暁にもう一度

伊簑木サイ

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第九章 束の間の休息(海賊の末裔の地キエラにおいて)

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 塔を出て、寝泊りしている四階建ての本館を見てまわる。こちらに来ると、時々人に行き合った。彼らは通路の脇に退いて頭を下げたが、その前に、ソランはなるべく目を合わせ、微笑みかけた。領地でそうであるように、早く、誰とでも気軽に声を掛け合えるようになれたらいいと思ったのだ。

 本館は左右に階段があり、一階と地階が家事関係、二、三階が政務、四階が領主のための部屋だった。執務室に顔を出してみたが、残念ながら殿下はいなかった。

 外に出て、左手にある鍛冶工房を邪魔しない程度に覗き、その隣の武器庫を一通り見てまわって、続いて細長い兵舎へ行った。

 連れてきた三百人はここで寝泊りしている。キエラ全体では二千人の騎士を抱えているが、ここにいるのは二百人程度。それ以外は領地内の各地に派遣し、町長や村長の相談役、または監視役として保安任務を受け持っている。
 また、彼らは領民に歩兵としての教育を施すのも仕事だ。王都の精鋭ほどではないが、いざまさかの時には、数万の動員をできるようにしてあるという。さすが大領であった。ソランのところとは規模が違う。

 そういったことを可能にしているのが、真珠の養殖であり、商船の中継地としての地の利だ。
 王国内には各地を縦横無尽に繋ぐ街道が整備されているが、それとは別に、川を利用した運搬方法も発達している。
 川から海へと出た方が早いこともある。海に出た船は、海岸沿いに大陸の周りを行き来する。ここはその主要な寄港地の一つなのだ。
 沖には良い漁場もあり、陸地の平野部は肥沃。キエラに来る道中、こうも恵まれた地もあるのかと、ソランは目を瞠らずにはいられなかった。

 土地の持つ力が大きく違う。やはり、まともな方法では、ジェナシス領を富ませるのは無理なのだと思わざるを得なかった。あの地から上がる収益は、食べていくのにもやっとなのだ。
 それ以外のもの、例えば希少で価値のあるもの、どんな大金を積んでも欲しくなるもので商売をするしかない。今は、それを特殊な傭兵稼業で賄っている。

 王国中に散らばったジェナシスの民は、王権を支える柱の一つとなってしまっている。これから国内は混迷を深めていくだろう。どうしても彼らの力が要る。欠くことはできない。
 けれど、いつか平和な時代が来た時に、彼らが平穏に暮らしていける道筋を、ソランはつけておきたかった。そのために、殿下がこの地をどのように治めているのか、ぜひ勉強したいと思っていた。

 大きな広場を挟んで兵舎の反対側には、厩舎があった。少し空けて穀物倉庫がいくつも立ち並び、本館近くに従業員の住まいがある。家族も住むそこの玄関先には、小さな子供たちが集って遊んでいた。

 城は高い城壁に囲まれており、門は深い堀を跳ね橋で渡してある。昔は海賊や他領に攻め込まれた時には、城のすぐ西の港町から町民が逃げ込んできたのだという。広場だけでソランの領主館がいくつも入ってしまうほどの広さだった。
 その真ん中に、屋根がさしかけられた場所があった。

「あそこが井戸ですね?」
「はい。あそこから水が出たから、ここに城が建てられたそうです。この城で一番の難工事だったと言い伝えられております」

 城の条件として、水の確保がある。水がなければ、籠城ができないからだ。
 井戸は、岩盤を細長い長方形に刳り貫き、四つの滑車が付いていた。厩舎に近い滑車の脇には、馬に水を飲ませるための桶も置いてあり、反対側の端は、洗濯のための小さな小屋が建てられていた。そのどれにも排水口が設けられており、溝を通って外部に流れるようになっている。

 ソランは井戸を覗き込んだ。なるほど、よほど深いのだろう、真っ暗で底が見えない。管理用の足場として、金具が壁面に打ち付けてあった。
 ソランはどうしても降りてみたくなって、その欲求と戦うために、井戸の端に取りついたまま、じっとその金具を眺めた。

 第一にこの格好では無理であるし、第二に命綱も必要だろう。第三には、たぶん灯りもいると思われる。そして第四として、殿下の婚約者としてあまりに不審な行動すぎる。どこのうら若き乙女が、井戸に潜り込みたいなどと言うだろう。どう考えても物笑いの種にしかならないのは、当のソランでさえわかった。

 でも、不思議と殿下は駄目とは言わないだろうという確信もあった。ろくなことをしないと言いつつ、面白がって自分も一緒に行くと言いだす気がする。
 そこまで考えて、そんな危ないことはさせられないと諦めがついた。

 井戸端を離れて顔を上げると、穀物倉庫から出てくる殿下を見つけた。あちらも気付いたらしく、足早にやってくる。ソランはひっきりなしに行き交う人々を意識して、優雅に殿下に頭を下げてみせた。
 殿下はまずソランを抱き寄せ、額に口付けを落とした。それから腰に当てた手は離さずに体だけ数歩下がり、嬉しげにソランの様子を観察する。

「着けたのか。よく似合っている」
「こんなに綺麗なものをありがとうございます」

 首飾りにそっと触れて礼を言った。

「気に入ったか?」
「はい。もったいないくらいです」
「もったいないものか。おまえの美しさには、真珠もかすむ」

 歯の浮きそうな褒め言葉を貰う。ソランはまたからかわれているのかと、殿下の表情にその片鱗を探したが、どうしたことか見つからなかった。それどころか優しく笑んで、今度は頬に口付けてくる。
 態度のすべてが愛しいと語っている。触れ合った場所から、まなざしから、想いが流れ込んでくるようだった。ソランは頬を染めて殿下を見つめた。

 それはまるで物語の中の美しい一場面だった。近しい人々は微笑んで見守るか、あるいは、やっていられないと目をそらすかだったが、それ以外の者たちは、領主と婚約者の姿に目を奪われた。伝説の海賊と姫君に匹敵する麗しさだった。

 急に殿下が屈み、ソランを縦抱きにして持ち上げる。ソランは驚いて彼の肩に手をついた。殿下はそのままぐるりとまわり、集まった人々に嬉々とした声を張り上げた。

「皆に紹介しよう。彼女はソラン・ファレノ・エレ・ジェナシス。我が妃となる女性だ!」

 どよめきと拍手が湧き起こる。それにソランは真っ赤になりつつも、笑顔で手を振ってみせた。さらに拍手が大きくなり、口笛まで吹き鳴らされる。
 ソランは下を向いて、殿下の肩を叩いた。

「下ろしてください!」

 ソランのうろたえぶりに、声をあげて笑う。下ろしてくれる気配はない。そのまま本館へ向かって歩きはじめた。
 人々の笑い声と囃す声と拍手と口笛と。様々なものに見送られる。

「殿下! お願いです!」
「暴れるな。落とすぞ」
「本望です!」
「これが駄目なら、横抱きにしていく」

 どこまでも本気な目に、ソランは一瞬黙った。それでも必死に言い返す。

「横暴です!」
「そうか? それならそれは、おまえが私にそうさせているのだ」

 ソランは意味がわからず、口を噤んだ。

「いつだったか、言っていただろう。おまえが一生私に仕えるのは、私がさせているのだと。同じだ。おまえが私をこうするように仕向けるのだ」
「そんな屁理屈を」
「真実だから仕方なかろう。それとも、おまえは違うのか?」

 ――違わない。殿下が相手だから、こうなってしまうのだ。
 すっかり言い負かされて、助けを求めてまわりを見まわす。けれど誰もがそっと視線をそらす。孤立無援、どうにもならなかった。
 ソランは片手を殿下の肩に置いて不安定な体を支え、もう片手で目元を覆って、恥ずかしさを堪えるしかなかったのだった。
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