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22 おまじない

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 翌日は、女神の加護のないリサに合わせて、ゆっくりと神馬を走らせた。それでも夕方には辿り着き、今か今かと待っていた人々に出迎えられたのだった。
 手を振って笑顔をふりまきながら門前通りを抜け、神殿でも出迎えに礼を言いつつ奥に向かった。国王や神官長に報告をすませ、ようやく晩餐の席に着けた時には、二人ともくたくたになっていた。
 それでも、想う相手との食事は楽しいものだ。なごやかに会話を交わしつつ、一日ぶりの手の込んだ料理に舌鼓を打った。
 食後のお茶の頃になると、二人は口数が少なくなった。たくさん話して胸いっぱいになっていたのと、今日の終わりが近づいてきていたからだった。
 ネイドはおもむろに器をテーブルに戻すと、「では、私はこれで」と、暇を告げた。
 名残惜しかったが、彼がいるかぎりリサもいつまでも休めない。とにかく休ませてやりたいとの配慮からだった。
「え、もう?」
 リサは思わず口走り、あ、と口に手を当てた。苦笑するネイドに、ちょっと決まり悪げに笑んで、姿勢を正した。
「はい。お疲れ様でした。ありがとうございました。ネイドさ、あ、えと、ネイド、も、ゆっくり休んでください」
 ネイド様、と呼びそうになり、頬を染めて、道中の新しい約束通り、ネイド、と呼びなおしたリサと彼は、まわりが入り込めない二人だけの世界をつくって、微笑みあった。
 彼は優雅に立ち上がって礼をし、踵を返した。
 ところが、その背に声が掛かった。
「待たんか、護衛騎士」
 リサの声であるのに、明らかにリサのものではない声。ネイドは足を止めて、振り返った。
「おまえに話がある。……しでな」
 女神は剣呑な目で人払いをかけ、ネイドは部屋に一人残されたのだった。

 女神はソファで足を組んでふんぞり返り、ネイドはその前に、騎士団仕込みの隙の無さで立った。……いいや、立たされた。
 女神は低い位置からにもかかわらず、ぎろりとネイドを睥睨した。
「おまえ、情けを交わしたばかりの女に、そっけなさすぎではないか? では、私はこれで、だと? 言語道断としか、言いようがない! いいか、巫女姫はおくての清らかな乙女だったのだぞ。それをおまえになにもかも差し出したのだ。それを何と心得ているのだ。女は身も心も繊細なのだ。そっけない態度で、いたいけな巫女姫を、欠片でも不安にさせるでない! だいたい、どうして国王から巻き上げた金で遊んでこないのだ。アルスから王都までは、風光明媚な土地が目白押しではないか。ゆっくり泊まり歩いて、髪飾りの一つでも記念に買ってやれば喜んだものを。……それともまさか、ネイサンのように、ヤッたらもう興味を失ったとでもいうのではあるまいな?」
 いっきにまくしたて、ネイドを睨みつけた。
 ネイドは冷めた瞳で、お言葉ながら、と口を開いた。
「何か誤解されているのでは。私たちは情けなど交わしておりません」
「はあ!?」
 女神は眉間に皺を寄せ、思い切り不機嫌な顔で聞き返した。
「なんだと? 巫女姫の裸を見て、なんとも思わなかったのか!?」
「裸など見ておりません」
「なぜだ!! 湯に入ったのだろう!?」
「下着のまま入りました」
「乙女の肌に対する、なんたる冒涜!! 湯へは裸で入るものであろうが!!」
「不調法者ゆえ、申し訳ありません」
「ええい、口の減らぬ男だ!! わざわざ我が出張ってラズウェルを退けて、二人っきりにしてやったというのに、なんということだ。見知らぬ場所、しかも暗闇に二人っきり、頼る者はおまえしかおらん状態で、開放感あふれる露天の湯に入るのだぞ? 身も心も弛もうというものだ。濡れた髪、上気した肌、うるんだ瞳、極上のボディ! 触れなば落ちんという乙女を前にして、おまえは指一本触れなかったというのか!! この、ヘタレ、ヘタレ、ヘタレが!!」
 女神は最後に組んでいた足をといて、地団駄踏んで不快を示した。
 何を言ってるんだ、この素っ頓狂な女神は、と半ば唖然としていたネイドだったが、聞き終わる頃には、無意識に鼻先でふっと笑っていた。自嘲まじりの失笑だった。
「なんだ。何か言いたげだな。どんな暴言でも罰は食らわさぬ。言ってみるがよい」
「では、お言葉に甘えて。……信頼感あふれる瞳で誠実で優しいと断定されて、手を出せる男がいたら、お目にかかってみたいものです」
「……なるほど」
 女神は憑き物が落ちたように怒りをおさめ、それどころかニヤニヤッと笑った。
「巫女姫の無垢さに、手を出しあぐねたのか。手当たりしだいに女を袖にしてきた男が、無垢な乙女に翻弄される! あはははは、これは愉快! 愉快よのう!!」
 笑い転げて、ぱんぱんとソファの座面を叩いている。ネイドは不愉快だったが黙っていた。なにしろ相手は女神である。
 さんざん笑って涙を拭いた女神は、鷹揚に頷いた。
「よしよし。わかった。この巫女姫は難攻不落の乙女というわけだな。さすが我が寄坐よりまし! しかたない、我がもうひと肌脱いでしんぜよう」
「けっこうです」
 ネイドはとっさにそう返したが、女神は立ち上がって、ネイドに近づいた。
「非礼だぞ、人間。神は非礼を受けつけぬ」
 ふふん、と彼を下から覗きこみ、その背へと両手をまわした。
「さあ、受け取れ」
 その瞬間、巫女姫の体から力が抜けた。ネイドは急いで彼女の体を抱き留めた。どこもかしこも柔らかい抱き心地の良さに、思わずぎゅっと抱きしめる。
 巫女姫が瞼を震わせ、目を開いた。
「ネイド様?」
 不思議そうに呼びかけられ、彼は誠実さを装って、彼女を離さぬままに、何食わぬ顔で微笑んだ。
「ネイドと呼んでくださる約束ですが?」
「は、はい。……ネイド」
 リサは頬に血をのぼらせた。
「女神があなたの体調を心配して、お出ましになっていました」
「そうでしたか」
「私も、おやすみの挨拶がまだでしたので、戻ってきました」
 彼女は目を見開き、それから嬉しそうに笑った。彼女からにじみ出る喜びが、妖艶な唇にさらに艶をのせ、扇情的な声に深みを与える。
「はい。おやすみなさいませ。……ネイド、に、よい夢が訪れますように」
「おやすみなさい。リサにも良い夢が訪れますように」
 ネイドは彼女の声に陶然とし、唇に目が釘づけになりながら、無意識に挨拶を返した。そうして、流れるような仕草で屈んでいき……、途中で目をまん丸くして彼を見つめている彼女に気付き、間一髪のところで我に返った。目標を変更して、額に口づける。
「我が家に伝わるおまじないです。私にもしてもらえますか?」
 彼は自分のしようとしたことをごまかすためにそう言って、耳まで真っ赤になったリサに微笑みかけたのだった。

 これより三年ののち、リサはイステア国史上、最短で巫女姫を降りることになる。
 護衛騎士ネイドとの、できちゃった退任だった。
 女神は、「やれやれ、やっとか。いいかげん悶え死ぬかと思ったぞ」と言いながら、最大級の祝福を彼らに授けた。
 愛の女神フェスティアに導かれて成就した彼らの恋は、初代巫女姫の物語とともにイステア国で長く愛され、語り継がれていったという。



                                       終
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