暁にもう一度

伊簑木サイ

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第一章 貧乏辺境領ジェナシスにおいて

1-1

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 ソランは、祖父の書斎で領地からあがった税収の書類を確認していた。

 領地といっても山ばかりで、牧畜が主な収入源である。けっして豊かな土地ではない。大きな声では言えないが、ソランから数えて二代前、つまり祖父までは盗賊仕事が家業だった。

 すべてに目を通し終え、溜息をつきながら書類を机の上に戻した。漆黒の髪に指をさし入れ、背もたれに寄りかかる。秀麗な面に憂いが浮かんでいた。澄んだ深い湖のような青い瞳が濃さを増し、伏せられる。

 今年は、新しく導入した染色技術で織った毛織物の人気が出はじめていたし、五年も寝かせたチーズの評判も良く、わずかな平地から採れた麦の作柄も申し分なかった。馬もここ数年、無理をしつつも高値で仕入れた種馬のおかげで良馬が増えている。わずかずつだが、収入は確実に上がってきている。
 ――それでも足りない。
 ソランは奥歯を噛み締め、溜息を殺した。ここにいない祖父の部下たちの顔が思い浮かぶ。彼らは幼い頃からの隣人であり、師であり、友人であり、仲間だった。

 冬を前に、小麦等ここでは足りなかったり採れなかったりする食料を、買い入れなければならない。昔はそれを盗賊家業で賄っていた。今は盗賊改め、傭兵、それもソランが生まれる少し前にあった大乱での功で、王族御用達の高給が約束された出稼ぎで購っている。危険な仕事だ。ソランは彼らをそこに送りたくはなかった。

 ふいに、ギイィと書斎の扉が軋んだ。次いでヒュッとくうをきり、何かが投げつけられる。ソランは音もなく立ちあがり、利き手を腰の剣にかけ、空いた椅子を軽く蹴った。ポフンと布張りの背に当たり、少々色の悪いりんごが座面に転がる。
 扉を肩で押し、右腕にりんごをいっぱいに抱えた壮年の男が入ってきた。

「じじい、食べ物を粗末にするな」

 左手にまだもう一つ握っているのを見て、釘をさす。

「気分転換になっただろう?」

 にやりと笑いながら、机の前の応接用の長椅子に腰掛け、腕の中のりんごをクッションの上におろした。

「そんなところでしかめつらしてても、何も変わらんだろう。笑え」

 ソランは忌々しげに一つ息をつくと顔をそむけた。そのまま息を整え、もう一度正面を向くと、穏やかに微笑んでみせる。

「よし、今日も女たらしのいい顔だ」

 その褒め言葉に、とたんに顔をしかめ、きつい口調で抗議する。

「人聞きの悪いことを言うな」
「最大級の賛辞なのに。じゃあ、男たらしの」
「もういい。それ以上の皮肉は聞きたくない」

 祖父は、くっと喉の奥で笑って、向かいの椅子を示した。

「まあ、座れ。真面目な話がある。儲け話だ」

 貧乏成り上がり領主の後継者たるソランは、悲しいかな、年頃の若人なのに、もっとも興味のある事柄が『金』の話だった。不機嫌も一瞬で吹き飛び、すぐさま席につく。

「これがうまくいけば、ここはおまえの一生涯、食うに困ることはなくなる」

 一生涯、それも領内すべてというのだから、話が大きい。ソランは今十六だ。祖父の年まで生きるとして、まだ四十年はある。そんな気前のいい話はない。ろくでもなさそうだと警戒心を抱いたが、祖父の持ってきた話だ、元盗賊だけあって、彼は利に敏く、機に敏であって、人を見る目もある。おとなしく最後まで聞いた方がよかろうと判断した。

「それで?」
「うむ。第二王子のアティス様が今年十九になられる。それで立太子の儀を行いたいということになってな」

 現在、国王には三人の御子があった。二六歳になる第一王子エルファリア、第二王子のアティス、そして末はソランと同じ一六歳のミルフェ姫。王には側室がいない。いずれも王妃の生んだ子たちである。

「第二王子?」

 第一王子は病弱であると伝え聞いていた。だが、聡明であると。また、第二王子は軍に入り、公の場には滅多に出ないとも。

「エルファリア様は王位に耐えられるお体をお持ちではない。アティス様がお生まれになったときから、陛下も、また我らも、殿下を世継ぎの君として扱ってきた。だが、殿下はそれをよしとなさらずに軍に入り、政務からは遠ざかってしまわれた」
「王ならば軍の任命権も解任権もお持ちでしょう」
「それでは意味がないのだよ。自らってくださらねば」

 それもそうかと、ソランは頷いた。こんな小さな領地でも、預かるとなれば覚悟がいる。まして一国を担うとなれば、生半可な決意では国民が迷惑する。

「なるほど。それで?」
「陛下は王子を説得してほしいと仰っている。それができた者に、望みの褒美をとらすと」

 確かに王家の財なら、こんな弱小領を潤すことは可能だろう。

「ということで、軍医の任をいただいてきた。行ってこい」

 ソランは困惑して口を噤んだ。
 行ったとして、いったい何をどうしろというのか。説得できるものなら、とうの昔に、もっと熱意があり弁の立つ誰かがやっているのではないか。
 やりたくないものをやらせようということほど、面倒で困難なことはない。また、説得される側にとっては、それ以上に迷惑なこともない。

 まして、一国の未来を決めるに等しいこと。ソランにはこれが最善だという確信もなく、その上、説得して、はい、終わり、というわけにはいかないだろうというのも気になった。
 大役を無理矢理押しつけておいて、放り出してくるのか? それは、人としてどうなのか。つまり、ソランには、引き受けても責任を取れる自信がなかった。

 祖父は傍らのりんごを一つ取ると、ソランにほうってよこした。自らも一つ上着にこすりつけ、噛りつく。

「おお。これは甘い」

 ソランはぼんやりと思い出した。昨年、留学先からりんごの苗を三本持って帰ったのだ。それがやっと実をつけたのだろう。この辺りにはない品種で、皮の色は薄くて不味そうなのだが、実はとびきり甘い。

「土産に苗とは色気のない話だと思ったが、美味いな、これは。見ただけでは絶対に選ばない見たくれだが」

 ソランも同じように服にこすりつけ、噛る。
 そう、この味。どこの家の庭にもあって、大家さんやご近所さんによく貰った。それを勉強の合間に小腹がすくと食べたものだった。
 医学を学んだのは、祖母から受け継いだ知識を広げ、この地で役立てたいと思ったからだった。

「おまえの目で見て、それから決めればよい」
「はい」

 素直に頷いていた。なぜか、行かなければならない気がした。――ここにいるだけでは見えないものを、見に行かなければ。

「お引き受けいたします」

 ソランは胃の腑をつきあげるような不安と期待を体の中に抑えこみながら、返事をした。
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