暁にもう一度

伊簑木サイ

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閑話 ルティンの恋

6-1

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『聖王を殺した後、宮殿内にいる有力者をついでに殺しまわっていたところに、バルトローがやってきた。部下が迎えに来ている、逃げるぞ、と言われたが、私は拒否した。咎は私一人でじゅうぶんだったからだ。その後のことは、記憶に無い。三人がかりで襲い掛かられて気絶させられた。次に目が覚めた時には、船底に両手両足を縛られて転がされていた。猿轡まで噛まされてな。後は先日伝えたとおりだ。死んだ者は腐る前に海に流した。海流に流されるまま漂流して、そちらの船に拾われた』

 話し終えたウルティア将軍は、海を見たまま押し黙った。
 植民地と国の現状を憂いての行動だったのだと、彼女は語った。バルトロー総督は、植民地にとって最後の守り手であって、彼を巻き込むつもりはなかったとも。

 ルティンは彼女の容姿を改めて見返した。彼女の異相は目立ちすぎる。髪は染められたとしても、瞳の色までは変えられない。信仰の対象でもあったという聖王を殺したとなれば、その後いくら覇権を握ったとしても、彼女はエーランディアでは安心して暮らせなくなる恐れがあった。なぜなら、後継争いの相手ばかりでなく、聖王を本気で信仰していた庶民までが、彼女に復讐を誓ってもおかしくないのだから。

 そして言うまでもなく、エランサ大陸では、ウルティアの名は最も恐れられ憎まれている敵将の名だ。まして、交戦中のウィシュタリアに渡るなど、考えられるわけもない。
 聖王を殺せば、彼女にこの世界で生きていける場所など無くなる。そうなるとわかっていて、彼女は行動に出たのだ。だからこそ、ついでと言いながら、聖王の側近たちも殺そうとすることができたのだろう。そういった状況で、自分の命を勘定に入れない人間ほど手強い者はいないだろうから。

 ルティンは、バルトローが兄弟の情だけで彼女を逃したとは思っていなかった。それでも、ウィシュタリアに託すこの状況が、彼女が生き残れる確率の一番高い道だ。同時に彼の意思を伝え、こちらを牽制することもできる。そしてあわよくば、ウィシュタリアがウルティアとあの首を使って、聖王への信仰を打ち消すことも期待しているのかもしれなかった。
 聖人エーランディアの許へ、軍神ウルティアが、聖王の首を取って帰参すれば、聖王の聖性は否定されることになる。それは聖王派の求心力を奪い、バルトローへの援護となるだろう。

 そう。もし、ウルティアと聖王の首を手に入れられず、ただ、エーランディア内乱、という情報を掴んでいたら、ウィシュタリアは怒涛のように植民地に襲い掛かっていたかもしれなかった。
 だが、聖王亡き後、植民地を放棄する意志のある者が覇権を握る可能性があるとすれば、ウィシュタリアは待つだけで、無傷で植民地を取り戻すことができる。
 それが成らなかったとしても、内戦でいくらかでも潰し合ってくれれば、それは即ちウィシュタリアの利だ。しかも、最大の障害のウルティアを手に入れ、植民地の要とされるバルトローもいなくなれば、植民地攻略はずっと楽になる。いずれにしても、数ヶ月ほど待ったところで、こちらには大した損もないのだ。

 ルティンには、王と姉がどういった選択をするのかはわからなかった。
 王はダニエル・エーランディアを聖国の新王にする気はない。なんの基盤もないところで王位に就くなどという建国に等しいことを、部下に押し付けるような人ではない。あの根っからの風来人気質のダニエル・エーランディアが最も望まないことでもあった。だとすれば、ウルティアの扱いも微妙なものにならざるを得ないだろう。

 いずれにせよ、残存勢力が問題になる。バルトローが覇権を握れるのか、それとも別の誰かが出てくる可能性が高いのか。それによって、こちらの取る道は大きく変わってくるのだから。

『エーランディア国内に残存する主要勢力が、どこにどのくらいあるかわかりますか?』

 ルティンはその問いを断られるとは思っていなかった。それがあれば、こちらは最悪、軍事介入して内乱状態を長引かせることすらできるような有益な情報だ。だからこそ、彼女は教えてくれるだろう。彼女にはわかっているはずだ。中途半端な所行は事態を長引かせ、泥沼化させることにしかならないと。
 彼女はルティンへと振り返った。美しい赤と金茶の瞳が、ルティンに向けられた。食い殺しそうな強い瞳で、彼女はあっさりと言った。

『二ヶ月以上前の情報でよいなら』
『けっこうです』
『では、書くものを貸してくれ。自分で書いた方が漏れがないだろう』
『わかりました。一度、食堂へ戻りましょうか。テーブルの上の方が書き易いでしょう』
『そうだな』

 ルティンは先に立ち上がり、ウィシュタリアでの女性への礼儀作法通りに彼女へと手を差し伸べた。彼女が無表情ながらも困惑気味に自分の手を見ているのを見て、うっかりしたと、自分の行動に苦笑した。
 引っ込めようかとも思ったが、彼女が穴が空くほど見詰めている様子に、悪戯めいた思いがわきあがる。そのまま差し出し続けて数十秒。彼女は躊躇いがちにその上に手を持ってきて、触れる寸前に止めてルティンを見上げた。それまで見せたことのない、どこか幼い頼りなげな表情に、ルティンは心の底から笑みが浮かんでくるのを抑えられなかった。
 見守る先で、彼女も微かに唇をゆるませた。先ほども見せた、微笑みとまではいかないそれが、たぶん彼女の笑顔なのだ。瞳に宿る鋭さが消え、穏やかな色を浮かべている。
 そう気付いた瞬間、胸の内が熱くなり、ルティンは自分から彼女の手を握った。

 聖王を殺して逃げ出してきたとはいえ、敵国の将だ。しかも取り調べの対象者だ。個人的な感情を抱くべきではない。けれど、どうしても、彼女をただの他人とは思い切れなかった。彼女はどこか、あまりにも最愛の姉に似ていた。
 彼女はそっと目を伏せた。顔には少しも出ていないのに、ルティンには彼女が照れて恥らっているのがわかった。
 こうしていれば、普通の可愛い女性なのだ。たとえその手が剣だこだらけであろうとも。不器用にしか笑えなくても。
 ルティンは、彼女を見下ろしながら、胸が焼けつく思いに駆られた。
 この人を守りたい、と。

 ルティンには彼女の行く末を決めることは許されていない。彼は今、情報を得るためにここにいるのだ。上に上げる報告書に、ルティンのどんな感情も混ぜてはいけなかった。正しい情報だけが賢明な判断をもたらす。姉や王に歪んだ情報で道を誤らせるわけにはいかないのだ。それは王の部下としても、一個人としても、彼の矜持が許さなかった。
 それでも、守れるものはあるはずだった。

 ルティンはゆっくりと掴んだ手を引いた。それに促されて彼女の顔も上がり、再び見詰め合う。赤と金茶の瞳の奥に、確かに水底の揺らめきが見えた。
 ああ。これだ。これだけは決して穢しても貶めてもいけない。
 ルティンは、彼女の手を両手で守るように包み込んだ。
 逆境の中でも清冽さを失わない、その魂を、包むように。
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