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蛇足 大森毅三十歳の休日出勤
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大森毅三十歳は、報告があったばかりの進捗状況から新しい日程表をおこし、しばらくそれを眺めて動けなかった。
給湯室からコーヒーを持ってきて通りがかった主任が、それを見つけて、後ろから覗きこむ。
「お。できたか。ああ、やっぱり休出が必要か。まあ、今回はしかたないだろうな。人数分の時間外をまとめて申請するように。……これ、借りるぞ」
「どうぞ」
主任は日程表を取り上げ、それをひらひら振りながら、大声をあげた。
「おー。注目! もう聞いていると思うが、顧客からの依頼で仕様変更が決まった。納期が迫っていて、これ以上、平日の作業は無理と判断した。そこで、今度の土曜に、まとめていっきに変更をかけようと思う。すまんが、休日出勤を頼む。大森君から仕様変更書と各人の管理表がいくから、作業を確認してくれ。これ以上の遅れが出ないように、問題は一人で抱え込まないで、早めに持ってくるように。俺と大森君でサポートする。打ち上げは盛大にやるつもりだから、もう一頑張り頼む。以上!」
自分が引いた予定表で、休日出勤が確定した瞬間だった。
いや、あの話が来た時から、どう考えてもこうなるのはわかっていたし、納期前にしては荒れてなくて、まだマシな方なのは、わかっているのだが。
毎週土日に休みがあった今までが、奇跡だったというのも、理解しているのだが。
……はああああああ。土曜は彼女に会えないのか。
彼は大きな溜息をついて、苛立たしく髪の中に手を入れて、意味もなくかき散らしたのだった。
とりあえず、昼休みに彼女に電話してみることにした。今日は木曜日で、明後日の予定だから、早く伝えた方がいいと思ったのだ。
というのは建前で、単にこのいかんともしがたい残念感を、彼女の声を聞いて、少しでも癒したかったからである。
『はい、藍子です。どうしたの、毅さん』
八回のコールの後、少しはずんで慌てたような彼女の声が聞こえた。
「今、忙しい? だったら、後でメールする」
『ううん、大丈夫。今、階段のところに来てて、ここなら人があまり来ないから、ゆっくり話せるの』
携帯に出た表示を見て、自分とゆっくり話をするために人気のない場所に走ったのだと、彼女の息がはずんでいた理由を知る。
それだけでも、いっきにテンションが上がったのに、
『どうしたの? 何かあったの?』
すぐに続いた心配そうな声音に、いつもならメールしかしない時間帯に電話をかけたせいで、心配させたのだと、ようやく気付いた。
彼はしみじみとした感動を覚えた。
突然の電話一本で、ここまで心配して親身になってくれる彼女がいるって、ほんとうにいいよなあ、と。
「ああ、うん、今度の土曜日なんだけど、出勤しなければならなくなってしまって」
『え、そうなの?』
「うん。ごめん。美術館、連れて行くって約束してたのに」
『いいの、そんなのは。……なんだ、よかった。何かあったのかと思って、心配したの。……あ、よくないね。休日出勤お疲れ様です』
彼女の無事を喜ぶ言葉に、気遣いまでプラスされて、彼は悶えそうな幸せを覚えた。
ああああ、いい。ほんっとうに、いい。
俺の彼女、かわいいっ。すげーかわいいっっ。
大森は、思わずその場で指折り数え始めた。
今日は木曜で、明日が金曜日、明後日が土曜日で、日曜は明々後日。日曜日まで、まだ三日もある。
いますぐ抱き締めたいし、キスしたい。あわよくば、こんどこそ思いを遂げたい、三日も待てない!
「あのさ、」
自分の欲望に急かされるままに、彼は口火を切った。
「あの、土曜日、なんだけど」
『なに?』
「その、仕事終わった後、一緒に食事にいかない? 土曜は車で出勤するつもりだから、たぶん、八時半にはそっちに行けると思うんだけど。……ちょっと遅くなってもいいなら」
『そうなの? でも、お仕事の後に、大変でしょう? 無理しないで?』
「大丈夫。いつもより早いくらいだから」
『そう? ……あ、だったら、うちでご飯食べたらどうかな。出掛けるよりは、ゆっくりできると思うんだけど』
「いいの!?」
『簡単なものしか作れないけど、それでいいなら』
「うわ。楽しみだ」
『あんまり期待しないでね。ほんとうに、普通の家庭料理しか作れないの』
「いいよ。なんでもいい。好き嫌いないし」
『うん。じゃあ、八時半でいいの?』
「うん。八時半」
『待ってるね』
「うん」
その後、ちょっとした他愛ない話をしてから、電話を切る。
彼は、俄然やる気が出てきていた。
明後日の夜には、彼女の手料理。初めての、手料理。
休日に外出を誘っても、家の中のことを済ませてから行きたいのと、十一時より前には約束してくれない、家庭的な彼女の手料理。しかも、彼女の部屋で!
どんな女の子らしい部屋なんだろう。どんなベッド使っているんだろう。壁は薄いんだろうか。
妄想はとめどなく広がり、一度は見て触った彼女の体が思い浮かぶ。
あああああ、楽しみすぎて死ぬ。
……休出もたまにはいいかもしれない。
彼は本末転倒な結論に至って、上機嫌で席に戻った。
この週末に彼は獅子奮迅の働きを見せ、それまで同僚と横並びだった評価から、一歩抜きん出ることになる。
その後も、彼女との時間を確保したいがために、非常に仕事を熱心にこなすようになった。
『男の価値は女しだい』
そんな通説を自分が体現することになろうとは、彼女に会いたいだけ(あわよくば甘い夢も)の彼は、思ってもみなかったのだった。
給湯室からコーヒーを持ってきて通りがかった主任が、それを見つけて、後ろから覗きこむ。
「お。できたか。ああ、やっぱり休出が必要か。まあ、今回はしかたないだろうな。人数分の時間外をまとめて申請するように。……これ、借りるぞ」
「どうぞ」
主任は日程表を取り上げ、それをひらひら振りながら、大声をあげた。
「おー。注目! もう聞いていると思うが、顧客からの依頼で仕様変更が決まった。納期が迫っていて、これ以上、平日の作業は無理と判断した。そこで、今度の土曜に、まとめていっきに変更をかけようと思う。すまんが、休日出勤を頼む。大森君から仕様変更書と各人の管理表がいくから、作業を確認してくれ。これ以上の遅れが出ないように、問題は一人で抱え込まないで、早めに持ってくるように。俺と大森君でサポートする。打ち上げは盛大にやるつもりだから、もう一頑張り頼む。以上!」
自分が引いた予定表で、休日出勤が確定した瞬間だった。
いや、あの話が来た時から、どう考えてもこうなるのはわかっていたし、納期前にしては荒れてなくて、まだマシな方なのは、わかっているのだが。
毎週土日に休みがあった今までが、奇跡だったというのも、理解しているのだが。
……はああああああ。土曜は彼女に会えないのか。
彼は大きな溜息をついて、苛立たしく髪の中に手を入れて、意味もなくかき散らしたのだった。
とりあえず、昼休みに彼女に電話してみることにした。今日は木曜日で、明後日の予定だから、早く伝えた方がいいと思ったのだ。
というのは建前で、単にこのいかんともしがたい残念感を、彼女の声を聞いて、少しでも癒したかったからである。
『はい、藍子です。どうしたの、毅さん』
八回のコールの後、少しはずんで慌てたような彼女の声が聞こえた。
「今、忙しい? だったら、後でメールする」
『ううん、大丈夫。今、階段のところに来てて、ここなら人があまり来ないから、ゆっくり話せるの』
携帯に出た表示を見て、自分とゆっくり話をするために人気のない場所に走ったのだと、彼女の息がはずんでいた理由を知る。
それだけでも、いっきにテンションが上がったのに、
『どうしたの? 何かあったの?』
すぐに続いた心配そうな声音に、いつもならメールしかしない時間帯に電話をかけたせいで、心配させたのだと、ようやく気付いた。
彼はしみじみとした感動を覚えた。
突然の電話一本で、ここまで心配して親身になってくれる彼女がいるって、ほんとうにいいよなあ、と。
「ああ、うん、今度の土曜日なんだけど、出勤しなければならなくなってしまって」
『え、そうなの?』
「うん。ごめん。美術館、連れて行くって約束してたのに」
『いいの、そんなのは。……なんだ、よかった。何かあったのかと思って、心配したの。……あ、よくないね。休日出勤お疲れ様です』
彼女の無事を喜ぶ言葉に、気遣いまでプラスされて、彼は悶えそうな幸せを覚えた。
ああああ、いい。ほんっとうに、いい。
俺の彼女、かわいいっ。すげーかわいいっっ。
大森は、思わずその場で指折り数え始めた。
今日は木曜で、明日が金曜日、明後日が土曜日で、日曜は明々後日。日曜日まで、まだ三日もある。
いますぐ抱き締めたいし、キスしたい。あわよくば、こんどこそ思いを遂げたい、三日も待てない!
「あのさ、」
自分の欲望に急かされるままに、彼は口火を切った。
「あの、土曜日、なんだけど」
『なに?』
「その、仕事終わった後、一緒に食事にいかない? 土曜は車で出勤するつもりだから、たぶん、八時半にはそっちに行けると思うんだけど。……ちょっと遅くなってもいいなら」
『そうなの? でも、お仕事の後に、大変でしょう? 無理しないで?』
「大丈夫。いつもより早いくらいだから」
『そう? ……あ、だったら、うちでご飯食べたらどうかな。出掛けるよりは、ゆっくりできると思うんだけど』
「いいの!?」
『簡単なものしか作れないけど、それでいいなら』
「うわ。楽しみだ」
『あんまり期待しないでね。ほんとうに、普通の家庭料理しか作れないの』
「いいよ。なんでもいい。好き嫌いないし」
『うん。じゃあ、八時半でいいの?』
「うん。八時半」
『待ってるね』
「うん」
その後、ちょっとした他愛ない話をしてから、電話を切る。
彼は、俄然やる気が出てきていた。
明後日の夜には、彼女の手料理。初めての、手料理。
休日に外出を誘っても、家の中のことを済ませてから行きたいのと、十一時より前には約束してくれない、家庭的な彼女の手料理。しかも、彼女の部屋で!
どんな女の子らしい部屋なんだろう。どんなベッド使っているんだろう。壁は薄いんだろうか。
妄想はとめどなく広がり、一度は見て触った彼女の体が思い浮かぶ。
あああああ、楽しみすぎて死ぬ。
……休出もたまにはいいかもしれない。
彼は本末転倒な結論に至って、上機嫌で席に戻った。
この週末に彼は獅子奮迅の働きを見せ、それまで同僚と横並びだった評価から、一歩抜きん出ることになる。
その後も、彼女との時間を確保したいがために、非常に仕事を熱心にこなすようになった。
『男の価値は女しだい』
そんな通説を自分が体現することになろうとは、彼女に会いたいだけ(あわよくば甘い夢も)の彼は、思ってもみなかったのだった。
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