幸福な降伏の吐息

伊簑木サイ

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5 初めてのホテル

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 お食事の後は、少し腹ごなしに、連絡通路でつながっている駅ビルを散策した。
 さっき、ホテルに来る前に、全国展開のチェーン店で着替えを買いがてら、お洋服は見てしまったので、また一緒に見てまわるのもと思って、案内板で探し、本屋へ行った。
 本屋では、お互い干渉しないのが暗黙の了解になっていて、一人で好きに見てまわる。

 彼はあまり本を読まないみたい。学生の頃は歴史物なんか好きで読んでいたけど、今はまとめて読める時間がなくて、なかなか手が出なくなってしまったと苦笑いしていた。
 それはそうかもしれない。平日は早くても午後の十時半にしか帰って来られず、ご飯をかきこむようにして食べて、お風呂に入って、ぼんやりとネットでニュースを見てから寝る毎日だと、言っていたから。

 私は新刊をチェックして、一通りハードカバーをのぞいてから、児童書売り場に行った。あまり大きなお店ではなく、駅ビルという通過点にあるに相応しい品揃えで、話題作と有名作しか置いていない。
 面白味がないので、手に取らず、ぶらぶらと見るだけにして、旅行案内のコーナーに行って、あまり知らないこの町のことを調べた。
 どうやら城下町で、和菓子のお店が多いらしい。写真に載った季節の練り菓子が色鮮やかで、おいしそうで、明日、可能だったらここに案内してもらおうと、その本を持ってレジに行った。
 ちょうど彼も仕事関連の情報雑誌を持って並んでいて、時計を見て、そろそろホテルに戻ろうかという話になった。

 酔いも醒めてきた感じだった。もう、頭もふわふわしない。
 同じ紙袋を抱えて、並んで歩く。彼が自然に手を出してきて、私もそれに手を重ねる。
 すごくどきどきする。それでいたたまれないのに、大きな手に手を引かれるのは、とても安心もする。
 この人に触れられるのは、嫌じゃない、と確認できる。

 キスだって、嫌じゃなかった。
 人の舐めたものなんか、普通だったら嫌なのに、この人とのキスの後で自分の唇が濡れていても、全然平気。
 だから、大丈夫。
 きっと、大丈夫。
 私は不安が頭をもたげそうになるたびに、自分にそう言い聞かせて、彼の歩調に遅れないように、足を動かした。



 部屋に戻って、買ってきた本を片付けて。トイレにたったついでに、洗面台にあった歯ブラシを見つけて、もう磨いてしまいたいな、と思った。いつもは食べた後に、すぐ磨いているから。
 一つを手に取って、もう一つをどうしようかと考える。
 一人で先に磨いていいのかな。一声掛けた方がいいのかな。それとも、持っていった方が。
 ぐるぐると迷っていたら、毅さんが入ってきた。

「あの、歯、磨きますか?」

 振り返って、持っている方を持ち上げて見せれば、そうだね、と頷く。

「その前に、お風呂をいれてきてしまおうと思うんだけど、いいかな。酔いは大丈夫? もう少し後の方がいい?」
「えと、はい、大丈夫です。もういいです」
「うん、じゃあ、いれてくるね」

 毅さんは、奥にあるお風呂場へと入っていった。浴槽にお湯を溜めている水音が聞こえてくる。

 ここのお部屋はお友達と泊まるビジネスホテルと違って、なんだか大きくてきれい。お風呂はトイレや洗面所と別で、奥の夜景が見える場所にあった。
 しかも、どういうわけか、そのお風呂の窓には、ブラインドもなにもなくて、外が丸見え。ということは、外からも丸見え。部屋がすごく高い位置にあるから、よっぽど窓に近付きでもしない限り、外からは見えないのだろうけど、でも私は、お風呂の照明を点けて入る勇気はなかった。
 だけど、暗い中で入るのも怖い。初めての部屋で、水場で、しかも鏡があるとか、もうアレに出てきてくださいと言わんばかりだと思う。
 もちろん、霊感とかないし、見たことも感じたこともないんだけど。怖いものは怖い。

 すっかりブルーな気持ちで歯を磨いていたら、毅さんが戻ってきて、隣に立って歯を磨き始めた。歯ブラシを入れている変な顔が鏡に映らないように、私はさりげなく洗面台に背を向けた。
 先に磨き終わって、口をすすぐ。鏡の前に、使ったコップに歯ブラシを差して置く。

 それから、ちょっと気になって、お風呂をのぞきに行った。低い位置にある照明が、ふわんと照らし出しているそこは、さっき部屋の確認ついでに見た時と違って、とても寛げそうないい雰囲気になっていた。
 お湯は、まだあまり溜まっていない。一人分にしては広いけれど、二人分には狭い、そんな湯船。

「一緒に入る?」

 後からやってきた毅さんが、触れそうなほどすぐ後ろに立って、私の頭の上から湯船をのぞいて、そんなことを聞いた。

「ひ、ひとりで」
「そう? どうしても?」

 背後からやんわりと抱き締められて、耳元に彼の顎が当てられた。顎を引かれて、ちゅっとキスされる。
 心臓がばくばくする。身を硬くして、目をつぶっているしかできない。
 ぎゅっとかたまっていたら、苦笑だろうか、くすりと喉の奥で笑うのが聞こえ、わかった、と優しい声で囁かれた。

「じゃあ、先に入る? 後に入る?」
 私はめまぐるしく考えた。先? 後? 先に入って待ってるのと、出てくるのを待っていて入るのなら……

「後に入ります」
「うん。なら、俺が先に入るね」

 体に巻きついていた腕が離れていく。足音も遠ざかっていく。
 私はそこでようやく、半ば止めていた息を、大きく吸い込めたのだった。
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