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10 巫女姫の涙
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国王の剣幕に、どうすればいいのかわからなくて、リサはただ泣くしかなかった。
すると、急に誰かに腕をつかまれて、びっくりした。驚いて目を開けたら、ネイドの横顔が見え、彼に強く体を横に押しやられて、たたらを踏む。彼にしっかりとつかまれていたから転びはしなかったが、その険しい顔と強引さに怯えて竦んでいるうちに、マントを頭からバサリとかけられた。かと思ったら、今度は腰のあたりをガッシリとつかまれ、体が浮き上がった。
驚いたなんてものではなかった。怖いとか辛いとか悲しいとか、そういうものがすっとんでしまい、突然作られた暗闇の中で、リサは目をぱちくりとした。
体が不安定に揺れはじめ、ネイドが彼女を抱えたまま歩いているらしいと見当をつける。それが、国王の呼び声で止まり、彼の声が聞こえてきた。
「女神は、この方を依代にと選ばれました。この方をです。女神はありのままのこの方を気に入られたのだと私は理解しているのですが、それは間違っていますか」
リサは、あ、と思った。胸の奥を、強く衝かれたようだった。言葉にできない感情に、一瞬にして支配される。冷えきって凝り固まっていた心を、熱い手で握られたみたいだった。
「巫女姫を休ませてきます。失礼」
そうして、また揺れはじめた。
国王のいる、あの恐ろしい場所から連れ出してくれている。それがわかって、リサの体から力が抜けていった。
それに、ネイドは彼女を庇ってくれた。……あの言動は、そういうことだったのではないかと、じわじわと理解が追いついてきた。これまで見たことのない怖い顔も、したことのない手荒さも、聞いたことのない厳しい声も。
リサの護衛になんか選ばれて、とても迷惑しているだろうに、国王の不興も恐れずに、助けてくれた。
出会った時からそうだった。見も知らない見習いの仕事を手伝って、洗濯物を運んでくれた。怪我がなくてよかったと、心から笑ってくれた。
上辺だけ優しい人なら、いくらでもいる。でも、彼は違う。これだけ迷惑をかけていても、こうしてまだ助けてくれて、リサのために怒ってくれる。
やっぱり好きだという気持ちが、次から次にわきあがってきた。
自分なんかが彼を好きなのも、醜い姿を見せるのも、話すのも申し訳なくて、なるべく彼の前では小さくなってうつむいて、口数を少なくし、気持ちを消そうと頑張ってきた。
だけど、そんなのは無駄な努力だったと、リサは悟った。
だって、こんなに素敵なのに、好きにならずにはいられない。
女神よ、とリサは胸の内で強く呼びかけた。この気持ちを、もうどうしていいのかわからなかった。ただただ、女神よ、と何度も呼ぶ。どうか、どうか、どうか、お願いですから、と。
その先に何を願っているのか、自分でもわからなかった。
リサは抱えられながら、ネイドに点された熱に浮かされて、拭っても拭っても出てくる涙と鼻水を、自分の袖口と彼のマントに染み込ませた。
揺れが止まり、リサははっとした。とうとう降ろされるのかと身構える。マントの上から押さえている腕の位置が変わり、ノックの音が聞こえた。
また少し揺れて、彼の足が止まり、今度こそ下に降ろされた。硬い床の上に座らされ、マントが、つつっと後ろに引っ張られる。
マントが無くなってしまうのは嫌だった。自分の姿が見えないことに、外界から閉ざされていることに、安心を覚えていた。だが、ネイドのものである。リサは、ぎゅっと縮こまって、取り去られるのを待った。
しかし、マントは前が見えるようになったところで動きを止めた。目の前には暖炉があって、そこへ身を乗り出し、火を熾そうとするネイドの姿が、ちらりと見えた。
どうやらマントはそのままにしてもらえるらしい。リサは安堵して、放心してマントの陰から見えるものを、見るともなく眺めた。
ネイドの姿が消え、歩きまわる音がして、また戻ってくるのを、無意識に目と耳は拾っていたが、少し前まで激しく動いていた感情は、その反動で麻痺したようになってしまっていたのだ。
手に何かが触れ、条件反射でリサはそれを握った。大きなマグカップだった。
「どうぞ。気分が落ち着きます」
薄赤く色付いた液体が入っている。ふうっとワインの香りが鼻をくすぐった。
良く知った匂いだった。どこで嗅いだものだったかと記憶の中を探る。遠い、遠い、すごく昔のどこか。
思い出せなかったが、リサはカップに口をつけた。ワインが舌の上に広がった瞬間、ぶわっと頭の中に映像が広がった。
食卓だった。家族がそろっていた。粗末なカップを持って誰もが笑っていた。食後の光景だった。
中身は、水で薄めた安物のワイン。
神殿で、巫女姫になって、最高級のワインを飲んで、その芳醇な香りと味わいに驚嘆した。とても美味しかった。それは間違いようがなかった。
けれど、本当にリサの舌が求めていたのは、幼い頃から慣れ親しんだ、この味だった。
「おいしい」
リサは懐かしさに涙した。
すると、急に誰かに腕をつかまれて、びっくりした。驚いて目を開けたら、ネイドの横顔が見え、彼に強く体を横に押しやられて、たたらを踏む。彼にしっかりとつかまれていたから転びはしなかったが、その険しい顔と強引さに怯えて竦んでいるうちに、マントを頭からバサリとかけられた。かと思ったら、今度は腰のあたりをガッシリとつかまれ、体が浮き上がった。
驚いたなんてものではなかった。怖いとか辛いとか悲しいとか、そういうものがすっとんでしまい、突然作られた暗闇の中で、リサは目をぱちくりとした。
体が不安定に揺れはじめ、ネイドが彼女を抱えたまま歩いているらしいと見当をつける。それが、国王の呼び声で止まり、彼の声が聞こえてきた。
「女神は、この方を依代にと選ばれました。この方をです。女神はありのままのこの方を気に入られたのだと私は理解しているのですが、それは間違っていますか」
リサは、あ、と思った。胸の奥を、強く衝かれたようだった。言葉にできない感情に、一瞬にして支配される。冷えきって凝り固まっていた心を、熱い手で握られたみたいだった。
「巫女姫を休ませてきます。失礼」
そうして、また揺れはじめた。
国王のいる、あの恐ろしい場所から連れ出してくれている。それがわかって、リサの体から力が抜けていった。
それに、ネイドは彼女を庇ってくれた。……あの言動は、そういうことだったのではないかと、じわじわと理解が追いついてきた。これまで見たことのない怖い顔も、したことのない手荒さも、聞いたことのない厳しい声も。
リサの護衛になんか選ばれて、とても迷惑しているだろうに、国王の不興も恐れずに、助けてくれた。
出会った時からそうだった。見も知らない見習いの仕事を手伝って、洗濯物を運んでくれた。怪我がなくてよかったと、心から笑ってくれた。
上辺だけ優しい人なら、いくらでもいる。でも、彼は違う。これだけ迷惑をかけていても、こうしてまだ助けてくれて、リサのために怒ってくれる。
やっぱり好きだという気持ちが、次から次にわきあがってきた。
自分なんかが彼を好きなのも、醜い姿を見せるのも、話すのも申し訳なくて、なるべく彼の前では小さくなってうつむいて、口数を少なくし、気持ちを消そうと頑張ってきた。
だけど、そんなのは無駄な努力だったと、リサは悟った。
だって、こんなに素敵なのに、好きにならずにはいられない。
女神よ、とリサは胸の内で強く呼びかけた。この気持ちを、もうどうしていいのかわからなかった。ただただ、女神よ、と何度も呼ぶ。どうか、どうか、どうか、お願いですから、と。
その先に何を願っているのか、自分でもわからなかった。
リサは抱えられながら、ネイドに点された熱に浮かされて、拭っても拭っても出てくる涙と鼻水を、自分の袖口と彼のマントに染み込ませた。
揺れが止まり、リサははっとした。とうとう降ろされるのかと身構える。マントの上から押さえている腕の位置が変わり、ノックの音が聞こえた。
また少し揺れて、彼の足が止まり、今度こそ下に降ろされた。硬い床の上に座らされ、マントが、つつっと後ろに引っ張られる。
マントが無くなってしまうのは嫌だった。自分の姿が見えないことに、外界から閉ざされていることに、安心を覚えていた。だが、ネイドのものである。リサは、ぎゅっと縮こまって、取り去られるのを待った。
しかし、マントは前が見えるようになったところで動きを止めた。目の前には暖炉があって、そこへ身を乗り出し、火を熾そうとするネイドの姿が、ちらりと見えた。
どうやらマントはそのままにしてもらえるらしい。リサは安堵して、放心してマントの陰から見えるものを、見るともなく眺めた。
ネイドの姿が消え、歩きまわる音がして、また戻ってくるのを、無意識に目と耳は拾っていたが、少し前まで激しく動いていた感情は、その反動で麻痺したようになってしまっていたのだ。
手に何かが触れ、条件反射でリサはそれを握った。大きなマグカップだった。
「どうぞ。気分が落ち着きます」
薄赤く色付いた液体が入っている。ふうっとワインの香りが鼻をくすぐった。
良く知った匂いだった。どこで嗅いだものだったかと記憶の中を探る。遠い、遠い、すごく昔のどこか。
思い出せなかったが、リサはカップに口をつけた。ワインが舌の上に広がった瞬間、ぶわっと頭の中に映像が広がった。
食卓だった。家族がそろっていた。粗末なカップを持って誰もが笑っていた。食後の光景だった。
中身は、水で薄めた安物のワイン。
神殿で、巫女姫になって、最高級のワインを飲んで、その芳醇な香りと味わいに驚嘆した。とても美味しかった。それは間違いようがなかった。
けれど、本当にリサの舌が求めていたのは、幼い頃から慣れ親しんだ、この味だった。
「おいしい」
リサは懐かしさに涙した。
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