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4 初めてのお泊まり
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秋の日暮れは早い。外に出たら、空が黄色と朱色と水色にまだらに染まっていた。時計を見ると四時。
「帰りは真っ暗になっちゃいますね」
「今日は帰らない」
「え?」
私は驚いて、立ち止まって毅さんを見上げた。
「泊まるんですか?」
彼は、うん、と頷いて、じっと私を見た。それから少し視線をはずし、硬い声で言った。
「嫌なら、駅まで送っていくから、一人で帰って」
急に突き放されて、不安と動揺に襲われた。
一人でって、これから一人で帰れっていうの? こんなところまで、連れてきておいて?
勝手だ、と思った。泊まるなんて、聞いてなかった。知ってたら……知ってたら、私はどうしただろう?
きっと、断ってた。だって、泊まるって、ただおやすみなさいって寝るだけじゃないよね? そんなの、まだ、決心つかない。
会って二ヵ月で、一週間前にキスしたばかりで、大人って、そうしたら、もうこんな関係になるものなの? それが、自然なの?
……そうなのかもしれなかった。少なくとも、私が見聞きする小説や漫画やドラマの中では。
それになにより。
私は毅さんの顔から、目がはなせなかった。その、ぜんぜん余裕がなくて、でも、逃げ出さないで立っている、弱さと強さの入り混じった表情から。
断ったら、この顔がもっと強張るんだろうな、と思った。成長痛の時のように、泣かないかもしれないけれど、泣きたい気持ちにはさせるのかもしれない、と。
毅さんが一人きりでホテルの部屋にいる姿が思い浮かんで、それは、嫌だと思った。
私は、この人に、そんな顔をさせたくない。
「……一緒に、泊まります」
彼の視線が戻ってきた。ほっとしたように、目元がゆるむ。
「……行こうか」
さしだされた彼の手を、私は取って、握り返した。
初めて触れた彼の手は、うわっと思うほど大きくて、男の人の手で、私はもっと激しくなる動悸を抑えようと、あいているもう片方の手を心臓の位置においた。
予約してあったという駅前のホテルに連れていかれた。
ホテルからあふれる光は、暮れた町の中で、ひときわきらきらしく金色に輝いていた。
最上階にある和食のレストランの奥の個室で、夜景を眺めながら、おいしい冷酒をかたむけつつ、手間の掛かったお食事をいただいた。
二人でお酒を飲むのも初めてだった。だって、彼はいつも車だったから。飲んでもいいよとは言われていたけれど、遠慮してもお金を払ってくれるのは彼だったし、そんな彼をさしおいて、一人で飲むのは気が引けた。
「それ、口に合ったみたいだね」
「はい。おいしいです」
私は、徳利を傾けてくれた彼に、素直にお猪口をさしだして、注いでもらった。それを受け取って、彼のものも満たす。
だけど、彼が一回なら、私はその三倍は飲んでいた。彼はゆっくりと、まさに嗜む感じで飲んでいて、おいしそうにきれいに飲む人だなあと思ったのだけれど、私はとにかく酔いたかった。
この先のことを考えたら、酔わずにはいられなかった。とても素面ではいられなかった。なのに、飲んでも飲んでもいっこうに酔った気がしない。たぶん、緊張しているせいだろう。
「お酒、追加しようか」
「あ、ええと」
彼が徳利を揺らして、くすりと笑った。
「見かけによらず、強いね」
「そんなことないです。でも、おいしくて」
言い訳しながら、やっぱりちょっと、はしたなかっただろうかと考えた。
私は恥ずかしくてうつむいた。
「だったら、同じの頼もうか」
彼が呼び出しに手を伸ばそうとするのを、慌てて止める。
「いいです、もう、じゅうぶんいただきました。あ、でも、私がたくさん飲んでしまったから、毅さんは飲み足りなくなってしまったですか?」
言ってる途中で気付いて、もっと恥ずかしくなった上に、それで上擦ったものだから、言葉までおかしくなる。
しまったですか、って何!? 駄目だ。駄目。いろいろ駄目すぎる!
私はどうしようもなくなって、目をつぶって、手で熱くなるいっぽうの顔を覆った。
「いや、俺はいいんだけど。せっかくだから、遠慮しないで?」
「ほんとに、もういいです」
手の下で、もごもご答える。
「うん。お酒もだけど、言葉遣いも」
優しい声と、その意味するものにはっとして、私はそろりと顔を上げた。
「時々、話しにくそうにしているよね。俺にも、家族や友達と話すみたいにしてくれたら、嬉しいんだけど」
彼は穏やかに微笑んでいて、その優しい顔に、どきりとする。
たぶん、別の意味でまた顔が熱くなってきて、思考が散らかって、言葉が出てこない。
彼は、急に心配そうな表情になって、首を傾げた。
「あれ。真っ赤だ。もしかして、酔いがまわってきた?」
あ。ああああ。そうかもしれない。うわああああ、今頃……。
「はい。ふわふわします」
「大丈夫?」
彼が立ち上がって、横にやってきた。
「気持ち悪くない?」
「大丈夫です」
「ごめん、飲ませすぎた」
「そんなことないです。ほろ酔いでいい気分です」
「そう? 食事はできる?」
「はい。食べたいです。どれもおいしいから」
彼はしばらく私を確かめるように見ていたけれど、ふっと笑って、ぽんぽんと頭の上に手をのせた。
「じゃあ、もう少し、食事を楽しもうか」
「はい」
私は彼の気遣いが嬉しくて、にこりと笑った。
と。頭の上の彼の手が、当てられたまま、留まって。
「ごめん、ちょっとだけ、いいかな」
一週間前に、車の中で感じたのと同じものを感じて。
私は答える代わりに、そっと目をつぶった。
「帰りは真っ暗になっちゃいますね」
「今日は帰らない」
「え?」
私は驚いて、立ち止まって毅さんを見上げた。
「泊まるんですか?」
彼は、うん、と頷いて、じっと私を見た。それから少し視線をはずし、硬い声で言った。
「嫌なら、駅まで送っていくから、一人で帰って」
急に突き放されて、不安と動揺に襲われた。
一人でって、これから一人で帰れっていうの? こんなところまで、連れてきておいて?
勝手だ、と思った。泊まるなんて、聞いてなかった。知ってたら……知ってたら、私はどうしただろう?
きっと、断ってた。だって、泊まるって、ただおやすみなさいって寝るだけじゃないよね? そんなの、まだ、決心つかない。
会って二ヵ月で、一週間前にキスしたばかりで、大人って、そうしたら、もうこんな関係になるものなの? それが、自然なの?
……そうなのかもしれなかった。少なくとも、私が見聞きする小説や漫画やドラマの中では。
それになにより。
私は毅さんの顔から、目がはなせなかった。その、ぜんぜん余裕がなくて、でも、逃げ出さないで立っている、弱さと強さの入り混じった表情から。
断ったら、この顔がもっと強張るんだろうな、と思った。成長痛の時のように、泣かないかもしれないけれど、泣きたい気持ちにはさせるのかもしれない、と。
毅さんが一人きりでホテルの部屋にいる姿が思い浮かんで、それは、嫌だと思った。
私は、この人に、そんな顔をさせたくない。
「……一緒に、泊まります」
彼の視線が戻ってきた。ほっとしたように、目元がゆるむ。
「……行こうか」
さしだされた彼の手を、私は取って、握り返した。
初めて触れた彼の手は、うわっと思うほど大きくて、男の人の手で、私はもっと激しくなる動悸を抑えようと、あいているもう片方の手を心臓の位置においた。
予約してあったという駅前のホテルに連れていかれた。
ホテルからあふれる光は、暮れた町の中で、ひときわきらきらしく金色に輝いていた。
最上階にある和食のレストランの奥の個室で、夜景を眺めながら、おいしい冷酒をかたむけつつ、手間の掛かったお食事をいただいた。
二人でお酒を飲むのも初めてだった。だって、彼はいつも車だったから。飲んでもいいよとは言われていたけれど、遠慮してもお金を払ってくれるのは彼だったし、そんな彼をさしおいて、一人で飲むのは気が引けた。
「それ、口に合ったみたいだね」
「はい。おいしいです」
私は、徳利を傾けてくれた彼に、素直にお猪口をさしだして、注いでもらった。それを受け取って、彼のものも満たす。
だけど、彼が一回なら、私はその三倍は飲んでいた。彼はゆっくりと、まさに嗜む感じで飲んでいて、おいしそうにきれいに飲む人だなあと思ったのだけれど、私はとにかく酔いたかった。
この先のことを考えたら、酔わずにはいられなかった。とても素面ではいられなかった。なのに、飲んでも飲んでもいっこうに酔った気がしない。たぶん、緊張しているせいだろう。
「お酒、追加しようか」
「あ、ええと」
彼が徳利を揺らして、くすりと笑った。
「見かけによらず、強いね」
「そんなことないです。でも、おいしくて」
言い訳しながら、やっぱりちょっと、はしたなかっただろうかと考えた。
私は恥ずかしくてうつむいた。
「だったら、同じの頼もうか」
彼が呼び出しに手を伸ばそうとするのを、慌てて止める。
「いいです、もう、じゅうぶんいただきました。あ、でも、私がたくさん飲んでしまったから、毅さんは飲み足りなくなってしまったですか?」
言ってる途中で気付いて、もっと恥ずかしくなった上に、それで上擦ったものだから、言葉までおかしくなる。
しまったですか、って何!? 駄目だ。駄目。いろいろ駄目すぎる!
私はどうしようもなくなって、目をつぶって、手で熱くなるいっぽうの顔を覆った。
「いや、俺はいいんだけど。せっかくだから、遠慮しないで?」
「ほんとに、もういいです」
手の下で、もごもご答える。
「うん。お酒もだけど、言葉遣いも」
優しい声と、その意味するものにはっとして、私はそろりと顔を上げた。
「時々、話しにくそうにしているよね。俺にも、家族や友達と話すみたいにしてくれたら、嬉しいんだけど」
彼は穏やかに微笑んでいて、その優しい顔に、どきりとする。
たぶん、別の意味でまた顔が熱くなってきて、思考が散らかって、言葉が出てこない。
彼は、急に心配そうな表情になって、首を傾げた。
「あれ。真っ赤だ。もしかして、酔いがまわってきた?」
あ。ああああ。そうかもしれない。うわああああ、今頃……。
「はい。ふわふわします」
「大丈夫?」
彼が立ち上がって、横にやってきた。
「気持ち悪くない?」
「大丈夫です」
「ごめん、飲ませすぎた」
「そんなことないです。ほろ酔いでいい気分です」
「そう? 食事はできる?」
「はい。食べたいです。どれもおいしいから」
彼はしばらく私を確かめるように見ていたけれど、ふっと笑って、ぽんぽんと頭の上に手をのせた。
「じゃあ、もう少し、食事を楽しもうか」
「はい」
私は彼の気遣いが嬉しくて、にこりと笑った。
と。頭の上の彼の手が、当てられたまま、留まって。
「ごめん、ちょっとだけ、いいかな」
一週間前に、車の中で感じたのと同じものを感じて。
私は答える代わりに、そっと目をつぶった。
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