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第一章 貧乏辺境領ジェナシスにおいて
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領主館は石造りの二階建てである。白く柔らかな質感の不思議な石が、隙間に紙の一枚も入れられない精緻さで組みあげられている。中央は楕円に張りだし、玄関ホールと、上階へと続く階段が螺旋状に設けられていた。
二階の右翼を公に供する場所とし、左翼は領主一族の私室としている。一階は水周りと従業員の部屋。
執務室は右翼のつきあたりにあり、祖父の後に続きながら開け放たれた窓から外を見ると、三々五々、人々が遠巻きに立ちこちらを窺っているのが確認できた。
「はじまってますね」
「うむ。声がする」
二人は階段の上の角で立ち止まり、そっと顔だけ覗かせた。
開かれた玄関のまん前で、マリーが仁王立ちしていた。
マリーは、この館を切り盛りしているアイダの下で働いている。彼女の家事の腕前は、厳しいアイダのお墨付きだ。
敷居の向こうには、きちんとした格好をしたイアルがいた。白いシャツには綺麗にアイロンがかけられ、濃茶のズボンもぴしりとしている。ブーツもぴかぴかに磨きあげられていた。肩甲骨のあたりまであるこげ茶色の髪は、首元できっちりと縛られ、理知的な顔は真剣さと情熱を宿し、五割り増し格好よく見えた。
思わず、ソランでさえ、へえ、と感嘆の声をあげてしまったくらいだ。
なのに、小柄なマリーは顎をつき出し、空を仰ぐようにして背の高い彼を睨みつけていた。
「お断りします。あなたも私の好きな人が誰だか知っているでしょう?」
「現実的でないだろう」
「余計なお世話よ。あの人が誰かのものにならない限り、私は絶対あきらめない」
「本気で言っているのか?」
「私がこのことで冗談を言ったことがあった?」
「全部冗談だと思っていた」
「失礼ね。私のことをきちんと理解できない男に、用はないわ。帰ってちょうだい」
マリーは両手を扉にかけ、閉めようとした。それをイアルは片手で押さえ、身を乗り出し、屈みこんで彼女の耳元で何かを囁く。
「まさか」
はっとして、イアルを注視する。また何事かをイアルが囁くと、身を強張らせ、ぎゅっと拳を握って立ちつくした。数十秒、静寂が支配する。そして。
どすどすっ。目にもとまらぬ速さで拳をくり出し、マリーはえぐるようにイアルの腹に連続技を叩きこんだ。次にうなりをあげた右足は、さすがに止められたが。
「これ以上は勘弁してくれ。外のやつらに、君のスカートの中を見せたくない」
多少痛そうにして、イアルは言った。
マリーはいくぶん恥ずかしげに足を戻し、それから広げた右手をつき出す。
「よこしなさいよ。受け取ってあげるわ」
彼は己の剣の横に差していた短剣を鞘ごとはずすと、彼女の手の中に、そっと納めた。
「愛してる」
微笑む。これまで見せたこともない顔だった。思わず見惚れるような表情。彼はその笑顔のまま首を傾げ、マリーが固まっているのをいいことに、すばやく頬にキスをした。
「なにするのっ」
マリーがふり上げた掌を掴むと、そこにもキスをし、
「婚約者へのキス」
「いやぁっ! あんた、ちょっとおかしいわよっ」
マリーは手をふり払い、とびすさった。
「ああ、いや、だめっ、なんか鳥肌たったわっ」
酷い言われようだが、気にした風はない。
突然、祖父が手を叩いた。何度も。拍手をはじめたらしい。すると、そこここから拍手がわきあがった。祖父やソランだけでなく、皆が物陰から見守っていたのだ。
「おめでとう。収穫祭で君たちの結婚式を執り行えるのを嬉しく思うぞ」
朗々とした声で寿ぎ、階段を下りていく。ソランもその後に従った。
「ソラン」
マリーが泣きそうな顔で呼んだ。
「うん。おめでとう」
ソランが傍らに立つと、彼女が抱きついてきた。強く抱きしめられる。彼女の握った短剣が背中に当たった。
「あなたを一番愛してるの」
「うん。私も愛してるよ」
「私、あなたと結婚したかったの」
「うん。ごめん」
「……ひどい人」
「ねえ、マリー」
ソランはマリーの頬に触れ、顔を上げるようにうながした。至近距離で彼女の緑の瞳を覗き込む。青い瞳が心配げに細められた。
「イアルに何か無理を言われたのではない? だったら私はマリーの味方をするよ」
マリーの瞳が潤む。
「違うの。大丈夫よ。私が決めたことだから。でも」
涙がこぼれそうになり、再びソランの胸に顔をうずめる。
「あなたが優しすぎて胸が痛くなるの。愛してるわ」
ソランはふわふわとしたあたたかい色合いの茶色の髪に包まれた頭を、繰り返し優しく撫ぜた。
二階の右翼を公に供する場所とし、左翼は領主一族の私室としている。一階は水周りと従業員の部屋。
執務室は右翼のつきあたりにあり、祖父の後に続きながら開け放たれた窓から外を見ると、三々五々、人々が遠巻きに立ちこちらを窺っているのが確認できた。
「はじまってますね」
「うむ。声がする」
二人は階段の上の角で立ち止まり、そっと顔だけ覗かせた。
開かれた玄関のまん前で、マリーが仁王立ちしていた。
マリーは、この館を切り盛りしているアイダの下で働いている。彼女の家事の腕前は、厳しいアイダのお墨付きだ。
敷居の向こうには、きちんとした格好をしたイアルがいた。白いシャツには綺麗にアイロンがかけられ、濃茶のズボンもぴしりとしている。ブーツもぴかぴかに磨きあげられていた。肩甲骨のあたりまであるこげ茶色の髪は、首元できっちりと縛られ、理知的な顔は真剣さと情熱を宿し、五割り増し格好よく見えた。
思わず、ソランでさえ、へえ、と感嘆の声をあげてしまったくらいだ。
なのに、小柄なマリーは顎をつき出し、空を仰ぐようにして背の高い彼を睨みつけていた。
「お断りします。あなたも私の好きな人が誰だか知っているでしょう?」
「現実的でないだろう」
「余計なお世話よ。あの人が誰かのものにならない限り、私は絶対あきらめない」
「本気で言っているのか?」
「私がこのことで冗談を言ったことがあった?」
「全部冗談だと思っていた」
「失礼ね。私のことをきちんと理解できない男に、用はないわ。帰ってちょうだい」
マリーは両手を扉にかけ、閉めようとした。それをイアルは片手で押さえ、身を乗り出し、屈みこんで彼女の耳元で何かを囁く。
「まさか」
はっとして、イアルを注視する。また何事かをイアルが囁くと、身を強張らせ、ぎゅっと拳を握って立ちつくした。数十秒、静寂が支配する。そして。
どすどすっ。目にもとまらぬ速さで拳をくり出し、マリーはえぐるようにイアルの腹に連続技を叩きこんだ。次にうなりをあげた右足は、さすがに止められたが。
「これ以上は勘弁してくれ。外のやつらに、君のスカートの中を見せたくない」
多少痛そうにして、イアルは言った。
マリーはいくぶん恥ずかしげに足を戻し、それから広げた右手をつき出す。
「よこしなさいよ。受け取ってあげるわ」
彼は己の剣の横に差していた短剣を鞘ごとはずすと、彼女の手の中に、そっと納めた。
「愛してる」
微笑む。これまで見せたこともない顔だった。思わず見惚れるような表情。彼はその笑顔のまま首を傾げ、マリーが固まっているのをいいことに、すばやく頬にキスをした。
「なにするのっ」
マリーがふり上げた掌を掴むと、そこにもキスをし、
「婚約者へのキス」
「いやぁっ! あんた、ちょっとおかしいわよっ」
マリーは手をふり払い、とびすさった。
「ああ、いや、だめっ、なんか鳥肌たったわっ」
酷い言われようだが、気にした風はない。
突然、祖父が手を叩いた。何度も。拍手をはじめたらしい。すると、そこここから拍手がわきあがった。祖父やソランだけでなく、皆が物陰から見守っていたのだ。
「おめでとう。収穫祭で君たちの結婚式を執り行えるのを嬉しく思うぞ」
朗々とした声で寿ぎ、階段を下りていく。ソランもその後に従った。
「ソラン」
マリーが泣きそうな顔で呼んだ。
「うん。おめでとう」
ソランが傍らに立つと、彼女が抱きついてきた。強く抱きしめられる。彼女の握った短剣が背中に当たった。
「あなたを一番愛してるの」
「うん。私も愛してるよ」
「私、あなたと結婚したかったの」
「うん。ごめん」
「……ひどい人」
「ねえ、マリー」
ソランはマリーの頬に触れ、顔を上げるようにうながした。至近距離で彼女の緑の瞳を覗き込む。青い瞳が心配げに細められた。
「イアルに何か無理を言われたのではない? だったら私はマリーの味方をするよ」
マリーの瞳が潤む。
「違うの。大丈夫よ。私が決めたことだから。でも」
涙がこぼれそうになり、再びソランの胸に顔をうずめる。
「あなたが優しすぎて胸が痛くなるの。愛してるわ」
ソランはふわふわとしたあたたかい色合いの茶色の髪に包まれた頭を、繰り返し優しく撫ぜた。
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