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第三章 大河サラン視察
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一行は二号水路の傍らを馬で進んでいた。三メートル程の幅に水が流れており、堤防は大人の肩くらいの高さがある。土を突き固めただけの簡単な造りで、表面は草に覆われていた。
「あちらよりこちらの方が低いのがわかりますか?」
ケインの言葉に、ソランは目を凝らした。一目瞭然というほどではないが、確かに高さが違う。こちらの方が堤防が低い。頷いてみせる。
「大雨などで大河から多く流入した場合は、大河の流れから見て川下に当たるこちら側に水が溢れるようになっています。所々堤防の下に管が通っているのは、あちら側が溢れた時の水抜きです。この堤防自体が一号水路が溢れた時にダムになってしまわないようにです。三号水路も同じ造りになっています」
「では、何かあったときは、ここら一帯が水に沈むということですか?」
ソランは林や畑が広がる長閑な風景を見回した。
「そうです。ですから、人家はないでしょう?」
一晩よく眠ったはずのケインは、それでもやはりどこかヨレヨレしていた。東方の小領主の五男坊。小領の悲しさで、彼もまた実家で平民とそう変わらない生活をしていた。
もちろん、領民に混じって土木作業に従事し、そうしているうちに土木技師の才が開花。近隣にも呼ばれては、水路を整えたり護岸工事を指揮していたら、その評判が殿下にまで届いて、軍へと引き抜かれた。ある意味出世である。そうでなければ、今でも小領で泥まみれになりながら、溜め池でも造っていただろう。
軍事行動には土木工事が付きものだ。砦を築くにしろ、壕を掘るにしろ、地下道を造るにしろ、城壁越えの傾斜路を造るにしろ。
そんな特殊な工事の研究の息抜きついでに、事務も手伝っていたら、いつの間にか、面倒な事務仕事は自分の分担になってしまっていたのだと、彼は溜息混じりに語った。
「事務処理能力が高いからな。せっかくの才だ、使わねばもったいないだろう」
殿下が振り返って、にやりと笑った。ケインは褒められて喜んでいいやら複雑な顔で、黙って頭を下げた。
「ケインはそれ以上に、土木の才が飛び抜けているのだ。それで、王都を攻略する方策を、これまでとは違った視点から探させている」
「これまでと違った視点、ですか?」
ソランは馬を少し進めて殿下に近付き、目を輝かせて尋ねた。
「ああ。軍による王都攻めは、建国以来、数えきれぬほどされてきたからな。戦術パターンは頭打ちだ。対抗策も練られている。もう、外からはそう簡単に落とせぬだろう。だが、王都自体を破壊して、住まう者を皆殺しにしてもかまわぬと考えるなら、別の方策があるはずだ。――例えば、水攻めとかな」
「沈めてしまう、ということですか?」
「うん、それもあるが、今回探しているのは、王都を押し流してしまえるほどの水を溜められる場所だ」
そんな、すべて押し流されて何もなくなった場所を征服して、何が得られるというのだろう? 想像もつかなくて考え込んでいると、殿下が聞き返してきた。
「憎しみに囚われた者は、どうだ? 人は憎しみ故に、いくらでも愚かになれるものだ」
それでもソランには、今一つピンとこなかった。彼女は憎んだことも、憎しみにさらされたこともなかったのだ。
二人で話し込んでいるうちに、傍を歩いていたはずのケインの馬は、一行からだんだん離れていっていた。ソランと殿下は顔を見合わせた。ケインの目は、どうやら水抜き穴に釘付けのようだ。殿下は、ケインに付いていけと、顎をしゃくってみせた。
ソランは追いかけていって、ケインに声をかけた。
「どうしたんですか?」
「この穴の大きさです」
興奮ぎみに言われたが、それがなんだというのかわからない。
「穴の大きさですか?」
「ええ、そうです。これならば、穴を埋めるにも、兵に土嚢を運ばせれば、そうたいした時間もかからないでしょう。すべて埋める必要はないのです。大水が来れば共に土砂も運ばれる。取っ掛かりがあればそれに絡まって、すぐに穴は土砂で埋まる。……ああ、本当にこれは良くできている」
ケインは途中からソランに語りかけるのではなく、己に確認するようにしゃべりはじめた。
「この向こうがいっぺんにいっぱいになるほどの水が流れ込めば、恐らく水路は決壊する。よく調べてみないと分かりませんが、その程度の強度しか持たせていないように見受けられます。王都はこの一帯では一段高くなった地に築かれているのです。三号水路をダムとするほどの水を溜めるのは至難の業だ」
「至難の業でも良い。どれほど金がかかろうと、人員が要ろうと、年月がかかろうと、おまえが考えうる限りの方策を書き出せ。要は敵となり得る者に、それを身に付けさせないようにすればよいのだから。それがどの程度になるのか知りたいのだ」
殿下も追いついてきて、口を挿んだ。
「何か調べたいのなら、休憩を取るが、どうする?」
「はい、ぜひお願いします」
ケインの返事に、殿下が頷き、ディーへと手を挙げてみせた。ディーが、「はい、休憩ー!」と一行に号令をかける。
皆がそうしている間にも、ケインは先に馬から降りて、ふらふらと歩いていった。ソランは、放り出された手綱を預かったが、ケインが何をするのか知りたくて、そわそわとイアルに目をやった。
「はいはい」
イアルはすぐに引き受けてくれた。ソランは「私も行ってきてよいですか」と殿下に確認を取り、頷き返されるのを見るやいなや、ケインの後を追って走った。
「あちらよりこちらの方が低いのがわかりますか?」
ケインの言葉に、ソランは目を凝らした。一目瞭然というほどではないが、確かに高さが違う。こちらの方が堤防が低い。頷いてみせる。
「大雨などで大河から多く流入した場合は、大河の流れから見て川下に当たるこちら側に水が溢れるようになっています。所々堤防の下に管が通っているのは、あちら側が溢れた時の水抜きです。この堤防自体が一号水路が溢れた時にダムになってしまわないようにです。三号水路も同じ造りになっています」
「では、何かあったときは、ここら一帯が水に沈むということですか?」
ソランは林や畑が広がる長閑な風景を見回した。
「そうです。ですから、人家はないでしょう?」
一晩よく眠ったはずのケインは、それでもやはりどこかヨレヨレしていた。東方の小領主の五男坊。小領の悲しさで、彼もまた実家で平民とそう変わらない生活をしていた。
もちろん、領民に混じって土木作業に従事し、そうしているうちに土木技師の才が開花。近隣にも呼ばれては、水路を整えたり護岸工事を指揮していたら、その評判が殿下にまで届いて、軍へと引き抜かれた。ある意味出世である。そうでなければ、今でも小領で泥まみれになりながら、溜め池でも造っていただろう。
軍事行動には土木工事が付きものだ。砦を築くにしろ、壕を掘るにしろ、地下道を造るにしろ、城壁越えの傾斜路を造るにしろ。
そんな特殊な工事の研究の息抜きついでに、事務も手伝っていたら、いつの間にか、面倒な事務仕事は自分の分担になってしまっていたのだと、彼は溜息混じりに語った。
「事務処理能力が高いからな。せっかくの才だ、使わねばもったいないだろう」
殿下が振り返って、にやりと笑った。ケインは褒められて喜んでいいやら複雑な顔で、黙って頭を下げた。
「ケインはそれ以上に、土木の才が飛び抜けているのだ。それで、王都を攻略する方策を、これまでとは違った視点から探させている」
「これまでと違った視点、ですか?」
ソランは馬を少し進めて殿下に近付き、目を輝かせて尋ねた。
「ああ。軍による王都攻めは、建国以来、数えきれぬほどされてきたからな。戦術パターンは頭打ちだ。対抗策も練られている。もう、外からはそう簡単に落とせぬだろう。だが、王都自体を破壊して、住まう者を皆殺しにしてもかまわぬと考えるなら、別の方策があるはずだ。――例えば、水攻めとかな」
「沈めてしまう、ということですか?」
「うん、それもあるが、今回探しているのは、王都を押し流してしまえるほどの水を溜められる場所だ」
そんな、すべて押し流されて何もなくなった場所を征服して、何が得られるというのだろう? 想像もつかなくて考え込んでいると、殿下が聞き返してきた。
「憎しみに囚われた者は、どうだ? 人は憎しみ故に、いくらでも愚かになれるものだ」
それでもソランには、今一つピンとこなかった。彼女は憎んだことも、憎しみにさらされたこともなかったのだ。
二人で話し込んでいるうちに、傍を歩いていたはずのケインの馬は、一行からだんだん離れていっていた。ソランと殿下は顔を見合わせた。ケインの目は、どうやら水抜き穴に釘付けのようだ。殿下は、ケインに付いていけと、顎をしゃくってみせた。
ソランは追いかけていって、ケインに声をかけた。
「どうしたんですか?」
「この穴の大きさです」
興奮ぎみに言われたが、それがなんだというのかわからない。
「穴の大きさですか?」
「ええ、そうです。これならば、穴を埋めるにも、兵に土嚢を運ばせれば、そうたいした時間もかからないでしょう。すべて埋める必要はないのです。大水が来れば共に土砂も運ばれる。取っ掛かりがあればそれに絡まって、すぐに穴は土砂で埋まる。……ああ、本当にこれは良くできている」
ケインは途中からソランに語りかけるのではなく、己に確認するようにしゃべりはじめた。
「この向こうがいっぺんにいっぱいになるほどの水が流れ込めば、恐らく水路は決壊する。よく調べてみないと分かりませんが、その程度の強度しか持たせていないように見受けられます。王都はこの一帯では一段高くなった地に築かれているのです。三号水路をダムとするほどの水を溜めるのは至難の業だ」
「至難の業でも良い。どれほど金がかかろうと、人員が要ろうと、年月がかかろうと、おまえが考えうる限りの方策を書き出せ。要は敵となり得る者に、それを身に付けさせないようにすればよいのだから。それがどの程度になるのか知りたいのだ」
殿下も追いついてきて、口を挿んだ。
「何か調べたいのなら、休憩を取るが、どうする?」
「はい、ぜひお願いします」
ケインの返事に、殿下が頷き、ディーへと手を挙げてみせた。ディーが、「はい、休憩ー!」と一行に号令をかける。
皆がそうしている間にも、ケインは先に馬から降りて、ふらふらと歩いていった。ソランは、放り出された手綱を預かったが、ケインが何をするのか知りたくて、そわそわとイアルに目をやった。
「はいはい」
イアルはすぐに引き受けてくれた。ソランは「私も行ってきてよいですか」と殿下に確認を取り、頷き返されるのを見るやいなや、ケインの後を追って走った。
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