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第一話
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阿賀波京介はいつだって背中を丸めて歩いていた。身長190センチという高身長は彼にとっては悩みの種でしかなくて、歩くだけで人に見られているような気がして毎日が憂鬱だった。
目立ちたくない、なんなら存在に気づかずにいてほしい。そんな願いはしかし、その身長のせいで叶えられることなかった。校舎の廊下を歩けば遠くからでも存在に気づかれるし、どれだけ背を丸めて歩いても、人混みの中、頭一つ分……いや二つ分はぴょっこりと飛び出してしまうのだ。
目立ちたくない
誰にも見られたくない
存在に気づかれたくない
だから背中を丸めて息を潜めて生きた。
教室の隅っこで、俯いて、誰の顔も見ようともせずに。話題のテレビ番組、配信動画、ネットで話題の画像、美味しいお店の話、人気のアイドルグループ、教室を飛び交う話題は今日も京介には眩しく映った。眩しくて、眩しくて、日陰に生きる京介には恐怖にすら感じられた。
「なあ、見た? 昨日の「ラブすぴ」のとっきーめっちゃ可愛くなかった? やっぱ天使だわあ」
「わかる、それな。とっきーしか勝たん」
「あー、あんな子が彼女だったらなあ」
「無理に決まってるだろ、お前鏡見ろよな」
「わーってるよ! いいだろ夢見るぐらい!」
毎日のように聞こえてくる「とっきー」という名前。今をときめく売れっ子アイドル「烏丸時生」の愛称だ。流行りに疎い京介でもその存在を知っているくらいだから、相当人気があるのだろう──京介はぼんやりそんなことを考えていた。
「おはよう、阿賀波君」
と、そっけない挨拶が頭の上に降ってきた。
突然のことに驚いてビクッと肩を震わせ恐る恐る顔を上げると、そこには、前の席のクラスメイト五条緋夏がいた。赤みがかったロングヘアーと少し気の強そうなぱっちり大きな目とふくよかな胸が印象的な少女だ。
「あ………お、おはよう……ございます……」
「阿賀波君、私、言ったわよね? その前髪ちゃんと切ってきなさいって」
「あっ、いや、えと……ご、ごめん……その、顔が見えちゃうと不安で」
京介は申し訳程度にささっと前髪を整えてみせた。
京介は常に前髪を長く伸ばして目を隠し、髪もボサボサで、お世辞にも清潔感があるとは言えない。酷いときには無精髭が残ったまま登校してきてしまうこともあり、それを、しばしば緋夏に注意されることがある。あまり身なりに気を使わないとはいえ最低限の身だしなみはした方がいいと本人も思ってはいるのだが、ついつい疎かにしてしまうのだ。
「まあいいわ、今日はきちんと髭を剃ってきているみたいだし。明日はちゃんと前髪を切ってくるのよ」
「わ、わかった……」
と京介は長く伸びた前髪をモジモジ弄りながら適当に返事をした。すると、
「委員長がまーたお母さんしてるよ」
「本当委員長てお母さんだよなあ」
「委員長ー俺のことも叱ってくれよお」
「俺も叱られてえよおー」
クラスのあちこちから緋夏をからかう声が飛んできた。
「だ、誰がお母さんよ! 私はクラス委員長でお母さんじゃないわよ!」
緋夏が顔を赤くして怒る。
京介はクラスメイトの視線が自分に向くのを恐れて慌てて下を向き、顔を逸した。すると、
「まったくもう、貴方のせいなんだからねっ」
「ご、ごめん……」
「とにかく、明日はちゃんと前髪切ってきてちょうだいよ。それとも自分で切る自信がないの?」
「いや、別にそういうわけでは……」
「まあ、それなら特別に私が切ってあげてもいいんだけど……」
緋夏は少し頬を赤らめながら、もごもごと独り言のようなことを口にする。
「んだよー、阿賀波まだ前髪切ってないのかよお! このままじゃ委員長に切られちまうぜ!? いいのかよ、斜めになるぜ斜めに! なんだったらオレが切ってやろうか?」
と、陽気な男子生徒がハサミを持って二人の間に割り込んできた。
「い、いや、いいよ、ありがとう……えっと、七瀬……君……」
「遠慮すんなって! 俺兄妹多いから妹達の髪俺が切ってやってんだよなー、だから委員長よりかは上手いはずだぜ?」
「そ、そうなんだ……」
「てなわけで、ほれ、屋上行こうぜ! 委員長も一緒に来るか? 俺が手本見せてや───」
言い終わらぬうちに七瀬は恐怖に凍りついた。なぜか緋夏は無言で物凄い怒気を纏い地獄のように冷たい眼差しを七瀬に突きつけていたのだ。
「おわああああ! なに、なに委員長なんでそんな怒ってんだ俺なんかしたかっ?」
七瀬は悲鳴を上げて後ずさりし、少し離れた場所にいた男子生徒の背後に身を隠した。
「なんでもないわ、とっとと席につきなさい。授業が始まるわよ」
「まだ時間あるけど……」
と七瀬が口答えするが、再び睨みつけられ言葉を封じられてしまう。
「な、なんなんだよお……」
「ところで栗花落君、さっきから何をしているの?」
緋夏は訝しげに眉をひそめる。
栗花落──栗花落薫、七瀬が背後に隠れた男子生徒の名前である。整った顔立ちだがその表情はあまり変わることがなく、何を考えているのかよくわからない。そして、なぜか、彼の眼鏡は常に謎の光が反射し、その目を認識することができない。これがどういう原理なのか、誰にもわからない……
その栗花落薫だが、さっきからずっと両手を緋夏に向けて指をわきわきと動かし続けている。
「頭の体操だ」
「頭の体操?」
「委員長の胸の柔らかさと弾力を想像しているのだ。要するにイメトレだ」
「んなっ……ななななななにしてるのよ最低ばか!」
緋夏は顔を真っ赤にし、両手で胸を隠して後ずさりした。
「いつか揉んでみたいものだ」
「させるわけないでしょ!」
「ごめんなー委員長。コイツめっちゃ乳好きなんだよ。家にめっちゃAVある」
七瀬が飽きれた顔で栗花落を指差す。
「委員長も一緒に見るか」
「見るわけ無いでしょ! ていうかはずかしげもなくよくそんな話できるわね!」
「当然だ。乳マニアの私が乳に興奮し夢を見るのは当然のことだろう。何を恥ずべきことがあるのか」
「恥じなさいよ!」
「あー、まあその話は置いといて。とりあえず阿賀波、前髪切りに…………て、あれ? どこ行った」
七瀬が京介に話を戻すと、既に京介の姿は消えていた。
「ありゃ、逃げちゃったか……」
目立ちたくない、なんなら存在に気づかずにいてほしい。そんな願いはしかし、その身長のせいで叶えられることなかった。校舎の廊下を歩けば遠くからでも存在に気づかれるし、どれだけ背を丸めて歩いても、人混みの中、頭一つ分……いや二つ分はぴょっこりと飛び出してしまうのだ。
目立ちたくない
誰にも見られたくない
存在に気づかれたくない
だから背中を丸めて息を潜めて生きた。
教室の隅っこで、俯いて、誰の顔も見ようともせずに。話題のテレビ番組、配信動画、ネットで話題の画像、美味しいお店の話、人気のアイドルグループ、教室を飛び交う話題は今日も京介には眩しく映った。眩しくて、眩しくて、日陰に生きる京介には恐怖にすら感じられた。
「なあ、見た? 昨日の「ラブすぴ」のとっきーめっちゃ可愛くなかった? やっぱ天使だわあ」
「わかる、それな。とっきーしか勝たん」
「あー、あんな子が彼女だったらなあ」
「無理に決まってるだろ、お前鏡見ろよな」
「わーってるよ! いいだろ夢見るぐらい!」
毎日のように聞こえてくる「とっきー」という名前。今をときめく売れっ子アイドル「烏丸時生」の愛称だ。流行りに疎い京介でもその存在を知っているくらいだから、相当人気があるのだろう──京介はぼんやりそんなことを考えていた。
「おはよう、阿賀波君」
と、そっけない挨拶が頭の上に降ってきた。
突然のことに驚いてビクッと肩を震わせ恐る恐る顔を上げると、そこには、前の席のクラスメイト五条緋夏がいた。赤みがかったロングヘアーと少し気の強そうなぱっちり大きな目とふくよかな胸が印象的な少女だ。
「あ………お、おはよう……ございます……」
「阿賀波君、私、言ったわよね? その前髪ちゃんと切ってきなさいって」
「あっ、いや、えと……ご、ごめん……その、顔が見えちゃうと不安で」
京介は申し訳程度にささっと前髪を整えてみせた。
京介は常に前髪を長く伸ばして目を隠し、髪もボサボサで、お世辞にも清潔感があるとは言えない。酷いときには無精髭が残ったまま登校してきてしまうこともあり、それを、しばしば緋夏に注意されることがある。あまり身なりに気を使わないとはいえ最低限の身だしなみはした方がいいと本人も思ってはいるのだが、ついつい疎かにしてしまうのだ。
「まあいいわ、今日はきちんと髭を剃ってきているみたいだし。明日はちゃんと前髪を切ってくるのよ」
「わ、わかった……」
と京介は長く伸びた前髪をモジモジ弄りながら適当に返事をした。すると、
「委員長がまーたお母さんしてるよ」
「本当委員長てお母さんだよなあ」
「委員長ー俺のことも叱ってくれよお」
「俺も叱られてえよおー」
クラスのあちこちから緋夏をからかう声が飛んできた。
「だ、誰がお母さんよ! 私はクラス委員長でお母さんじゃないわよ!」
緋夏が顔を赤くして怒る。
京介はクラスメイトの視線が自分に向くのを恐れて慌てて下を向き、顔を逸した。すると、
「まったくもう、貴方のせいなんだからねっ」
「ご、ごめん……」
「とにかく、明日はちゃんと前髪切ってきてちょうだいよ。それとも自分で切る自信がないの?」
「いや、別にそういうわけでは……」
「まあ、それなら特別に私が切ってあげてもいいんだけど……」
緋夏は少し頬を赤らめながら、もごもごと独り言のようなことを口にする。
「んだよー、阿賀波まだ前髪切ってないのかよお! このままじゃ委員長に切られちまうぜ!? いいのかよ、斜めになるぜ斜めに! なんだったらオレが切ってやろうか?」
と、陽気な男子生徒がハサミを持って二人の間に割り込んできた。
「い、いや、いいよ、ありがとう……えっと、七瀬……君……」
「遠慮すんなって! 俺兄妹多いから妹達の髪俺が切ってやってんだよなー、だから委員長よりかは上手いはずだぜ?」
「そ、そうなんだ……」
「てなわけで、ほれ、屋上行こうぜ! 委員長も一緒に来るか? 俺が手本見せてや───」
言い終わらぬうちに七瀬は恐怖に凍りついた。なぜか緋夏は無言で物凄い怒気を纏い地獄のように冷たい眼差しを七瀬に突きつけていたのだ。
「おわああああ! なに、なに委員長なんでそんな怒ってんだ俺なんかしたかっ?」
七瀬は悲鳴を上げて後ずさりし、少し離れた場所にいた男子生徒の背後に身を隠した。
「なんでもないわ、とっとと席につきなさい。授業が始まるわよ」
「まだ時間あるけど……」
と七瀬が口答えするが、再び睨みつけられ言葉を封じられてしまう。
「な、なんなんだよお……」
「ところで栗花落君、さっきから何をしているの?」
緋夏は訝しげに眉をひそめる。
栗花落──栗花落薫、七瀬が背後に隠れた男子生徒の名前である。整った顔立ちだがその表情はあまり変わることがなく、何を考えているのかよくわからない。そして、なぜか、彼の眼鏡は常に謎の光が反射し、その目を認識することができない。これがどういう原理なのか、誰にもわからない……
その栗花落薫だが、さっきからずっと両手を緋夏に向けて指をわきわきと動かし続けている。
「頭の体操だ」
「頭の体操?」
「委員長の胸の柔らかさと弾力を想像しているのだ。要するにイメトレだ」
「んなっ……ななななななにしてるのよ最低ばか!」
緋夏は顔を真っ赤にし、両手で胸を隠して後ずさりした。
「いつか揉んでみたいものだ」
「させるわけないでしょ!」
「ごめんなー委員長。コイツめっちゃ乳好きなんだよ。家にめっちゃAVある」
七瀬が飽きれた顔で栗花落を指差す。
「委員長も一緒に見るか」
「見るわけ無いでしょ! ていうかはずかしげもなくよくそんな話できるわね!」
「当然だ。乳マニアの私が乳に興奮し夢を見るのは当然のことだろう。何を恥ずべきことがあるのか」
「恥じなさいよ!」
「あー、まあその話は置いといて。とりあえず阿賀波、前髪切りに…………て、あれ? どこ行った」
七瀬が京介に話を戻すと、既に京介の姿は消えていた。
「ありゃ、逃げちゃったか……」
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