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閑話集 こぼれ話
思いのままに1
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どこがどう目印なのかわからぬほどの深い森を抜け、馬の手綱を牽かなければ登れぬような斜面を登り、獣道とも言えない道なき道を辿って、突然開けた視界は圧巻だった。
新芽の柔らかな緑に包まれた大地が豊かにうねり、林や森、家々や牧場が点在しているのが見える。その向こうには、眼前いっぱいに、雪を頂いたハレイ山脈がそそりたっていた。
その峻厳な様に言葉を失って立ち尽くした。ひどく自分がちっぽけなものに感じられた。
「殿下?」
「違う」
はっと我に返る。というより、その呼び名にむっとしたのだ。自分を『殿下』などと他人行儀に呼んだソランは、誤魔化すように目をそらして家々を指差した。
「あれが領主館です。もうすぐですよ」
「ちょっとこっちへ来い」
ソランは渋々といった様子でやってきた。先に馬を降りて待つと、しかたなさそうに彼女も降りて目の前に立つ。
「わかっています。すみません。間違えました。アティス様」
上目遣いで先手を打って謝ってくる。その仕草は男心をくすぐるのに充分だったが、どこか、面倒だ、という思惑が透けて見えていた。たかが呼び方一つで、と思っているのがよくわかる。
普通、恋人なら特別に許された呼び名を喜ぶものではないのか。どうもソランはその辺の情緒が欠落している。時々、騎士見習いに入ったばかりの子供を相手にしているような気になる時がある。いや、彼らの方が、よっぽど色気づいているだろう。女性が傍にいれば、張り切ってみせたりするくらいの可愛げがあるのだから。
溜息がこぼれる。
このままでは、ディーの言うとおり、生涯の呼び名は『殿下』から『陛下』に変わるだけになってしまうだろう。
『そうでなければ、いいところ、お父様、とか、お祖父様、でしょうかねえ』
いい気味そうに言っていたのを思い出し、よけいに腹が立った。
たかが呼び名だ。相手が誰だかわかればいい。それは承知していたが、されど呼び名なのだった。ソランが『アティス』と口にのせる度、どこか面映そうにするのが、たまらなくイイ感じなのだった。
そこで、一計を案じてみる。
「どうしてそう、他人行儀なのだ。私はそれほどおまえにとって気を許せない人間か?」
「違います!」
どうしてそんなことを言うのだ、とばかりに悲しそうな顔をする。それを見て、瞬時に後悔した。怒らせるつもりだったのだ。少し前のソランなら、そんな言い方は卑怯です、とでも言って、眦を吊り上げただろうに。
「すまない」
手を伸ばして、うなだれている頭を撫でる。
「まだ、言い馴れなくて。それで」
「うん。わかってる。私が言い過ぎた」
まったく、どうしてこれほど可愛いのだろうか。思わず抱き寄せようとしたら、なぜか、胸に手をついて突っぱねられた。恥じらってうろたえた顔をしている。
「ソラン?」
「だめ。駄目です。気配は読めませんけど、絶対に誰かがどこかで見張っているはずなんです」
「それが?」
見張っているとは、領地の境の見張りのことだろうか。ソランでさえ気配が読めないとは、さすがジェナシスの領民である。凄腕だと感心した。
「それが、じゃないです! お願いですから、人前で抱き締めたり、く、口付けたりは絶対に控えてください」
「いやだ」
出発前にもぐずぐず言っていたが、まったく意味がわからない。
「常識的に考えてください、恥ずかしいでしょう!」
「なぜ? わたしたちが愛し合っているのは、恥ずかしいことか?」
ソランは真っ赤になって絶句し、涙目になった。あまりの可愛らしさに、さっきの続きで抱き寄せようとするのに、今にも泣きそうにして必死になって突っぱねている。
「ソラン。私は寸暇も惜しい。一瞬でも多くおまえと甘い時を分かちあいたいのだ。おまえは違うのか?」
「お願いです。時と場所を選んでください」
「選んでいる暇はない」
ソランの領地に婚約の報告に行くと決まって以来、こんな会話を何度繰り返しただろう。堂々巡りで、少しも歩み寄れないのはなぜか。
時々、ソランとはそういうことがある。どうにも話が通じないのだ。それはべつに不快ではなかった。ものすごく、不思議だ、という気分にはなるが。
「どうやらお迎えが来るようですよ」
ディーの報告を聞いたとたん、ソランは鮮やかに私の手を振りきり、飛び退っていた。惚れ惚れとする身のこなしだった。
「とにかく! ここは、私の領地です! ア、アティス、様、は、自重願います!」
そのソランの様子に、これ以上の深追いは獲物を逃すだけだろうと感じて、とりあえず頷く。
「わかった。私の常識の範囲内で」
「ないものを約束しても」
ぽろりと呟いたディーを睨みつける。よけいなことを言いおって。それに私は常識的だ。
そうしている間に、ソランは己の目元を拳でぐいっと拭い、逃げるようにして馬に飛び乗って、迎えに出てきた者たちの方へ駆けていってしまった。その後を、イアルが追いかける。
私はディー以下総勢五人の護衛を引き連れ、ゆっくりとそちらへと向かった。
新芽の柔らかな緑に包まれた大地が豊かにうねり、林や森、家々や牧場が点在しているのが見える。その向こうには、眼前いっぱいに、雪を頂いたハレイ山脈がそそりたっていた。
その峻厳な様に言葉を失って立ち尽くした。ひどく自分がちっぽけなものに感じられた。
「殿下?」
「違う」
はっと我に返る。というより、その呼び名にむっとしたのだ。自分を『殿下』などと他人行儀に呼んだソランは、誤魔化すように目をそらして家々を指差した。
「あれが領主館です。もうすぐですよ」
「ちょっとこっちへ来い」
ソランは渋々といった様子でやってきた。先に馬を降りて待つと、しかたなさそうに彼女も降りて目の前に立つ。
「わかっています。すみません。間違えました。アティス様」
上目遣いで先手を打って謝ってくる。その仕草は男心をくすぐるのに充分だったが、どこか、面倒だ、という思惑が透けて見えていた。たかが呼び方一つで、と思っているのがよくわかる。
普通、恋人なら特別に許された呼び名を喜ぶものではないのか。どうもソランはその辺の情緒が欠落している。時々、騎士見習いに入ったばかりの子供を相手にしているような気になる時がある。いや、彼らの方が、よっぽど色気づいているだろう。女性が傍にいれば、張り切ってみせたりするくらいの可愛げがあるのだから。
溜息がこぼれる。
このままでは、ディーの言うとおり、生涯の呼び名は『殿下』から『陛下』に変わるだけになってしまうだろう。
『そうでなければ、いいところ、お父様、とか、お祖父様、でしょうかねえ』
いい気味そうに言っていたのを思い出し、よけいに腹が立った。
たかが呼び名だ。相手が誰だかわかればいい。それは承知していたが、されど呼び名なのだった。ソランが『アティス』と口にのせる度、どこか面映そうにするのが、たまらなくイイ感じなのだった。
そこで、一計を案じてみる。
「どうしてそう、他人行儀なのだ。私はそれほどおまえにとって気を許せない人間か?」
「違います!」
どうしてそんなことを言うのだ、とばかりに悲しそうな顔をする。それを見て、瞬時に後悔した。怒らせるつもりだったのだ。少し前のソランなら、そんな言い方は卑怯です、とでも言って、眦を吊り上げただろうに。
「すまない」
手を伸ばして、うなだれている頭を撫でる。
「まだ、言い馴れなくて。それで」
「うん。わかってる。私が言い過ぎた」
まったく、どうしてこれほど可愛いのだろうか。思わず抱き寄せようとしたら、なぜか、胸に手をついて突っぱねられた。恥じらってうろたえた顔をしている。
「ソラン?」
「だめ。駄目です。気配は読めませんけど、絶対に誰かがどこかで見張っているはずなんです」
「それが?」
見張っているとは、領地の境の見張りのことだろうか。ソランでさえ気配が読めないとは、さすがジェナシスの領民である。凄腕だと感心した。
「それが、じゃないです! お願いですから、人前で抱き締めたり、く、口付けたりは絶対に控えてください」
「いやだ」
出発前にもぐずぐず言っていたが、まったく意味がわからない。
「常識的に考えてください、恥ずかしいでしょう!」
「なぜ? わたしたちが愛し合っているのは、恥ずかしいことか?」
ソランは真っ赤になって絶句し、涙目になった。あまりの可愛らしさに、さっきの続きで抱き寄せようとするのに、今にも泣きそうにして必死になって突っぱねている。
「ソラン。私は寸暇も惜しい。一瞬でも多くおまえと甘い時を分かちあいたいのだ。おまえは違うのか?」
「お願いです。時と場所を選んでください」
「選んでいる暇はない」
ソランの領地に婚約の報告に行くと決まって以来、こんな会話を何度繰り返しただろう。堂々巡りで、少しも歩み寄れないのはなぜか。
時々、ソランとはそういうことがある。どうにも話が通じないのだ。それはべつに不快ではなかった。ものすごく、不思議だ、という気分にはなるが。
「どうやらお迎えが来るようですよ」
ディーの報告を聞いたとたん、ソランは鮮やかに私の手を振りきり、飛び退っていた。惚れ惚れとする身のこなしだった。
「とにかく! ここは、私の領地です! ア、アティス、様、は、自重願います!」
そのソランの様子に、これ以上の深追いは獲物を逃すだけだろうと感じて、とりあえず頷く。
「わかった。私の常識の範囲内で」
「ないものを約束しても」
ぽろりと呟いたディーを睨みつける。よけいなことを言いおって。それに私は常識的だ。
そうしている間に、ソランは己の目元を拳でぐいっと拭い、逃げるようにして馬に飛び乗って、迎えに出てきた者たちの方へ駆けていってしまった。その後を、イアルが追いかける。
私はディー以下総勢五人の護衛を引き連れ、ゆっくりとそちらへと向かった。
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