幸福な降伏の吐息

伊簑木サイ

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2 初めてのキス

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 私の趣味は読書。無趣味のいいわけみたいだけど、本当。普通の文学作品も読むけど、特に絵本とか、児童書とかが好き。ほら、絵本や児童書の絵や話は、たいてい明るくて前向きで綺麗でしょう? そういうのが好きなんだと思う。
 その並びで、美術館や博物館を見るのも好き。市営の美術館でやる展覧会は漏らさないし、都内で興味のある展覧会が複数ある時は、お友達と泊りがけで見に行ったりもする。

 でも、県内にある小さな美術館というのは、自然が観光の売りになっているような土地柄のために、山の中に散在していて、車を持っていない私は、なかなか行く機会がなかった。
 そこへ、ドライブが趣味な彼は、デートのたびごとに連れていってくれた。
 次はここがいいなあと、県内の観光情報雑誌を見せると、じゃあ、そこへ行こうと頷いてくれる。

 はじめは、すごく近場だった。車なら三十分もあれば行けるようなところ。お昼には目的が果たせてしまって、周辺の山の中を遠回りしてドライブ、夕方にはさようなら、な感じ。
 それが、だんだんと遠くになっていって、夕飯も一緒に食べるようになり。
 一緒にいる時間も、話す時間も長くなって。

 ある日、いつものようにアパートの玄関先まで送ってくれた時。
 なんだか離れがたくて、彼もそう思っているようで、何か言いたげなのがわかった。わかったんだけど、言い出しあぐねているのもわかった。

 だって、私たちは、本当に礼儀正しく、今時珍しいくらい、清く正しくお付き合いしていた。たぶん、間にきちんとした第三者が入っていたからだと思う。
 私にとっては大家さんでお花の先生で、彼にとってもお母さまの先生。その人を裏切って信用をなくすようなまねをしてはいけないと、社会人としてわかっていた。

 だからいつでも彼は、節度を守って、きちんとしてくれていた。アパートに上がろうともしなかったし、遅くとも九時には家に帰れるようにしてくれていた。
 大人なのに、九時。女友達とだって、飲み歩いたら一時過ぎなのに、彼とは九時。
 本当はもうちょっといたいなと思っても、車はその時間にアパートの前に停まる。

 この日も、何かを言い出そうとしていた彼が、逡巡の末に、黙って身を引いた。私は、それを追いかけるようにして、ぽん、と言葉を口にしていた。

「キスしてみますか?」

 自分でも、何を言ったのかわかっていなかった。ただ、了承しただけのつもりだった。けれど、

「なんでそういうこと、言うのかな」

 彼は怒ったような低い声を出して、それでようやく私は、自分の言った内容に気付き、恥ずかしさに身をかたくした。
 でも、そのとたんに手が伸びてきて。頭の後ろにあてられて引き寄せられて。噛み付くように唇を重ねられた。その上はじめてなのに、いきなりディープになって、舌を絡められていた。

 キスの間中、驚きのあまり、じっとしていた。応えるとか感じるとか、そんなのは遠い話で、ただ、彼の唇と舌と、……その、えーと、つまり、唾液を、脳内停止で味わっていたというか。

 どのくらいそうしていたのか、よくわからない。よくわからないけれど、最後のほうで、額をあわせながら、来週は俺がどこに行くか決めていい? と聞かれた。
 私は声もなく、こくりと頷いた。言葉まで頭がまわらなかった。

 それで、車から降ろされた。また、来週の土曜日に迎えに来るから、と言われて。
 彼の車を見送って、ぼんやりと部屋に戻り、歯ブラシを口に入れる感覚にいろいろ思い出して悶えて、その日はさっさと寝ることにした。
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