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第九章 束の間の休息(海賊の末裔の地キエラにおいて)
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下りきると、そこは砂地になっていた。右手は城のある崖で、左手に向かって三十メートルくらい砂浜が続く。
靴を脱げと言われて、長靴と靴下を脱いだ。階段の横にまとめて置く。本当はドレスには華奢な靴を履くものなのだが、それだと何かあった時に踏みしめられない。だから、帯剣するからには、どうしても必要だったのだ。おかげで先程の階段も難なく下りられた。でなければ少々怖かっただろう。
手を取られ、海へと近付く。足の下で濡れた砂が鳴った。独特の感触とともに、キュ、キュ、キュと。ソランは思わず殿下に目で問うた。殿下は笑んだだけで、さらに波打ち際へと行こうとする。
ソランは片手で裾を持ち上げた。教えてもらった飾りを引っ張るには両手が必要で、今は繋いだ手を離したくなかったのだ。
波が足先に触れた。冷たい。身をすくめる。それでももう少し先へ出て、屈んでたくし上げたスカートを肘で抑えつつ、指先で波の先端に触れてみた。それを口へ持ってゆき、ぺろりと舐める。
「辛い! 塩辛いです!」
あまりの味に、顔を顰めて舌先を出した。殿下が声をあげて笑った。
「船が難破して漂流しても、海の水だけは飲んではいけないそうだ。塩のせいで、よけいに喉がかわくらしい」
確かにこれだけ塩辛ければ、そうもなるだろう。
そんな短い会話をしている間にも、何度も波が訪れて、足の下の砂を攫っていった。足指の間を砂が逃げていく感触がくすぐったく、また、じわじわと砂の間に沈んでいくのが、小さな恐怖心を誘う。風に混じる潮の匂いは、ほんの少しだけ血臭に似ている。寄せては返す波は、だんだんと陸へと上がってきているようだった。
遠く見晴るかせば、水平線の彼方から波が幾重にも連なって向かってくるのが見えた。晴れ上がった突き抜けるような空の青と、深く折り重なっていく青が交わり、見渡すかぎり開けた視界が得られる。それは美しく、がらんどうな光景だった。
自分がとてもちっぽけに思えた。足元の砂粒と同じだと。
この世界は球なのだという。主神セルレネレスの掌の中に、すっぽりと納まってしまう宝玉。その外は神々のおわす天界であり、球の中心に冥界がある。
珍しい宝石の中に創られた世界。それがここ。セルレネレスは幾らでも同じものを創り出せるのだという。神々は退屈しのぎに趣向を凝らし、世界に彩を加えた。神々にとっては、長すぎる永遠をまぎらわす、ただそれだけのもの。
それでも、ソランにとって、ここはかけがえのない場所だ。
隣の殿下に顔を向ける。応えるように、彼もソランへと向いた。目を見交わし、微笑みを交わす。なんと心躍る幸せな一瞬だろう。
――私は、ここで、この人と生きたい。
強く、強く、願う。
どんなにちっぽけだろうと、そんなのはかまわない。この空のようにがらんどうな神々の世界に、なんの意味がある? ここに、これほど輝き、心を捕らえて離さない存在が在るというのに。
ソランは、初めて自分から歩み寄り、殿下の胸元に寄り添った。いつもいつも、引寄せられてばかりいた、そこに。
優しく強く抱きしめてくれる。その心地よさに、ソランはうっとりと溜息を零した。
靴を脱げと言われて、長靴と靴下を脱いだ。階段の横にまとめて置く。本当はドレスには華奢な靴を履くものなのだが、それだと何かあった時に踏みしめられない。だから、帯剣するからには、どうしても必要だったのだ。おかげで先程の階段も難なく下りられた。でなければ少々怖かっただろう。
手を取られ、海へと近付く。足の下で濡れた砂が鳴った。独特の感触とともに、キュ、キュ、キュと。ソランは思わず殿下に目で問うた。殿下は笑んだだけで、さらに波打ち際へと行こうとする。
ソランは片手で裾を持ち上げた。教えてもらった飾りを引っ張るには両手が必要で、今は繋いだ手を離したくなかったのだ。
波が足先に触れた。冷たい。身をすくめる。それでももう少し先へ出て、屈んでたくし上げたスカートを肘で抑えつつ、指先で波の先端に触れてみた。それを口へ持ってゆき、ぺろりと舐める。
「辛い! 塩辛いです!」
あまりの味に、顔を顰めて舌先を出した。殿下が声をあげて笑った。
「船が難破して漂流しても、海の水だけは飲んではいけないそうだ。塩のせいで、よけいに喉がかわくらしい」
確かにこれだけ塩辛ければ、そうもなるだろう。
そんな短い会話をしている間にも、何度も波が訪れて、足の下の砂を攫っていった。足指の間を砂が逃げていく感触がくすぐったく、また、じわじわと砂の間に沈んでいくのが、小さな恐怖心を誘う。風に混じる潮の匂いは、ほんの少しだけ血臭に似ている。寄せては返す波は、だんだんと陸へと上がってきているようだった。
遠く見晴るかせば、水平線の彼方から波が幾重にも連なって向かってくるのが見えた。晴れ上がった突き抜けるような空の青と、深く折り重なっていく青が交わり、見渡すかぎり開けた視界が得られる。それは美しく、がらんどうな光景だった。
自分がとてもちっぽけに思えた。足元の砂粒と同じだと。
この世界は球なのだという。主神セルレネレスの掌の中に、すっぽりと納まってしまう宝玉。その外は神々のおわす天界であり、球の中心に冥界がある。
珍しい宝石の中に創られた世界。それがここ。セルレネレスは幾らでも同じものを創り出せるのだという。神々は退屈しのぎに趣向を凝らし、世界に彩を加えた。神々にとっては、長すぎる永遠をまぎらわす、ただそれだけのもの。
それでも、ソランにとって、ここはかけがえのない場所だ。
隣の殿下に顔を向ける。応えるように、彼もソランへと向いた。目を見交わし、微笑みを交わす。なんと心躍る幸せな一瞬だろう。
――私は、ここで、この人と生きたい。
強く、強く、願う。
どんなにちっぽけだろうと、そんなのはかまわない。この空のようにがらんどうな神々の世界に、なんの意味がある? ここに、これほど輝き、心を捕らえて離さない存在が在るというのに。
ソランは、初めて自分から歩み寄り、殿下の胸元に寄り添った。いつもいつも、引寄せられてばかりいた、そこに。
優しく強く抱きしめてくれる。その心地よさに、ソランはうっとりと溜息を零した。
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