(自称)愛の女神と巫女姫と護衛騎士

伊簑木サイ

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6 彼女の恋

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 その日もリサは、はりきって働いていた。車の付いた大きな籠を押して、渇いた洗濯物を各所に配ってまわる仕事だ。
 朝から酷く冷える日で、北からどんどん鈍色の雲が流れこんできており、神殿騎士団の宿舎へと続く庭を横切る小道の途中で、とうとう雪が舞いはじめてしまった。
 彼女は、あ、と声をあげて空を見上げた。暗い空を幾千幾万の雪が、果てがわからないほどに埋めつくしていた。
「濡れちゃう」
 あわてて肩掛けをはずし、籠の上に掛ける。
 冬場の洗濯は乾きが悪い。しかも、今運んでいるのは、大物のシーツだ。
 リサはできるかぎり急いで籠を押した。でも、下は石畳で、がたがたと車輪が引っ掛かってうまくすすまない。
 見る間に雪が肩掛けの上に薄く積もっていくのを見て、彼女はこれではいけないと思った。せっかくの洗濯物を濡らしてしまうわけにはいかない。彼女は屈んで、籠に腕をまわすと、よいしょ、という掛け声とともに持ち上げた。
 あまりの重さに、少々よろよろしながら運ぶ。すぐに腕は痛くなって、背中と腰が張りつめ、腿が震えだしたけれど、もう宿舎は目と鼻の先だ。もう少し、もう少しと、彼女は必死に進んだ。
 と。後ろから急ぐ足音が近づいてきて、彼女は道をふさいでいてはいけないだろうと、よろけながら左にそれた。
 それがいけなかった。石畳の終わりは少し段になっていて、大きな荷物で足元が見えなかったばかりに、足を踏み外してしまったのだ。
 石畳の向こうはむきだしの土だ。シーツが落ちてしまったら、また汚してしまう。体が止めようもなく斜めに放り出されるのを感じながら、ああ、どうしようと、泣きたくなった。
 ところが、その時、がくん、と体が止まった。籠がふっと軽くなり、背中に温かいものが当たって、籠ごと一緒にリサの体を引き戻してくれる。
「大丈夫か」
 背後からの声に、彼女は斜め後ろへ振り返った。透き通った水色の瞳が、すぐ傍で彼女を覗きこんでいた。彼女は仰天して、思わず、申し訳ありません! と震えた声をあげた。
 若い騎士だった。リサは神殿に来て、前よりいくらか人目を気にしなくなっていたが、今でもやはり、若い男性は苦手だ。彼らはどんなに親切でも、どことなく女性に対して値踏みする気配があるからだ。
 自分にまったく自信のないリサは、そういう視線にさらされると思うと、消えてしまいたくなるのだった。こんな醜いものを見せてしまってごめんなさい、と。
 少しでも自分を見せまいと、籠を強く抱きしめ、顔をうつむけてしゃがもうとした。それを、もっとしっかりと籠ごと抱きかかえられて止められてしまう。
 逞しい腕がリサの腕の上から籠を支えていた。背中はますます密着して、大きな体に包まれる不思議な安心と、知らない若い男性に触れているいたたまれなさに、どうしたらいいのかわからなくなって、身を強ばらせる。
「足を挫いてしまったか?」
 答えなければと思うが、声なんか出せない。リサはとにかく横に何度も首を振った。
「こちらこそ、すまなかった。重そうだったから手伝おうと思ったのだが、かえって気を遣わせてしまったようだな」
 騎士は穏やかにそう言うと、籠をリサから奪い取り、彼女の前にまわった。
「本当に大丈夫か? 痛いところはないか?」
 長身の彼は、しゃがみながらさり気なく彼女の頭の雪を払って、下から覗きこんだ。
 リサは息を吞んで見つめ返した。美しい瞳が、ただ気遣う色だけを浮かべていた。
 綺麗な人だった。とても、とても、とても。氷の欠片が日の光にきらきら輝いている様を思い起こさせるような。
 その人の上に、次から次に雪が降りかかっていた。それさえも、彼を彩る飾りに見える。そうして見る雪は、すごく柔らかく温かいもののようだった。
 ふと心がゆるみ、声が出た。
「大丈夫、です」
 囁くようにしか出せなかったが、それでもその騎士は、安堵したように微笑んだ。
「そうか。よかった」
 その瞬間に、リサは恋をしたのだった。

 彼は親切に宿舎まで籠を運んでくれ、リサは何度も何度も深く頭を下げて、お礼を言った。彼は、たいしたことはしてないよと苦笑して、軽く手をあげて去っていった。その背が見えなくなるまで見送った。
 名前なんか聞けなかった。
 でも、名門べステス家の嫡男で、いずれは騎士団団長にと目されている、貴族のご令嬢たちの憧れの的なのだというのは、すぐに知れた。
 よくよく注意してみれば、騎士団への差し入れは、ご令嬢たちからのものが多かった。それも、家人に任せず、わざわざ本人たちが出向いてくる。そうして、お礼を言うようにと呼び出された彼と、いくらか言葉を交わし、帰っていく。
 神殿にやってくるお嬢様方は、どの人も輝くような美しさだった。淡い色の髪に、明るい色合いの瞳、胸も尻もあるかなきかの薄い体で、楚々として歩く。
 間違っても、歩くだけで胸が上下に揺れるような女性は一人もいなかった。
 彼に好かれたいなどという、大それた望みは初めから持っていなかった。それどころか、視界に入るのすら申し訳なくて、彼の姿を見かければ、急いで物陰に退いて、そっと覗き見るのが関の山だった。
 朝起きれば、まず女神に今日一日の彼の安全を祈り、一日の終わりには、彼が無事でいてくれたことと、もしも姿を目にすることができれば、そのお礼を申し上げ、眠りにつく。
 この恋が叶うことはないが、彼の存在が胸の中にあるだけで、幸せな気分になれる。時々、切なくなりもするが、それでも、この気持ちを知らないで死んでいくより、ずっといいと思った。
 恋をして、女神が、人のこのような気持ちを守り慈しんでくださることの本当の意味を、知れたような気がした。
 リサはよりいっそう女神に感謝し、熱心に奉仕した。
 そうして、神殿に上がって二年が過ぎるころ、彼女は神官見習いから、下級神官へと正式に取り立てられたのだった。
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