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3 初めての遠出
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翌週も、いつもと同じに、十一時ごろに彼が迎えに来た。
キスした後に初めて会うのはどんな感じなんだろうと身構えていたけど、全然何も変わらなかった。彼も、私も、普通。
そうだよね。キスしたからって、自分のどこかが変わったわけじゃない。
そういえば、メールも電話も、通常通りだったなと思い返す。
平日はお互いというか、彼が忙しくて、十時半より前に帰ったことがないらしいから、あまり電話もメールもしない。私も仕事と家事以外にたいしたことしていないから、そんなに話題もないというのか。会った時に話せばいいというのか。
だけど、面白いものや綺麗なものや気になったものは、携帯でいっぱい撮っておくようになった。見せたいなあ、話したいなあというものが、毎日たくさん目に付くようになった。
その日はすぐに高速に乗って、南へ向かった。紅葉の名所に連れていってくれるということだった。
彼の祖父母が住んでいた町にあるそうで、小さい頃に遊びに行くと、いつもその山の上の公園へ連れて行ってくれて、そこがとても好きだったのだと教えてくれた。
小さな湖に広い芝生。アスレチックなんかもあって、そこで汗だくになって遊び転げた、それで遊び疲れると、湖畔にある赤い屋根の図書館で、寝転がって絵本を読んだ、なんてことを、楽しそうに話してくれた。
そんな彼はどこか微笑ましくて、その頃の姿が透けて見えるようで、こんな大きい人にも小さな頃があったんだなあと思うと、不思議になった。
「どんな子供だったんですか? 小さな頃から体が大きくて、暴れん坊だったとか」
ちょっとだけからかうつもりで言ったら、全然違うと苦笑された。
「ずっと小さかったんだ。だから、なんとなく、いつでも人の後ろにばかりいたな」
「前じゃなくて?」
「ああ、うん、そう、並ぶ時は、前から二番目だった」
「ええー?」
「伸びたのは、中学二年の時。半年で二十センチも伸びて、体中痛くて、眠れなかった」
「ああー。うちの弟もそれで泣いてました。小学校六年生の時」
「うん。あれは泣きたくなる」
「毅さんも泣いたんですか?」
「泣かないよ」
そうだよね、中学二年生だもんね。一番とんがってた頃だよね、きっと。
この人にも反抗期があったんだろうなあなんて考えたら、おかしくなった。
もっと知りたいな、と思った。毅さんのこと、たくさん。
その公園はいつもよりだいぶ遠くて、お昼はサービスエリアで食べて、午後の二時くらいに着いた。
とても綺麗だった。まわりの山が紅葉で燃えるように真っ赤。今住んでいる町や私の実家はどちらかと言えば寒い地方で、針葉樹林が多く、秋も紅葉というよりは黄葉になってしまう。
それが少し南に下りてくると、こんなに植生が違うんだ、というくらい、山の様相が違っていた。
初冬へ向かう晩秋の空は深く澄み渡っていて、その下で鮮やかな赤の饗宴が広がるのは、心が浮き立つと同時に、しんとするような荘厳さもあった。
「すごい、ですね」
毅さんと並んで散策しながら、そんな言葉が零れ落ちた。それしか言えなかった。
「うん。すごいね」
そう返してくれたのが、なんだかとても、満ち足りた気分になった。
湖畔の図書館は、まるで教会みたいだった。小さくて、とてもかわいい。中に入れば、赤い絨毯が敷き詰められていて、小さな子供がお母さんやお父さんと絵本を読んでいた。
置いてある本も、絵本と図鑑ばかりのようだ。私たちも靴を脱いであがった。
「毅さんはどんな本が好きだったんですか?」
「どれだったかな」
彼は記憶を辿るようにして、奥のほうへ行った。私もついていく。
「でも、よく考えたら、二十年以上前の話だ。もうないかもしれないな」
「とっても夢中だった本なら、あると思いますよ。いい絵本は、何十年でも新しい子供たちに愛されるから」
「ああ……、本当だ、あった」
彼が手に取ったのは、水色の表紙の外国の絵本だった。
「あ、これ! 私も好きでした。小さな除雪車のお話」
「うん。いつも役立たずの除雪車が、大雪が降った日に、町中の雪をかくんだ」
毅さんと私は床に座って、ゆっくりとその本をめくっていった。
いつも大きな除雪車に出番を奪われていた小さな除雪車は、百年に一度の大雪の日、小回りが利いて素早い動きで、町中に一本道を作っていく。その後を救急車が通り、人々が通り、大きな除雪車がゆっくりと道を広げていく。小さな英雄のお話だ。
読み終わると、毅さんは私に聞いた。
「藍子さんが好きだった本は?」
「ちょっと待っててくださいね!」
私も外国の絵本の書棚をのぞいて、お目当ての本を見つけた。寄宿学校に住んでいる女の子のお話。一番小さいのに、一番勇気があって、これを読んでいると、彼女と一緒に冒険して、いつでもどきどきわくわくできた。
それも一緒に読む。
「藍子さんも、こんなふうにお転婆だった?」
「ううん。こうなれたらいいなあって思ってました」
「ああ。俺もそう思ってたな」
毅さんは、さっきの本の表紙を撫でた。小さな除雪車の上を。
そうか。この人は、こんな憧れを持って、育ってきたんだ。こんな英雄になりたいって。
彼は特別な人じゃない。恋愛小説に出てくるようなお金持ちでもなければ、イケメンでもない。普通の会社員の息子で、勤めている会社も、ごくごく普通の会社。
それでも、なにか大切なものをちゃんと持っている人だ。
私は初めて、彼の好きなところを意識した。
キスした後に初めて会うのはどんな感じなんだろうと身構えていたけど、全然何も変わらなかった。彼も、私も、普通。
そうだよね。キスしたからって、自分のどこかが変わったわけじゃない。
そういえば、メールも電話も、通常通りだったなと思い返す。
平日はお互いというか、彼が忙しくて、十時半より前に帰ったことがないらしいから、あまり電話もメールもしない。私も仕事と家事以外にたいしたことしていないから、そんなに話題もないというのか。会った時に話せばいいというのか。
だけど、面白いものや綺麗なものや気になったものは、携帯でいっぱい撮っておくようになった。見せたいなあ、話したいなあというものが、毎日たくさん目に付くようになった。
その日はすぐに高速に乗って、南へ向かった。紅葉の名所に連れていってくれるということだった。
彼の祖父母が住んでいた町にあるそうで、小さい頃に遊びに行くと、いつもその山の上の公園へ連れて行ってくれて、そこがとても好きだったのだと教えてくれた。
小さな湖に広い芝生。アスレチックなんかもあって、そこで汗だくになって遊び転げた、それで遊び疲れると、湖畔にある赤い屋根の図書館で、寝転がって絵本を読んだ、なんてことを、楽しそうに話してくれた。
そんな彼はどこか微笑ましくて、その頃の姿が透けて見えるようで、こんな大きい人にも小さな頃があったんだなあと思うと、不思議になった。
「どんな子供だったんですか? 小さな頃から体が大きくて、暴れん坊だったとか」
ちょっとだけからかうつもりで言ったら、全然違うと苦笑された。
「ずっと小さかったんだ。だから、なんとなく、いつでも人の後ろにばかりいたな」
「前じゃなくて?」
「ああ、うん、そう、並ぶ時は、前から二番目だった」
「ええー?」
「伸びたのは、中学二年の時。半年で二十センチも伸びて、体中痛くて、眠れなかった」
「ああー。うちの弟もそれで泣いてました。小学校六年生の時」
「うん。あれは泣きたくなる」
「毅さんも泣いたんですか?」
「泣かないよ」
そうだよね、中学二年生だもんね。一番とんがってた頃だよね、きっと。
この人にも反抗期があったんだろうなあなんて考えたら、おかしくなった。
もっと知りたいな、と思った。毅さんのこと、たくさん。
その公園はいつもよりだいぶ遠くて、お昼はサービスエリアで食べて、午後の二時くらいに着いた。
とても綺麗だった。まわりの山が紅葉で燃えるように真っ赤。今住んでいる町や私の実家はどちらかと言えば寒い地方で、針葉樹林が多く、秋も紅葉というよりは黄葉になってしまう。
それが少し南に下りてくると、こんなに植生が違うんだ、というくらい、山の様相が違っていた。
初冬へ向かう晩秋の空は深く澄み渡っていて、その下で鮮やかな赤の饗宴が広がるのは、心が浮き立つと同時に、しんとするような荘厳さもあった。
「すごい、ですね」
毅さんと並んで散策しながら、そんな言葉が零れ落ちた。それしか言えなかった。
「うん。すごいね」
そう返してくれたのが、なんだかとても、満ち足りた気分になった。
湖畔の図書館は、まるで教会みたいだった。小さくて、とてもかわいい。中に入れば、赤い絨毯が敷き詰められていて、小さな子供がお母さんやお父さんと絵本を読んでいた。
置いてある本も、絵本と図鑑ばかりのようだ。私たちも靴を脱いであがった。
「毅さんはどんな本が好きだったんですか?」
「どれだったかな」
彼は記憶を辿るようにして、奥のほうへ行った。私もついていく。
「でも、よく考えたら、二十年以上前の話だ。もうないかもしれないな」
「とっても夢中だった本なら、あると思いますよ。いい絵本は、何十年でも新しい子供たちに愛されるから」
「ああ……、本当だ、あった」
彼が手に取ったのは、水色の表紙の外国の絵本だった。
「あ、これ! 私も好きでした。小さな除雪車のお話」
「うん。いつも役立たずの除雪車が、大雪が降った日に、町中の雪をかくんだ」
毅さんと私は床に座って、ゆっくりとその本をめくっていった。
いつも大きな除雪車に出番を奪われていた小さな除雪車は、百年に一度の大雪の日、小回りが利いて素早い動きで、町中に一本道を作っていく。その後を救急車が通り、人々が通り、大きな除雪車がゆっくりと道を広げていく。小さな英雄のお話だ。
読み終わると、毅さんは私に聞いた。
「藍子さんが好きだった本は?」
「ちょっと待っててくださいね!」
私も外国の絵本の書棚をのぞいて、お目当ての本を見つけた。寄宿学校に住んでいる女の子のお話。一番小さいのに、一番勇気があって、これを読んでいると、彼女と一緒に冒険して、いつでもどきどきわくわくできた。
それも一緒に読む。
「藍子さんも、こんなふうにお転婆だった?」
「ううん。こうなれたらいいなあって思ってました」
「ああ。俺もそう思ってたな」
毅さんは、さっきの本の表紙を撫でた。小さな除雪車の上を。
そうか。この人は、こんな憧れを持って、育ってきたんだ。こんな英雄になりたいって。
彼は特別な人じゃない。恋愛小説に出てくるようなお金持ちでもなければ、イケメンでもない。普通の会社員の息子で、勤めている会社も、ごくごく普通の会社。
それでも、なにか大切なものをちゃんと持っている人だ。
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