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閑話集 こぼれ話
幸せのカタチ
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その日、その時、それは偶然だった。宰相と将軍と筆頭補佐官が、それぞれ大量の書類を部下に持たせて、同時に王の執務室を訪れたのだ。
王はそれを目にして渋面をつくり、執務机の上にペンを放り出した。
「休憩だ! 休憩! おまえたち、全員下がれ!」
「急ぎでございます」
「申し訳ございません、早急にお取り計らいいただきたいことが」
「陛下が今すぐ持ってこいと仰った資料を、汗だくで駆けずりまわって集めて参ったんですが」
クライブ・エニシダ宰相は歳をくったくせに未だにキラキラしく笑い、王が軍に入ったやんちゃな頃から知っているアドリード・セルファス将軍は敬いながらも動じず、ほんの幼い頃から王の尻拭いばかりしてきたディー・エフィルナン筆頭補佐官は嫌味を交えて、三人そろって王に書類を突きつけた。
王は椅子にふんぞり返って、隣に座る王妃の手を取って弄びながら、目を眇めて傲慢そのものな顔をした。
「出て行け」
「仕方ございませんね。では三分だけ」
宰相の揶揄しているとしか思えない妥協案に、王はニヤリと笑って完全に臍を曲げた。
「三十分だ。行け。それともケツを蹴っ飛ばされたいか?」
宰相は机の上に書類を載せさせ、隣で困った顔をしている王妃に向き直り、
「では、三十分で、よろしくお願いいたします」
キラキラッと笑いかけると、会釈して踵を返した。将軍も優雅に礼をし、筆頭補佐官は肩をすくめて王妃に同情するような笑みを向けると、黙って出て行った。
王は室内の護衛も女官も補佐官も片手の一振りで外へ追い出すと、妃の手を強く引いた。
「陛下」
少々咎めた声音に、王は眉間に皺を刻んだ。席を立って傍に立った妃の腰に手をまわし、膝の上に抱き上げる。
「ソラン、ちゃんと人払いはしたぞ?」
言外にいろいろなことを催促する。人前でキスされるのは嫌だと真っ赤な顔の妃に何度か突き飛ばされて、いつでもどこでもする前に、人払いをすることにした。仕事中はけじめをつけたいから『陛下』(当初は『殿下』であったが)と呼びたいというのも許した。膝の上に抱き上げたまま仕事するというのも、上目遣いの泣きそうな顔で拒否されて、思わず折れてしまった。
これ以上は譲れない。譲れるわけがない。王位に就いたのも、そのせいで毎日次から次に湧き起こって終わりの無い面倒事を処理するのも、全部、彼女を可愛がってかまい倒して口付けて抱き締めて眠るためだ。それができないのなら、本末転倒も甚だしいことで、苦労している意味が無い。
今日とて、朝起きがけに口付けて以来、半日もしていない。もう我慢の限界だった。
彼女のうなじを撫でると、ぴくりと肩を揺らし、伏せていた目を上げた。拗ねたような、困ったような、恥ずかしがっている表情にひどくそそられる。どうして彼女は何年経っても慣れず、いつまでも初々しいのだろう、と思う。
彼女は自然に王の首に腕をまわし、諦めたように身を寄せた。
口付けようと顔を寄せると、素直に目を瞑る。唇に触れ、それが深まっていくにつれ、確信を深める。
彼女が今も初々しいのは、きっと、自分が一秒ごとに彼女に惚れ直すように、彼女もまた、恋に落ちてくれているからなのだろう、と。
彼女と触れ合っていると、心が満たされていく。考え疲れ、体が強張るほど溜まっていた鬱憤が霧散する。そんなものは、彼女を愛していると自覚し、彼女に愛されていると実感できている時には、些細なことでしかない。
これがあるから、死ねないのだ。死にたくなければ、働くしかない。愛しい彼女を失わないために。一分一秒でも長く共に生きるために。
夢中で味わっていたのに、不躾に執務室の扉がノックされた。妃が我に返って身動ぎした。王は突き飛ばされる前に、しかたなく身を引いた。
「マリー・イェルクでございます」
旧姓を名乗る子供たちの乳母の声がした。それでまた夫婦喧嘩をしたのだと知れた。今度はイアルはどんな失言をしたのか。王が知りうる限り直近の喧嘩の理由は、確か、君の一番素敵なところは、その大きな胸だ、だった。
やっと口を利いてもらえるようになったばかりなのに、また口を滑らせたのだ。馬鹿な奴だ。あいつはソツがないようで、実はソツだらけなのだからな、と笑ってしまいそうになる。
コツコツと小さなノックの音も、下の方から幾つも聞こえた。両親の休憩を聞きつけて、子供たちがやってきたのだ。
このところ忙しすぎて、子供たちとは朝食しか共にしていない。ソランも同じだ。ディーあたりが気をまわして呼び寄せたに違いない。
「入れ」
返事をすると、妃が出迎えようと膝の上から降りていく。その手を捕らえ、ソラン、と呼ぶ。
「はい、アティス様?」
きょとんとしながらも、彼女がやっと自分の名を呼んだことに満足する。思わず笑むと、彼女も幸せそうに美しい笑みを浮かべた。こみ上げた気持ちを捕らえた指先に唇で落とすに止め、自分も立ち上がる。
「私も行こう」
扉が開き、子供たちが駆け込んできた。一番下のハルティアが転んで泣きだす。あっという間に部屋の中が騒がしくなった。
王はそれを見て、優しく笑った。彼が苦難の末に手に入れた幸せが、そこに確かに幾つも息づいているのだった。
王はそれを目にして渋面をつくり、執務机の上にペンを放り出した。
「休憩だ! 休憩! おまえたち、全員下がれ!」
「急ぎでございます」
「申し訳ございません、早急にお取り計らいいただきたいことが」
「陛下が今すぐ持ってこいと仰った資料を、汗だくで駆けずりまわって集めて参ったんですが」
クライブ・エニシダ宰相は歳をくったくせに未だにキラキラしく笑い、王が軍に入ったやんちゃな頃から知っているアドリード・セルファス将軍は敬いながらも動じず、ほんの幼い頃から王の尻拭いばかりしてきたディー・エフィルナン筆頭補佐官は嫌味を交えて、三人そろって王に書類を突きつけた。
王は椅子にふんぞり返って、隣に座る王妃の手を取って弄びながら、目を眇めて傲慢そのものな顔をした。
「出て行け」
「仕方ございませんね。では三分だけ」
宰相の揶揄しているとしか思えない妥協案に、王はニヤリと笑って完全に臍を曲げた。
「三十分だ。行け。それともケツを蹴っ飛ばされたいか?」
宰相は机の上に書類を載せさせ、隣で困った顔をしている王妃に向き直り、
「では、三十分で、よろしくお願いいたします」
キラキラッと笑いかけると、会釈して踵を返した。将軍も優雅に礼をし、筆頭補佐官は肩をすくめて王妃に同情するような笑みを向けると、黙って出て行った。
王は室内の護衛も女官も補佐官も片手の一振りで外へ追い出すと、妃の手を強く引いた。
「陛下」
少々咎めた声音に、王は眉間に皺を刻んだ。席を立って傍に立った妃の腰に手をまわし、膝の上に抱き上げる。
「ソラン、ちゃんと人払いはしたぞ?」
言外にいろいろなことを催促する。人前でキスされるのは嫌だと真っ赤な顔の妃に何度か突き飛ばされて、いつでもどこでもする前に、人払いをすることにした。仕事中はけじめをつけたいから『陛下』(当初は『殿下』であったが)と呼びたいというのも許した。膝の上に抱き上げたまま仕事するというのも、上目遣いの泣きそうな顔で拒否されて、思わず折れてしまった。
これ以上は譲れない。譲れるわけがない。王位に就いたのも、そのせいで毎日次から次に湧き起こって終わりの無い面倒事を処理するのも、全部、彼女を可愛がってかまい倒して口付けて抱き締めて眠るためだ。それができないのなら、本末転倒も甚だしいことで、苦労している意味が無い。
今日とて、朝起きがけに口付けて以来、半日もしていない。もう我慢の限界だった。
彼女のうなじを撫でると、ぴくりと肩を揺らし、伏せていた目を上げた。拗ねたような、困ったような、恥ずかしがっている表情にひどくそそられる。どうして彼女は何年経っても慣れず、いつまでも初々しいのだろう、と思う。
彼女は自然に王の首に腕をまわし、諦めたように身を寄せた。
口付けようと顔を寄せると、素直に目を瞑る。唇に触れ、それが深まっていくにつれ、確信を深める。
彼女が今も初々しいのは、きっと、自分が一秒ごとに彼女に惚れ直すように、彼女もまた、恋に落ちてくれているからなのだろう、と。
彼女と触れ合っていると、心が満たされていく。考え疲れ、体が強張るほど溜まっていた鬱憤が霧散する。そんなものは、彼女を愛していると自覚し、彼女に愛されていると実感できている時には、些細なことでしかない。
これがあるから、死ねないのだ。死にたくなければ、働くしかない。愛しい彼女を失わないために。一分一秒でも長く共に生きるために。
夢中で味わっていたのに、不躾に執務室の扉がノックされた。妃が我に返って身動ぎした。王は突き飛ばされる前に、しかたなく身を引いた。
「マリー・イェルクでございます」
旧姓を名乗る子供たちの乳母の声がした。それでまた夫婦喧嘩をしたのだと知れた。今度はイアルはどんな失言をしたのか。王が知りうる限り直近の喧嘩の理由は、確か、君の一番素敵なところは、その大きな胸だ、だった。
やっと口を利いてもらえるようになったばかりなのに、また口を滑らせたのだ。馬鹿な奴だ。あいつはソツがないようで、実はソツだらけなのだからな、と笑ってしまいそうになる。
コツコツと小さなノックの音も、下の方から幾つも聞こえた。両親の休憩を聞きつけて、子供たちがやってきたのだ。
このところ忙しすぎて、子供たちとは朝食しか共にしていない。ソランも同じだ。ディーあたりが気をまわして呼び寄せたに違いない。
「入れ」
返事をすると、妃が出迎えようと膝の上から降りていく。その手を捕らえ、ソラン、と呼ぶ。
「はい、アティス様?」
きょとんとしながらも、彼女がやっと自分の名を呼んだことに満足する。思わず笑むと、彼女も幸せそうに美しい笑みを浮かべた。こみ上げた気持ちを捕らえた指先に唇で落とすに止め、自分も立ち上がる。
「私も行こう」
扉が開き、子供たちが駆け込んできた。一番下のハルティアが転んで泣きだす。あっという間に部屋の中が騒がしくなった。
王はそれを見て、優しく笑った。彼が苦難の末に手に入れた幸せが、そこに確かに幾つも息づいているのだった。
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