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第九章 束の間の休息(海賊の末裔の地キエラにおいて)
閑話 楔
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「今夜もおまえに触れたい」
頬に触れながらそう告げると、俯いて目をそらしつつも、素直に頷く。
そうして腕の中に閉じ込め、心を通わせながら、少しずつ体を開くことに慣れさせていく。彼女の拙く必死な様子は初々しく、ひどく心をかき乱される。
こちらも余裕など欠片もない。全身全霊が彼女に攫われていく。狂おしい思いで彼女に触れる。
許されるなら、息が止まるまで彼女だけを見て、彼女に自分だけを見ていてもらいたい。そうして彼女と死ねるなら、残り一晩の命でも惜しくはなかった。
自分に触れている男がそんなことを考えているなんて、彼女は知らない。きっと考えもしないに違いない。
彼女が堪えきれずにしがみついてくる。ただひたすらに何もかもをさしだしてくる彼女の体を強く抱きとめながら、あまりの愛しさに胸が軋んだ。愛しすぎて、最早痛みにしか感じられない。
そうして彼女は私の心に楔を打ち込むのだ。
無垢で無防備なその愛で。
本当は、初めて会った彼を、いや、彼女を誘った視察旅行で、できることなら死んでしまえればいいと思っていた。
しがらみが多すぎて自分では死ぬこともできず、かといって生きたところで未来はない。惰性で死なずにすむ手を幾つも打ちながら、誰かがすべてを終わらせてくれるのを待っていた。
そんなところへ、なぜ彼女を誘ったのか。今考えれば、おそらくあの時から、もう惹かれていたのだろう。
人々の喧騒をぬって突然耳に届いた、生き生きとした声に誘われた。姿を目にしたら、その鮮やかさに目が離せなくなった。そして言葉を交わしたら、また明日も会いたいと思わずにいられなくなった。
彼女はせいいっぱい背伸びして、いつでもがむしゃらに無茶をする。出会ったばかりの死にたがっている男のことも、何の迷いもなく体を張って、命懸けで守ろうとした。
たぶん、あれが一つ目の楔。彼女の前でだけは死ねないと思わされた。きっと彼女を巻き添えにしてしまうから。
それでも、生きたいとまでは思えなかった。自分が生きるには、膨大な血が必要なことは見えていた。流された血の分だけ増える恨みと怨嗟を受けながら、生き長らえるほどの意味を見出せなかった。
そうやって迷いながら迎えた慈善事業の日、彼女が血塗れで泣き叫んでおきながら、傍を離れないと言い張った時に、二つ目の楔が打ち込まれてしまったのではないかと思う。
あの時、どのくらい彼女を失うことに恐怖し、失いたくないと思わされたことか。
それからは、彼女の何もかもが、その笑顔も涙も怒りさえ、幾つもの楔となって私を引き留め、いつしか無意識に生きる道を探していた。
彼女が欲しくて、彼女と共に生きる未来が欲しくて。
だが、それを手に入れるためには、私は王国に身を売るしか方法がなく、そしてそれは端(はな)から見えていたとおり、戦乱の世を生きることに他ならなかった。
代々の宝剣の主が、封印してきたウィシュミシアの秘術を、世界に放たねばならぬほどの激動の世を。
それを、悔いてはいない。
いずれ先の世に、私の名が血塗られて語られたとしても、かまいはしない。私はするべきことをするだけだ。それを恐れたり、まして恥じたりしない。
彼女がこの手を取り、心も体も未来も私に預け、寄り添ってくれる。
それを思い知る度に、彼女と共に生きたいと願わずにはいられない。この命の及ぶかぎり、彼女と生きる喜びを分かち合いたいと。
彼女は光だ。彼女が傍にいてくれるなら、きっと道を迷わずに進んでいけるだろう。そしていつか、彼女が望んだとおり、目も眩むほどの高みを見られるに違いない。
だから、あの時、思わず口走ってしまった。
『もし、私が先に死んだら、この剣を継いでくれ』
共に死ぬことではなく、生きることをこそ望まずにはいられなかったから。
それを怒って泣いた彼女の気持ちが、どれほど嬉しく愛しかったことか。
共に死ねるなら、それ以上の喜びはきっとない。でも、私たちの生きる道はそこにはないのだ。
彼女を本当に愛し、愛されるこの命を誇らしく思いたいのなら。この生を貫き通さねばならない。生き貫かなければならない。
死が二人を分かちても。死が二人を共に受け入れてくれるまで。
ソラン。初代の宝剣の主が何を望んだのか、教えてくれと言っていたが、おまえには本当にわからないのだな。
彼が、いや、私が、死の瞬間に何を望むのか。
ああ、でも、私もおまえが何を望むのか想像もつかないのだから、おまえばかりを責められないのか。
ジェナスの言うように、そこに同じ魂があり、私も彼だったのだと言うのなら、そして、どんな願いでも叶えてもらえるというのなら、私には一つしか思いつけない。
もう一度会いたい、と。
会えたら、口説いて、もう一度おまえを手に入れる。そして、おまえの一生を再び私に縛りつけたい。
もちろん、おまえが見惚れて、よそ見できない男になる努力はする。今の私がしているように、きっと来世の私も必死になってやるだろう。
未だ加護が解けていないところをみると、前世の私は、会えること以上のものを望んだのだろう。
さて、畏れ多くも神であった彼女を、どのあたりまで手に入れることを望んだのか、それとも、まったく違うことを望んだのか。
私たちが死ぬまでにわかればいいと願っている。宝剣の主と失われた神の間に交わされた誓いが叶い、不死人にかかった呪いが解ければと。
死して尚、数千年も解けぬほど、強く願った彼らの願いが。
ソラン。約束したとおり、目が覚めたら問いの答えを必ず教える。
この願いは、眠りに落ちる前よりも、夜明けの光の中で伝えるのが、きっと相応しいから。
おまえと生きられる一日の始まりに。
頬に触れながらそう告げると、俯いて目をそらしつつも、素直に頷く。
そうして腕の中に閉じ込め、心を通わせながら、少しずつ体を開くことに慣れさせていく。彼女の拙く必死な様子は初々しく、ひどく心をかき乱される。
こちらも余裕など欠片もない。全身全霊が彼女に攫われていく。狂おしい思いで彼女に触れる。
許されるなら、息が止まるまで彼女だけを見て、彼女に自分だけを見ていてもらいたい。そうして彼女と死ねるなら、残り一晩の命でも惜しくはなかった。
自分に触れている男がそんなことを考えているなんて、彼女は知らない。きっと考えもしないに違いない。
彼女が堪えきれずにしがみついてくる。ただひたすらに何もかもをさしだしてくる彼女の体を強く抱きとめながら、あまりの愛しさに胸が軋んだ。愛しすぎて、最早痛みにしか感じられない。
そうして彼女は私の心に楔を打ち込むのだ。
無垢で無防備なその愛で。
本当は、初めて会った彼を、いや、彼女を誘った視察旅行で、できることなら死んでしまえればいいと思っていた。
しがらみが多すぎて自分では死ぬこともできず、かといって生きたところで未来はない。惰性で死なずにすむ手を幾つも打ちながら、誰かがすべてを終わらせてくれるのを待っていた。
そんなところへ、なぜ彼女を誘ったのか。今考えれば、おそらくあの時から、もう惹かれていたのだろう。
人々の喧騒をぬって突然耳に届いた、生き生きとした声に誘われた。姿を目にしたら、その鮮やかさに目が離せなくなった。そして言葉を交わしたら、また明日も会いたいと思わずにいられなくなった。
彼女はせいいっぱい背伸びして、いつでもがむしゃらに無茶をする。出会ったばかりの死にたがっている男のことも、何の迷いもなく体を張って、命懸けで守ろうとした。
たぶん、あれが一つ目の楔。彼女の前でだけは死ねないと思わされた。きっと彼女を巻き添えにしてしまうから。
それでも、生きたいとまでは思えなかった。自分が生きるには、膨大な血が必要なことは見えていた。流された血の分だけ増える恨みと怨嗟を受けながら、生き長らえるほどの意味を見出せなかった。
そうやって迷いながら迎えた慈善事業の日、彼女が血塗れで泣き叫んでおきながら、傍を離れないと言い張った時に、二つ目の楔が打ち込まれてしまったのではないかと思う。
あの時、どのくらい彼女を失うことに恐怖し、失いたくないと思わされたことか。
それからは、彼女の何もかもが、その笑顔も涙も怒りさえ、幾つもの楔となって私を引き留め、いつしか無意識に生きる道を探していた。
彼女が欲しくて、彼女と共に生きる未来が欲しくて。
だが、それを手に入れるためには、私は王国に身を売るしか方法がなく、そしてそれは端(はな)から見えていたとおり、戦乱の世を生きることに他ならなかった。
代々の宝剣の主が、封印してきたウィシュミシアの秘術を、世界に放たねばならぬほどの激動の世を。
それを、悔いてはいない。
いずれ先の世に、私の名が血塗られて語られたとしても、かまいはしない。私はするべきことをするだけだ。それを恐れたり、まして恥じたりしない。
彼女がこの手を取り、心も体も未来も私に預け、寄り添ってくれる。
それを思い知る度に、彼女と共に生きたいと願わずにはいられない。この命の及ぶかぎり、彼女と生きる喜びを分かち合いたいと。
彼女は光だ。彼女が傍にいてくれるなら、きっと道を迷わずに進んでいけるだろう。そしていつか、彼女が望んだとおり、目も眩むほどの高みを見られるに違いない。
だから、あの時、思わず口走ってしまった。
『もし、私が先に死んだら、この剣を継いでくれ』
共に死ぬことではなく、生きることをこそ望まずにはいられなかったから。
それを怒って泣いた彼女の気持ちが、どれほど嬉しく愛しかったことか。
共に死ねるなら、それ以上の喜びはきっとない。でも、私たちの生きる道はそこにはないのだ。
彼女を本当に愛し、愛されるこの命を誇らしく思いたいのなら。この生を貫き通さねばならない。生き貫かなければならない。
死が二人を分かちても。死が二人を共に受け入れてくれるまで。
ソラン。初代の宝剣の主が何を望んだのか、教えてくれと言っていたが、おまえには本当にわからないのだな。
彼が、いや、私が、死の瞬間に何を望むのか。
ああ、でも、私もおまえが何を望むのか想像もつかないのだから、おまえばかりを責められないのか。
ジェナスの言うように、そこに同じ魂があり、私も彼だったのだと言うのなら、そして、どんな願いでも叶えてもらえるというのなら、私には一つしか思いつけない。
もう一度会いたい、と。
会えたら、口説いて、もう一度おまえを手に入れる。そして、おまえの一生を再び私に縛りつけたい。
もちろん、おまえが見惚れて、よそ見できない男になる努力はする。今の私がしているように、きっと来世の私も必死になってやるだろう。
未だ加護が解けていないところをみると、前世の私は、会えること以上のものを望んだのだろう。
さて、畏れ多くも神であった彼女を、どのあたりまで手に入れることを望んだのか、それとも、まったく違うことを望んだのか。
私たちが死ぬまでにわかればいいと願っている。宝剣の主と失われた神の間に交わされた誓いが叶い、不死人にかかった呪いが解ければと。
死して尚、数千年も解けぬほど、強く願った彼らの願いが。
ソラン。約束したとおり、目が覚めたら問いの答えを必ず教える。
この願いは、眠りに落ちる前よりも、夜明けの光の中で伝えるのが、きっと相応しいから。
おまえと生きられる一日の始まりに。
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