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二話
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時は寛永。
天下泰平の御旗の元、徳川幕府が天下を治めて早十数年。
戦乱の世は過ぎ去り、武士は刀を釣り竿に変え、算盤を弾く町人が大手を振って闊歩する江戸八百八町。
いくら移ろい変わろうとも確かに変わらぬものがそこにはあった。
江戸市中、庶民が暮らす長屋は十世帯がまとまって暮らす場所で住民同士が寄り合い、協力しながら日々を暮らしている。簡素な作りに薄い壁、近所は誰もが顔見知り。袖触れ合うような関係が当たり前の世界だった。
そんな長屋に朝から怒声が響く。
「てめぇ、お滝!今なんつった!」
「もうお金なんてないっていったんですよ」
「あぁ?!ここにあるじゃねぇか!」
「それは大店の主人に頂いた大事な支度金……」
「うるせぇ、この木偶の坊が!さっさとよこしゃあいいんだよ」
声の主はとある夫婦。
飲んだくれた挙げ句、女遊びに博打までやる甲斐性なしの夫の茂造。
家で待ち、日々爪に火を灯すような生活で暮らしを支える妻のお滝。
この夫婦が一際目を引き、他の夫婦と違うのはその体格差にあった。
茂造は背丈が四尺八寸(146cm)、対して妻のお滝は六尺五寸(197cm)。
もはや子供と大人ほどの差があるばかりかお滝の背丈と巌のような体躯は見世物小屋に売られるほど目を引くもので丸太のような手足は力強く、長屋の天井に頭が届くほど。
普通ならお滝ほどの大女を嫁に欲しがる男はまずいないのだが、お滝は大店の主人が面倒を見ており、その金目当てに茂造は嫁に欲しいと縁談を持ちかけた。
この甲斐性なしで穀潰しの茂造だが、その外面の良さにかけてはまさに天下一品。強者と見れば下手に出て媚を売り、弱者と見れば足蹴にして睨めつける。
心意気だけは一人前の四半人前。
だがその強かさで主人に取り入り縁談を纏め、お滝と夫婦と相成ったはいいものの、大事な貯蓄である支度金に手を付ける始末。
金を出し渋るお滝を引き倒して頭を足で踏みつけようにもとてもそんな芸当が出来る体格差でも力量差でもないので、苦し紛れにつま先をにじにじと踏みつける。まさに妻を足蹴にして出ていこうとする茂造は長屋の入り口で通りがかりの男にぶつかった。
男の名は薮井畜庵。
半分寝ているような寝ぼけ眼に猫も羨む猫背だが、身の丈五尺八寸(175cm)。
裸足で徘徊するでいだらぼっち。
痩けた頬には白髭が苔むし、白髪交じりの髪を後ろで麻縄で縛り、十徳を羽織り、実に気怠げに喧嘩煙管を燻らせる。
「なんだ、てめぇは!この茂造様にぶつかってただで済むと思ってんのか!」
「……あー……ん?すまん、いたのか。童にはこの餅をやろう」
「誰が童だ!舐めてんのか!それに股ぐらから出した草餅なんざ食いたかねえ!」
「草餅?……おお、すまぬ黴が生えておった。ほれまだ食えよう食えよう」
「食えるか!ったく覚えてろよ!」
肩を怒らせながら長屋の入り口にある木戸に向かう後ろ姿をぼうっと畜庵は眺めている。
そのまま目線は微動だにせず唇だけが静かに動く。
「余計なことをしたか?」
「あんた、余計なこと以外したことあるのかい」
「かっかっか、その通りだの」
にかりと乾いた笑いが空へと消える。
長屋から出てきたお滝に笑みはない。
二人の雰囲気はたまたま顔を合わせた隣人のそれではなかった。合戦を共に渡り歩いた戦友を思わせる。
それもそのはず。
二人は二十年来の知り合いだ。
畜庵は諸国遊学の折にお滝と知り合い、共に各地を渡り歩きながら様々な知識や経験を学び、困窮者や女子どもに至るまで遍助けながら旅をした。一度は別々の道を歩むも畜庵はある事情で自棄になり、半死半生で徘徊していたところをお滝が捕まえて長屋の主人に頼み込んで住まわせた。
以来なにをするでもないが、時折怪しげな薬を煎じては道行く童や老人に飲ませ、ああしろこうしろと口を出してはまた長屋に引きこもる生活をしている。
いわゆる町の厄介者なのだが、どういうわけか童には纏わりつかれるほど好かれる不思議な男であった。
「いいのか?これで」
「いいもなにもないさ。あれでもうちの亭主さね」
「……茶吉か」
「……呼び捨てはやめな」
「やれやれ。旗本奴も町奴も、会えば玉袋が縮み上がったあのお滝が随分と丸くなったもんだ。ん?儂のは……おぅおぅやわらかいのぅ」
ぼりぼりと玉袋を掻きながら畜庵は自分の部屋へと引き上げていった。
畜庵のいう茶吉とはまさにお滝が頼み込んだ一帯の長屋の家主であり、地主。表通りに呉服屋を構える大店の主人だ。
あの手この手で金を稼ぎ、同業からは目の敵にされる男だが、見世物小屋にいたお滝の有能さを見抜き、引き取って仕事や作法を仕込んだいわば親代わり。
茂造との縁組は茶吉の勧めもあった為、離縁ともなれば大恩ある主人の顔に泥を塗ることになる。
お滝にはそれだけはどうしても出来なかった。
茂造が酒を飲んで暴れても、博打で金をすっても、女遊びで明け方に帰っても耐え凌ぐのはその為だった。
天下泰平の御旗の元、徳川幕府が天下を治めて早十数年。
戦乱の世は過ぎ去り、武士は刀を釣り竿に変え、算盤を弾く町人が大手を振って闊歩する江戸八百八町。
いくら移ろい変わろうとも確かに変わらぬものがそこにはあった。
江戸市中、庶民が暮らす長屋は十世帯がまとまって暮らす場所で住民同士が寄り合い、協力しながら日々を暮らしている。簡素な作りに薄い壁、近所は誰もが顔見知り。袖触れ合うような関係が当たり前の世界だった。
そんな長屋に朝から怒声が響く。
「てめぇ、お滝!今なんつった!」
「もうお金なんてないっていったんですよ」
「あぁ?!ここにあるじゃねぇか!」
「それは大店の主人に頂いた大事な支度金……」
「うるせぇ、この木偶の坊が!さっさとよこしゃあいいんだよ」
声の主はとある夫婦。
飲んだくれた挙げ句、女遊びに博打までやる甲斐性なしの夫の茂造。
家で待ち、日々爪に火を灯すような生活で暮らしを支える妻のお滝。
この夫婦が一際目を引き、他の夫婦と違うのはその体格差にあった。
茂造は背丈が四尺八寸(146cm)、対して妻のお滝は六尺五寸(197cm)。
もはや子供と大人ほどの差があるばかりかお滝の背丈と巌のような体躯は見世物小屋に売られるほど目を引くもので丸太のような手足は力強く、長屋の天井に頭が届くほど。
普通ならお滝ほどの大女を嫁に欲しがる男はまずいないのだが、お滝は大店の主人が面倒を見ており、その金目当てに茂造は嫁に欲しいと縁談を持ちかけた。
この甲斐性なしで穀潰しの茂造だが、その外面の良さにかけてはまさに天下一品。強者と見れば下手に出て媚を売り、弱者と見れば足蹴にして睨めつける。
心意気だけは一人前の四半人前。
だがその強かさで主人に取り入り縁談を纏め、お滝と夫婦と相成ったはいいものの、大事な貯蓄である支度金に手を付ける始末。
金を出し渋るお滝を引き倒して頭を足で踏みつけようにもとてもそんな芸当が出来る体格差でも力量差でもないので、苦し紛れにつま先をにじにじと踏みつける。まさに妻を足蹴にして出ていこうとする茂造は長屋の入り口で通りがかりの男にぶつかった。
男の名は薮井畜庵。
半分寝ているような寝ぼけ眼に猫も羨む猫背だが、身の丈五尺八寸(175cm)。
裸足で徘徊するでいだらぼっち。
痩けた頬には白髭が苔むし、白髪交じりの髪を後ろで麻縄で縛り、十徳を羽織り、実に気怠げに喧嘩煙管を燻らせる。
「なんだ、てめぇは!この茂造様にぶつかってただで済むと思ってんのか!」
「……あー……ん?すまん、いたのか。童にはこの餅をやろう」
「誰が童だ!舐めてんのか!それに股ぐらから出した草餅なんざ食いたかねえ!」
「草餅?……おお、すまぬ黴が生えておった。ほれまだ食えよう食えよう」
「食えるか!ったく覚えてろよ!」
肩を怒らせながら長屋の入り口にある木戸に向かう後ろ姿をぼうっと畜庵は眺めている。
そのまま目線は微動だにせず唇だけが静かに動く。
「余計なことをしたか?」
「あんた、余計なこと以外したことあるのかい」
「かっかっか、その通りだの」
にかりと乾いた笑いが空へと消える。
長屋から出てきたお滝に笑みはない。
二人の雰囲気はたまたま顔を合わせた隣人のそれではなかった。合戦を共に渡り歩いた戦友を思わせる。
それもそのはず。
二人は二十年来の知り合いだ。
畜庵は諸国遊学の折にお滝と知り合い、共に各地を渡り歩きながら様々な知識や経験を学び、困窮者や女子どもに至るまで遍助けながら旅をした。一度は別々の道を歩むも畜庵はある事情で自棄になり、半死半生で徘徊していたところをお滝が捕まえて長屋の主人に頼み込んで住まわせた。
以来なにをするでもないが、時折怪しげな薬を煎じては道行く童や老人に飲ませ、ああしろこうしろと口を出してはまた長屋に引きこもる生活をしている。
いわゆる町の厄介者なのだが、どういうわけか童には纏わりつかれるほど好かれる不思議な男であった。
「いいのか?これで」
「いいもなにもないさ。あれでもうちの亭主さね」
「……茶吉か」
「……呼び捨てはやめな」
「やれやれ。旗本奴も町奴も、会えば玉袋が縮み上がったあのお滝が随分と丸くなったもんだ。ん?儂のは……おぅおぅやわらかいのぅ」
ぼりぼりと玉袋を掻きながら畜庵は自分の部屋へと引き上げていった。
畜庵のいう茶吉とはまさにお滝が頼み込んだ一帯の長屋の家主であり、地主。表通りに呉服屋を構える大店の主人だ。
あの手この手で金を稼ぎ、同業からは目の敵にされる男だが、見世物小屋にいたお滝の有能さを見抜き、引き取って仕事や作法を仕込んだいわば親代わり。
茂造との縁組は茶吉の勧めもあった為、離縁ともなれば大恩ある主人の顔に泥を塗ることになる。
お滝にはそれだけはどうしても出来なかった。
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