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閑話集 四季折々
ソランの贈り物(バレンタインに寄せて)2
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そこには、異臭が充満していた。鼻を刺すそれは、匂いだけで苦いとわかるものだ。
けれど、殿下はそれにまったく注意を払わなかった。それどころか、異臭の元凶と思われる部屋へと足を速めていく。
居間の扉の前の護衛に目で合図をし、開け放たせると、立ち止まることなく入っていった。
「帰ったぞ、ソラン。待たせたな」
「お帰りなさいませ、アティス様」
ソランは暖炉の前から立ち上がって、彼の許に駆け寄ってきた。手には、今の今まで暖炉にかけられた鍋の中身を掻き回していたおたまが握られている。
殿下は彼女を抱き寄せて、一つ額に口付けると、そのおたまを見遣って、喉の奥で笑った。
「いい匂いがしているが、匂いの元はそれか?」
「はい! すぐに召し上がりますか? それともお着替えを?」
「いい。すぐに食べよう」
「では、こちらへ」
ソランは殿下の手を引いて、暖炉の前に案内した。居心地良くクッションなどが置かれてあり、その中へ殿下は収まった。
彼女は鍋を手前へと下ろし、用意してあった器に、中身を慎重によそう。そしてそこへ銀の匙を付けると、殿下へと差し出した。
「どうぞ。これでお疲れが取れるといいのですけど」
皆がその一瞬を、緊張の面持ちで見つめていた。非番のはずの侍女や、いつもなら扉で別れるディーや護衛も中に入り込み、壁際から怖々と見守っている。
殿下が吹き冷ましてから、匙を口へと運ぶ。舌にのせ、咀嚼して、飲み下す。
それからソランへと目をやり、にこやかに言った。
「うん。思ったより食べられる味だな。それに、とても効きそうだ」
「そうですか? よかったです。もう一杯いかがですか?」
「うん。貰おう」
殿下はぺろりとたいらげ、おかわり分も問題なく腹におさめた。
そうして、見守っていた人々へと振り返ると、傲慢に言い放った。
「いつまでいるつもりだ、おまえたち。私はソランの心遣いを無駄にする気はないのだ。さっさとそれぞれの仕事に戻らんか」
そこにソランが口を挿む。
「そうおっしゃっていただけるのは嬉しいですが、これを全部召し上がられるのは無理ですよ。たくさんで煮込んだ方が美味しいので、この分量になってしまっただけで」
「ああ。残りは後で他の者に分けてやればよい。そうではなくて、これはどのくらいで効いてくるものなのだ?」
「時間ですか? 消化が進めば、じわじわと体があたたまって……」
「ということだそうだ。急ぎ、湯の用意をしろ」
殿下はソランの説明の途中で、侍女たちに指示をした。
「お茶ですか? でしたらこちらに」
茶器を取ろうと離れていこうとしたソランの肩を抱き寄せ、殿下は彼女の耳元で囁いた。
「滋養強壮とは、積極的で嬉しいぞ、ソラン」
「え?」
ソランは不思議そうに殿下を見上げた。
「それにしても、よくわかったな。私がこの世で一番欲しいものを。口付け一つも満足にできなかったのに、ずいぶん成長したものだ」
「え、え? なにを」
「もちろん答えはおまえだが、違うとは言わないな、ソラン? 私の誕生日を遅ればせながら祝ってくれるのだものな? ああ、待った甲斐があったというものだ。今夜が楽しみだ。さあ、おまえもしっかりと食べておけ」
ソランの分の器を手に取った殿下に、ニヤリと笑いかけられて、彼女は彼の腕の中で、真っ赤になって固まったのだった。
その日の二人の夜は長かったとか、長くなかったとか。
「やれやれ。心配して損した」
それが、二人を囲む者たちの、偽らざる心の声だったことは確かだった。
けれど、殿下はそれにまったく注意を払わなかった。それどころか、異臭の元凶と思われる部屋へと足を速めていく。
居間の扉の前の護衛に目で合図をし、開け放たせると、立ち止まることなく入っていった。
「帰ったぞ、ソラン。待たせたな」
「お帰りなさいませ、アティス様」
ソランは暖炉の前から立ち上がって、彼の許に駆け寄ってきた。手には、今の今まで暖炉にかけられた鍋の中身を掻き回していたおたまが握られている。
殿下は彼女を抱き寄せて、一つ額に口付けると、そのおたまを見遣って、喉の奥で笑った。
「いい匂いがしているが、匂いの元はそれか?」
「はい! すぐに召し上がりますか? それともお着替えを?」
「いい。すぐに食べよう」
「では、こちらへ」
ソランは殿下の手を引いて、暖炉の前に案内した。居心地良くクッションなどが置かれてあり、その中へ殿下は収まった。
彼女は鍋を手前へと下ろし、用意してあった器に、中身を慎重によそう。そしてそこへ銀の匙を付けると、殿下へと差し出した。
「どうぞ。これでお疲れが取れるといいのですけど」
皆がその一瞬を、緊張の面持ちで見つめていた。非番のはずの侍女や、いつもなら扉で別れるディーや護衛も中に入り込み、壁際から怖々と見守っている。
殿下が吹き冷ましてから、匙を口へと運ぶ。舌にのせ、咀嚼して、飲み下す。
それからソランへと目をやり、にこやかに言った。
「うん。思ったより食べられる味だな。それに、とても効きそうだ」
「そうですか? よかったです。もう一杯いかがですか?」
「うん。貰おう」
殿下はぺろりとたいらげ、おかわり分も問題なく腹におさめた。
そうして、見守っていた人々へと振り返ると、傲慢に言い放った。
「いつまでいるつもりだ、おまえたち。私はソランの心遣いを無駄にする気はないのだ。さっさとそれぞれの仕事に戻らんか」
そこにソランが口を挿む。
「そうおっしゃっていただけるのは嬉しいですが、これを全部召し上がられるのは無理ですよ。たくさんで煮込んだ方が美味しいので、この分量になってしまっただけで」
「ああ。残りは後で他の者に分けてやればよい。そうではなくて、これはどのくらいで効いてくるものなのだ?」
「時間ですか? 消化が進めば、じわじわと体があたたまって……」
「ということだそうだ。急ぎ、湯の用意をしろ」
殿下はソランの説明の途中で、侍女たちに指示をした。
「お茶ですか? でしたらこちらに」
茶器を取ろうと離れていこうとしたソランの肩を抱き寄せ、殿下は彼女の耳元で囁いた。
「滋養強壮とは、積極的で嬉しいぞ、ソラン」
「え?」
ソランは不思議そうに殿下を見上げた。
「それにしても、よくわかったな。私がこの世で一番欲しいものを。口付け一つも満足にできなかったのに、ずいぶん成長したものだ」
「え、え? なにを」
「もちろん答えはおまえだが、違うとは言わないな、ソラン? 私の誕生日を遅ればせながら祝ってくれるのだものな? ああ、待った甲斐があったというものだ。今夜が楽しみだ。さあ、おまえもしっかりと食べておけ」
ソランの分の器を手に取った殿下に、ニヤリと笑いかけられて、彼女は彼の腕の中で、真っ赤になって固まったのだった。
その日の二人の夜は長かったとか、長くなかったとか。
「やれやれ。心配して損した」
それが、二人を囲む者たちの、偽らざる心の声だったことは確かだった。
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