暁にもう一度

伊簑木サイ

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閑話 ルティンの恋

9-1

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 それから数日は、囚われというには穏やかな、アリエイラが今まで過ごしたこともないような日々だった。

『ただいま戻りました』

 ルティン・コランティアは午前中いっぱいをアリエイラと過ごし、たいてい午後になると『仕事』に出かけていく。そして彼は小屋に『帰って』くる度に、こうやって律儀に挨拶に来るのだった。

 他にエーランディア語を解する者がいないことからくる、気遣いなのだろう。水が欲しい、それすら今のアリエイラには伝える術がないのだから。もしかしたら、ここにいる護衛の全員がエーランディア語を解するのかもしれなかったが、どんなによく観察しても、それを悟らせるような者はいなかった。

 彼女は窓辺から立ち上がり、扉へと近付いた。無視できる立場にはない。呼ばれれば返事をするしかなかった。
 しかし、なんと言えばいいのか思いつかず、いつも黙ったまま開けて、にこにこしている彼を見上げるだけだ。アリエイラはここに囚われているのだ。ただいま戻りましたと言われたからといって、おかえりなさいと言うのは、あまりに馬鹿げているだろう。
 それがわかっていないはずはないのに、彼はそれを繰り返す。この頃は、この笑顔も時々胡散臭く感じる。アリエイラが困惑しているのを見抜いて、楽しんでいるような気がするのだ。

 それを疑い始めたのは、元部下たちに喝を入れに行った時だった。何気ない仕草だった。フードを被れと一言言えばいいものを、彼はわざわざ自ら被せてくれたのだ。
 よく見えない左から先に手が伸びてきたせいで、反応が遅れたのもある。そういえば、外に出る時はフードを被れと言われていたと思い出した頃には、彼の両腕の中に囲われていた。
 囲われていたと言うのはおかしいかもしれない。フードの端に手が添えられていただけだったから。だが、彼の腕にまわりが遮られて、近くにある彼の顔しか見えなかった。美しく、優しく、気遣う彼の顔しか。

 間近に見てしまったとたん、もう慣れたと思っていたのに、またもや息が止まった。恐らく心臓も一、二拍止まったのだろう。きゅうっと胸が痛み、その後、取り戻すかのように全力疾走していた。
 半ば呆然と彼を見ていた。その美しさに、まさに魂を奪われていた。すると彼は笑った。それはもう、それまで見た中でも最極上と言える笑顔で、とても楽しげに。
 おかげで魂が体から抜け出した。あれはそういう状態だったのだと思う。周囲が遠くなり、自分の体も遠くなり、浮遊感の中で鋭敏になった意識が彼だけに囚われる。それはとてつもなく甘美な感覚で、彼がウィシュタリア語で護衛に何事か話すまで続いた。

 いや、今も。それだけではない。離れていてさえ、彼の美貌が脳裏を過ぎれば、心に灯が点る。あたたかい何かに満たされる。
 これが本物の神の祝福の威力なのだろう。この恩寵は、きっと死の瞬間までアリエイラを慰め、満たし続けると確信できた。

 だが、神の祝福が宿っているのが人間だということの意味を、考えずにはいられない。たぶん、やろうと思えば、それを意識して扱うことができるのだろう。幸いそれほど悪用する人物には見えないが、彼はどうやら自分の顔の威力を、よく理解しているらしかった。

 そう気付いてみれば、仕草がどれもこれも女慣れしていた。差し伸べる手も自然で、つい何度も重ねてしまったくらいだ。これだけの顔で、これだけの人物だ。母国で女が放っておいたわけがない。
 その割に、浮ついた感じがないから、もしかしたら、歳からいって妻がいるのかもしれなかった。いずれにしても、女の扱いには長けている。

 アリエイラだとて、暑苦しくむさ苦しい部下たちの扱いや、かしずきながら蔑む貴族たちへの対応は慣れていた。が、彼女をまっとうに女性扱いする人物に、どういう態度をとればよいのかは、初めての経験で見当もつかない。
 実はアリエイラは、未だかつて彼女を女性扱いできる男に、彼以外にお目にかかったことがなかったのだ。恐らく彼はその祝福を有効に使うことにより、アリエイラを女性扱いできるのだろう。
 いずれにしても彼女には、どうにも分の悪い勝負だとしか思えなかった。こうやって、笑顔一つで翻弄されるしかないとは。

『よろしければ、庭に出ませんか?』

 今日は少し早く帰って来たようだ。夕飯までには、まだ時間がある。彼はなにくれとなく、こうやって気を遣う。少しでもアリエイラが快適にすごせるようにと。それを感じ取るたびに、気詰まりになる。いっそ、もっと虜囚らしく扱われた方が気楽だった。アリエイラがしてきたことに対して、あまりに不相応だとしか思えなかった。

『いや、私はけっこうだ。お疲れだろう。ゆっくり過ごされよ』
『いいえ、屋内で細かい仕事ばかりだったので、できたら体を伸ばしたいのです。ご一緒願えませんか?』

 動かずに部屋に篭りきりになると、精神も健康を保てないのは、アリエイラも知っていた。母がそうやって病んでいったのを、何年も見ていたのだ。
 嫌なことを思い出し、気の逸れた彼女の顔を覗き込むように、彼が体を傾げた。美貌が近付く。

『どうしてもいやですか?』

 彼は話術も巧みだ。卑怯なくらい逃げ道を奪っていく。アリエイラは溜息を噛み殺して答えた。

『そんなことはない』
『では、まいりましょう』

 彼は手を差し伸べることはせず、その代わり扉を大きく開け放って、手で外へと誘ってみせる。アリエイラはまたもや断れずに、彼の後についていくことになった。
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