飲んだ。まるで何かが皮膚を突き破ろうとしているかのように盛り上がっている。
ついにブチッと手首の皮を破りそれが飛び出す。薔薇の枝だ。たった今、目の前で枯れた物と同じ枝が自分の腕から生えている。
「い、いやぁ!」
シュルシュルと伸びる枝は腕を伝い大輪の華を咲かせる。突き破った時に血を被ったそれは、夜目にも鮮やかな紅色をしていた。
ショックと痛みで気が遠くなっていく。少しずつ植物と同化していくのかもしれない、自分はこの美しい薔薇の苗床となるのか。
どれだけの時間が経ったのか、いや一瞬だったのかもしれない、どこからか自分を呼ぶ声に、ほんの少しだけ意識が戻ってくる。
「ご主人! ニチカがぁぁ」
「おいっ、何やってんだ!!」
焦ったような声がもう一つ増える。うっすらと目を開けるとオオカミと男が見えた。
「うるふぃ、と」
「なっ……お前、これを食べたのか!?」
枯れた薔薇の枝と少女に交互に視線をやる男は、驚愕の表情を浮かべたような気がする。もはやそれすらぼんやりとかすんでいた。
「ニチカは死んじゃうの? ねぇ」
「ウルフィ水汲んでこい、早く!」
「でもご主人、僕の手じゃ桶持てないよぉっ」
「口で咥えられるだろバカ!」
慌てて駆け出したオオカミをよそに、男は倒れているニチカの背に手をあて抱き起こした。
「洗礼を受けたことは? 親からの祝福は」
「わ、私、日本人だからぁ、そんなことしてないぃ」
「吐き出せ! すぐにだ!」
そうは言っても、もはや自力で身体を起こせないまでになっていた。
いきなり口の中に指をつっこまれ、反射的にえずく。胃から酸性のものが逆流してくるのを感じるが呑み込んだはずのリンゴが出て来ることはなかった。
「侵食が早い……すでに体内に根付いているのか」
ケホケホと噎せながら、恐怖でニチカは助けを求めて手を伸ばす。薔薇はすでに肩まで達していた。
「わたし、死んじゃうの?」
「……」
「そんなのいやだぁ、怖いよ」
世界全体がぐにゃりと歪む。それが自分の涙のせいだと気づいたのは、頬を流れ落ちる感覚が口に入ってしょっぱかったからだ。こんな見知らぬ土地で自分は短い生涯を終えるのか。
「死にたくない、私まだ何もしてない……」
二つの月を背負うようにして覆いかぶさる男が、端正な顔立ちをどこか切羽詰まったようにしかめこちらの顎に手をかけた。くっと持ち上げられる視界にその青が映りこむ。
「言っておくがな」
「?」
「これからすることは、あくまでも応急処置だからな。後からワーキャー騒ぐなよ」
空とも海とも違うその瞳の色が美しく、こんな状況にも関わらずほんの少しだけ見惚れてしまう。
「ガキは趣味じゃないんだが……」
「な、なに――」
「そうかな」
「うんうん、それがいい。そうしよう」
あの後、ニチカはぼんやりとソファに腰掛けていた。実に嬉しそうなウルフィを上の空で撫でるが、帰ることを諦めたわけでは無かった。
自分には帰りを待ってくれている家族が居るのだ。ここであの危険人物に仕える一生なんて考えただけでも身震いがする。
とは言え、自分に何ができるのか。逃げ出そうとしてもすぐに捕まるのが関の山だろう。今は懐いてくれているこのオオカミだって、いざとなれば主人には逆らえないだろうし、仮に逃げ出せたとしてもこの森から出られる保証がどこにあるのか。出たところで元の世界に戻る方法は? 生きていく手段は?
「うぅ、ミィ子……」
妹の無邪気な笑顔が蘇り、ぽろっと涙がこぼれ落ちる。いったい自分はどうなってしまうのか、先の見えない暗闇に一人取り残されたような気分になった。
壁にかけられた時計が日付けが変わったことを示す。部屋は相変わらず静かで、先ほどからグッスリと熟睡に入ったオオカミが、時おりスピッスピッと寝息をかく以外は何の音もしない。
ニチカは起きていた。眠れなかった。これからの事を考えるとどうしても横になる気分にはなれなかった。
ところが、ふいに外から物音が聞こえたような気がして顔を上げる。庭に向いた窓がほんのり輝いている。外の様子をそっとうかがった彼女は、おもわず目を見開いた。
「な、なにあれ」
今は夜だというのに、金色のひだまりがそこに出現したかのようだった。同時にとんでもなく甘い香りがふんわりとどこからか風にのってやってくる。
「……」
気づけばニチカは庭に躍り出ていた。軽やかな足取りで踊るように光に近づく。ようやく目が慣れ見えてきたのは、腰の高さほどのリンゴの若木だった。枝に一つだけ成っている小ぶりの果実がまるで黄金で出来ているかのように輝いている。
「ああ、あああ……」
その匂いをかいだ瞬間、不安が全て吹き飛んでしまった。天にも昇るような良い香りだ。そういえば昼から何も食べていないなと頭の片隅で考える。
「おいしそう」
どこかぼんやりとした笑みを浮かべながら誘われるように手を伸ばすと、金色のリンゴはいとも簡単に手の中に収まった。シャクリと一口かじれば後はもう止まらない。
ごくん。
最後の一口を飲み込んだニチカは、しばらくうっとりした顔をしていた。だが
「?」
ふと我にかえり愕然とする。今、自分はなにを……
目の前にあるはずのリンゴの木を見下ろし怪訝な顔で首をひねる。若木はいつのまにか大輪の花が揺れる紅薔薇の枝に変わっていた。神々しいまでの光は消え失せ、黒く陰鬱な枝が不気味に揺れている。どういうことなのかと手を伸ばしかけた瞬間、薔薇は見る間に枯れてしまった。散った花弁がはらりと地面に着くか否か――何の前触れもなくそれはやってきた。
「――っ!?」
突然、今まで経験したことのないような激痛が腹部を襲う。まるで内側から殴られているようだ。
声なき悲鳴をあげて地面に倒れこむ。痛みはジリジリと焼け付くようなものに変わり、腕と言わず足と言わず全身を這い回る。あまりのおぞましい感覚にあえぐことしか出来ない。
「……ひっ!?」
腕を見たニチカは息を飲んだ。まるで何かが皮膚を突き破ろうとしているかのように盛り上がっている。
ついにブチッと手首の皮を破りそれが飛び出す。薔薇の枝だ。たった今、目の前で枯れた物と同じ枝が自分の腕から生えている。
「い、いやぁ!」
シュルシュルと伸びる枝は腕を伝い大輪の華を咲かせる。突き破った時に血を被ったそれは、夜目にも鮮やかな紅色をしていた。
ショックと痛みで気が遠くなっていく。少しずつ植物と同化していくのかもしれない、自分はこの美しい薔薇の苗床となるのか。
どれだけの時間が経ったのか、いや一瞬だったのかもしれない、どこからか自分を呼ぶ声に、ほんの少しだけ意識が戻ってくる。
「ご主人! ニチカがぁぁ」
「おいっ、何やってんだ!!」
焦ったような声がもう一つ増える。うっすらと目を開けるとオオカミと男が見えた。
「うるふぃ、と」
「なっ……お前、これを食べたのか!?」
枯れた薔薇の枝と少女に交互に視線をやる男は、驚愕の表情を浮かべたような気がする。もはやそれすらぼんやりとかすんでいた。
「ニチカは死んじゃうの? ねぇ」
「ウルフィ水汲んでこい、早く!」
「でもご主人、僕の手じゃ桶持てないよぉっ」
「口で咥えられるだろバカ!」
慌てて駆け出したオオカミをよそに、男は倒れているニチカの背に手をあて抱き起こした。
「洗礼を受けたことは? 親からの祝福は」
「わ、私、日本人だからぁ、そんなことしてないぃ」
「吐き出せ! すぐにだ!」
そうは言っても、もはや自力で身体を起こせないまでになっていた。
いきなり口の中に指をつっこまれ、反射的にえずく。胃から酸性のものが逆流してくるのを感じるが呑み込んだはずのリンゴが出て来ることはなかった。
「侵食が早い……すでに体内に根付いているのか」
ケホケホと噎せながら、恐怖でニチカは助けを求めて手を伸ばす。薔薇はすでに肩まで達していた。
「わたし、死んじゃうの?」
「……」
「そんなのいやだぁ、怖いよ」
世界全体がぐにゃりと歪む。それが自分の涙のせいだと気づいたのは、頬を流れ落ちる感覚が口に入ってしょっぱかったからだ。こんな見知らぬ土地で自分は短い生涯を終えるのか。
「死にたくない、私まだ何もしてない……」
二つの月を背負うようにして覆いかぶさる男が、端正な顔立ちをどこか切羽詰まったようにしかめこちらの顎に手をかけた。くっと持ち上げられる視界にその青が映りこむ。
「言っておくがな」
「?」
「これからすることは、あくまでも応急処置だからな。後からワーキャー騒ぐなよ」
空とも海とも違うその瞳の色が美しく、こんな状況にも関わらずほんの少しだけ見惚れてしまう。
「ガキは趣味じゃないんだが……」
「な、なに――」
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