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第十章 バートリエ事変
閑話 『英雄』たちの舞台裏3
しおりを挟むソランは部屋の隅で蹲り、一人で苦しそうに嘔吐いていた。湯を浴びる為に使う水差しを手元に置き、そこを覗き込むようにして屈んでいる。マントや手袋や手甲や脛当ては外され、きちんと整えられて床に広げた布の上に置かれていたが、胴や直垂は着けたままの姿だった。
黙って歩み寄り、胴の袷を解いて、吐き気が引くのを見計らって、上へと引き抜いてやる。
されるままにしていたソランが力なく振り返り、彼を認めて目を見開くと、顔を隠すようにして勢いよく俯いた。声を絞り出して小さな叫び声をあげる。
「出て行ってください!」
それには取り合わず、彼は直垂の留め具もはずした。すぐに体から取り去ってやる。これで少しは楽になったはずだが、再びソランは口を押さえて体を丸めた。堪えても零れ落ちる呻き声を漏らしながら。
アティスは堪らずにソランを背なから抱きしめた。我が事のように辛く苦しくて堪らなかった。
「……ぃやっ。一人にしてっ、くださ、い」
言葉を途切れさせながら必死に訴えてくるそれをはねつける。
「駄目だ。一人にはしない」
ソランはもがいた。
「いや。いやだ。離して」
無意識なのだろう、頼りない涙声をあげながら、肩で息をし、アティスの手を振り切ろうとした。
「ソラン」
触れた全身から、震えが伝わってくる。彼女の怯えと混乱が手に取るようにわかった。
緊張が解け、高揚が過ぎ去り、本来の自分に戻ってしまったのだろう。たった一人で七百人からの男を脅しつけ、屈服させようと、彼女はまだ十六の娘にすぎない。恐ろしくなかったはずがないのだ。
「いやだ。いや。いや。イアルッ」
他の男の名を呼ぶ口を、手で塞いだ。彼女が助けを求めるのが自分でないことに傷つき、苛立った。そこによけいな含みがないと知りつつ、それでも嫉妬した。
「おまえには、私だけだっ」
耳元できつく言い放つ。ソランがびくりとひときわ大きく体を震わせ、すすり上げるような息をした。
こんな状態の彼女を追い詰めてどうするのだと自分を罵りつつ、譲れないのだと心が叫んでいた。
ソランは急に体を強張らせ、必死でアティスの手を口から外そうとした。気付いて退けてやると、水差しに向かって嘔吐く。朝早くに消化の良いものを食べたきりだ。吐く物など胃の中にありはしない。ただ胃液が食道を焼き、熱く苦く苦しいだけなのだろう。長く続いた緊張に、臓腑がおかしくなってしまっているのだ。
はあはあと肩を上下させながら、ソランは搾り出すように懇願を吐き出した。
「見ないでくださいっ」
一人で蹲って拒絶する。それは、怪我した獣が他を寄せつけず、一匹で傷を癒すのに似ていた。
彼女は確かに強い。体も、心も。一人で放っておいても、じきにいつもの闊達さを取り戻すだろう。
だが、そうだとしても、アティスはソランを放っておくことができなかった。目の届かないところで彼女が苦しむことに耐えられなかった。
「見ていたいんだ」
「こんなのを見て、何が楽しいんですかっ。どうして、こんな情けないことを言わせるんですかっ」
ソランは抱きしめ続ける彼の手を拒むように、床に手をついて下を向いたまま、頑なに詰(なじ)った。
「情けなくなどない」
「情けないでしょう! みっともなくて!」
「みっともなくない」
「みっともないです!」
ソランは焦れて叫んだ。怒りに満ちた声だった。
「そんなわけあるか。あんな無茶をしおって!」
一日五十人の相手と区切ったのは、ソランの安全のためだった。なのに彼女は自ら一度に全員を相手にしようとしたのだ。
「生きた心地がしなかった。百年くらい寿命が縮まったぞ!」
ディーならすかさず、だったらもう寿命が尽きていますね、とまぜっ返しただろう。自分でも馬鹿なことを言ったと思ったが、それが本心だった。あまりの不安に今にも心臓が止まりそうだったのだ。
「頼む。無茶をしてくれるな。おまえを失ってまで、欲しいものなどないのだ」
アティスはソランの耳元に口を付けるようにして顔を埋めた。彼女のあたたかさが、生きているという実感が欲しかった。
ソランは身動きもせず、彼の腕の中でおとなしくしていた。いつのまにか体の震えも強張りも解け、もう拒絶の色はなかった。彼女も彼の体温に安心を感じているのが伝わってきて、心が満たされる。
彼女の唇を求めて、頬に許しを請う口付けをする。体を自分へと向けさせ、反対の頬へも口付けたところで、ソランに口を手で塞がれた。アティスが咎めるまなざしを送ると、彼女も同じ瞳で見返していた。
「口の中が気持ち悪いんです。絶対嫌です」
「私はかまわん」
塞がれたまま、もごもごと抗議する。
「私がかまうんです!」
ソランは時々、アティスにとってどうでもよい小さなことに拘る。しかも訳のわからない理屈で。そういう時は頑として受け付けないのも、何度か文字通り痛い目にあって理解していた。
今回もそれらしかった。断腸の思いで仕方なく引き下がることにする。
「ああ、では私が湯浴みを手伝ってやろう」
ぱっと思考を切り替え、次の楽しみを提案する。
「な、なにを言っているんですか。常識がないにも程があるでしょう!」
ソランはうろたえて腕の中から逃げ出そうとした。
「おまえに常識を諭される日がくるとは思わなかったぞ」
「私は常識的です! 常識を蹴倒して歩いている殿下に言われたくありません!」
「おまえ、己というものを、もう少し知れ」
「殿下こそ常識に敬意を払ってください」
そこまでお互いに散々な言葉で諭しあっておいて、ふっと黙って見つめ合い、次にはなんだかおかしくてたまらなくなって、同じタイミングで噴き出した。二人で声をあげて笑う。
ディーが気を利かせて扉をノックし、新しい湯が冷めてしまうと告げるまで、二人は体を寄せ合って笑いあったのだった。
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