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8.エドゥアールの苦悩
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「申し訳ございません、旦那様」
執務室で報告書に目を通していたエドゥアールは、腰を折って謝るウォルターに視線を上げた。
「よい、見抜けなかった私にも責任はある。それにしても、きりがないな。こうも頻繁にネズミが湧くとは…」
この城に最近入った使用人が隣国からの密偵であった。そう報告書には書かれていた。ここ最近、隣国からの密偵がこの辺境によく送られてくる。この辺境の隣にあるベルバッハ帝国は最近、政変により新たな皇帝が即位した。公にはされていないが、皇太子が皇帝を秘密裏に殺害し、玉座を奪ったのではないかと噂されている。前皇帝は和平に積極的で戦争には消極的な温厚な人物であったが、これが災いし家臣の中で犯罪や横領が横行した。これに危機を感じた皇太子が、国を正すために皇帝を殺害し即位したのではないかと言われているのだ。そして、この皇太子は富国強兵という理念を掲げていた。密偵が送られてくるのは恐らく、即位を機にこの国への侵攻を考えているのだろう。非常に厄介だ。
「国境の警備を強化してはおりますが、やはり人間を完全に制御するというのは難しいようで」
「さもありなん。辺境は常に人手不足だからな。人を選ぶにも限界がある」
大分安定したとはいえ、この辺境での暮らしは過酷だ。夏は暑く日照りが酷いし、冬は寒く雪が積もる。おまけに農業に向かない土地であるため、手に入る食物の種類も少ない。山と川に囲まれているせいで物流も悪く、華やかな暮らしはできない。そんな辺境であるから、ここに生涯残りたいというものはそう多くない。皆、暮らしやすい本国の領地へと引っ越してしまう。飛竜タクシーによって本国へ行きやすくなったことで、その傾向はさらに高まった。飛竜タクシーのおかげで、この辺境の物流がよくなり暮らしやすくなったが、一方でこの辺境を出て行ってしまう人が増えたのはとんだ皮肉である。その可能性を考慮できなかった己の愚かさがつくづく恨めしい。
人口が少なければその分働き手が減る。国からの支援のおかげで、何とか人材を確保できているとはいえ、この国境の警備は常に人手が不足していた。おかげで余程の前科がない限り希望者を雇うくらいしないと国境の警備が保たれない状況だった。そんなものだから、金で警備が雇われ他国の密偵が侵入することもよくある。それを防ぐためにこちらも色々と動いてはいるが中々上手くいかないのが現状であった。
「それで、そのネズミはどうした」
「旦那様のご指示通りに処分をしました」
「そうか」
エドゥアールはウォルターに代わりの使用人を雇うように伝えると、次の報告書へと目を向けた。机にはまだ処理しきれていない書類が山積みだ。人手不足の影響はここにもでていた。
「なぜこうも面倒事というのは重なるのだろうな」
「彼女のことですか」
ため息をつきながらそう言うエドゥアールにウォルターはそう尋ねた。それに対しエドゥアールはああ、それもあったなとこめかみを抑える。
「あれもタイミングが悪い…」
宰相から縁談を持ち掛けられた時、なぜ今なのだと正直エドゥアールは思った。隣国の動きが怪しい今、恋だの愛だのに構っている暇はないというのに。しかも、侯爵令嬢を預かる以上、怪我をさせることもなく無事に返さなければならない。決して治安が良いとは言えないこの状況で侯爵令嬢を守らなければならないという余計な仕事が増えた。
「確かにタイミングが悪いですね。しかし、驚きましたよ、旦那様が屋敷に女性を泊めることをお許しになるなんて」
「あれの父親には借りがあってな、断るに断れなかった」
ウォルターの言葉にエドゥアールはあの男の顔を思い浮かべた。にこやかで無害そうな顔をしているが、中身は空から巧みに獲物を捕らえる鷹だ。獲物を自由に泳がせておいては、隙を見て空中から一気に背後に近づく。そして、狙われたら最後、いつの間にか喰われている。実に恐ろしい男である。
だが、その男のおかげで今の自分がいて、この辺境がある。それ故に、エドゥアールは彼には逆らうことができなかった。
「流石はこの国の宰相。隙がありませんね」
「…あれは父親とそっくりだ。まさか、あんな風に宣戦布告をしてくるとは」
「…ただの貴族令嬢というわけではなさそうですね」
あの透き通った翡翠色の瞳を思い出す。嘘偽りのない真剣な眼差し。絶対に諦めないという強い意志を感じた。ああやって婚姻を宣戦布告されたのは初めてだ。今までの女は全員、この容姿や地位に惹かれ、勝手に期待をし、勝手に絶望して離れていった。私という人間を知ろうともせずに。
「女というのは本当に分からん。父親より年上の、傷がある男になぜ興味を持つのか。聞けば、あれには将来有望な若い高位貴族からの縁談が山ほどきているそうではないか。なぜ、それを断ってまで私のところに縁談を申し込みにきたのか。全く理解できん。一体、何の目的があるのか…」
エドゥアールはそう言うと自分の左目に残る傷を手でそっと抑えた。騙されてはいけない。あの時のことを思い出せ。きっと何か裏があるはずだ。でなければこんな自分に寄って来るわけがないのだ。そう心の中で唱え、ざわつく気持ちを静める。
「何にせよ、私は縁談を引き受けるわけにはいかない。ウォルター、極力しがらみの少ない貴族から養子を手に入れられるよう探しておいてくれ」
「かしこまりました。旦那様」
ウォルターはそう返事をすると部屋を出て行った。エドゥアールは窓際に移動すると、窓越しに見える城下の景色を眺める。枯れた木も壊れ果てた民家もない。黒い煙が青い空を汚すこともない。もう、飢えに苦しみ嘆く人の姿を見る必要もない。何にも心を痛めることなく、純粋に透き通った空を見上げることができる。
「もう誰にも荒らさせはしない」
決めたのだ。この領地ごとこの地に住む人々を守ると。誓ったのだ。もう二度とあのような惨劇を産み出すことはしないと。それが、私にできる最大限の償いなのだから。
エドゥアールは深く息を吐くと、ぎゅっと拳を握りしめた。そして、再び席につくと溜まっている書類を片付けるのだった。
執務室で報告書に目を通していたエドゥアールは、腰を折って謝るウォルターに視線を上げた。
「よい、見抜けなかった私にも責任はある。それにしても、きりがないな。こうも頻繁にネズミが湧くとは…」
この城に最近入った使用人が隣国からの密偵であった。そう報告書には書かれていた。ここ最近、隣国からの密偵がこの辺境によく送られてくる。この辺境の隣にあるベルバッハ帝国は最近、政変により新たな皇帝が即位した。公にはされていないが、皇太子が皇帝を秘密裏に殺害し、玉座を奪ったのではないかと噂されている。前皇帝は和平に積極的で戦争には消極的な温厚な人物であったが、これが災いし家臣の中で犯罪や横領が横行した。これに危機を感じた皇太子が、国を正すために皇帝を殺害し即位したのではないかと言われているのだ。そして、この皇太子は富国強兵という理念を掲げていた。密偵が送られてくるのは恐らく、即位を機にこの国への侵攻を考えているのだろう。非常に厄介だ。
「国境の警備を強化してはおりますが、やはり人間を完全に制御するというのは難しいようで」
「さもありなん。辺境は常に人手不足だからな。人を選ぶにも限界がある」
大分安定したとはいえ、この辺境での暮らしは過酷だ。夏は暑く日照りが酷いし、冬は寒く雪が積もる。おまけに農業に向かない土地であるため、手に入る食物の種類も少ない。山と川に囲まれているせいで物流も悪く、華やかな暮らしはできない。そんな辺境であるから、ここに生涯残りたいというものはそう多くない。皆、暮らしやすい本国の領地へと引っ越してしまう。飛竜タクシーによって本国へ行きやすくなったことで、その傾向はさらに高まった。飛竜タクシーのおかげで、この辺境の物流がよくなり暮らしやすくなったが、一方でこの辺境を出て行ってしまう人が増えたのはとんだ皮肉である。その可能性を考慮できなかった己の愚かさがつくづく恨めしい。
人口が少なければその分働き手が減る。国からの支援のおかげで、何とか人材を確保できているとはいえ、この国境の警備は常に人手が不足していた。おかげで余程の前科がない限り希望者を雇うくらいしないと国境の警備が保たれない状況だった。そんなものだから、金で警備が雇われ他国の密偵が侵入することもよくある。それを防ぐためにこちらも色々と動いてはいるが中々上手くいかないのが現状であった。
「それで、そのネズミはどうした」
「旦那様のご指示通りに処分をしました」
「そうか」
エドゥアールはウォルターに代わりの使用人を雇うように伝えると、次の報告書へと目を向けた。机にはまだ処理しきれていない書類が山積みだ。人手不足の影響はここにもでていた。
「なぜこうも面倒事というのは重なるのだろうな」
「彼女のことですか」
ため息をつきながらそう言うエドゥアールにウォルターはそう尋ねた。それに対しエドゥアールはああ、それもあったなとこめかみを抑える。
「あれもタイミングが悪い…」
宰相から縁談を持ち掛けられた時、なぜ今なのだと正直エドゥアールは思った。隣国の動きが怪しい今、恋だの愛だのに構っている暇はないというのに。しかも、侯爵令嬢を預かる以上、怪我をさせることもなく無事に返さなければならない。決して治安が良いとは言えないこの状況で侯爵令嬢を守らなければならないという余計な仕事が増えた。
「確かにタイミングが悪いですね。しかし、驚きましたよ、旦那様が屋敷に女性を泊めることをお許しになるなんて」
「あれの父親には借りがあってな、断るに断れなかった」
ウォルターの言葉にエドゥアールはあの男の顔を思い浮かべた。にこやかで無害そうな顔をしているが、中身は空から巧みに獲物を捕らえる鷹だ。獲物を自由に泳がせておいては、隙を見て空中から一気に背後に近づく。そして、狙われたら最後、いつの間にか喰われている。実に恐ろしい男である。
だが、その男のおかげで今の自分がいて、この辺境がある。それ故に、エドゥアールは彼には逆らうことができなかった。
「流石はこの国の宰相。隙がありませんね」
「…あれは父親とそっくりだ。まさか、あんな風に宣戦布告をしてくるとは」
「…ただの貴族令嬢というわけではなさそうですね」
あの透き通った翡翠色の瞳を思い出す。嘘偽りのない真剣な眼差し。絶対に諦めないという強い意志を感じた。ああやって婚姻を宣戦布告されたのは初めてだ。今までの女は全員、この容姿や地位に惹かれ、勝手に期待をし、勝手に絶望して離れていった。私という人間を知ろうともせずに。
「女というのは本当に分からん。父親より年上の、傷がある男になぜ興味を持つのか。聞けば、あれには将来有望な若い高位貴族からの縁談が山ほどきているそうではないか。なぜ、それを断ってまで私のところに縁談を申し込みにきたのか。全く理解できん。一体、何の目的があるのか…」
エドゥアールはそう言うと自分の左目に残る傷を手でそっと抑えた。騙されてはいけない。あの時のことを思い出せ。きっと何か裏があるはずだ。でなければこんな自分に寄って来るわけがないのだ。そう心の中で唱え、ざわつく気持ちを静める。
「何にせよ、私は縁談を引き受けるわけにはいかない。ウォルター、極力しがらみの少ない貴族から養子を手に入れられるよう探しておいてくれ」
「かしこまりました。旦那様」
ウォルターはそう返事をすると部屋を出て行った。エドゥアールは窓際に移動すると、窓越しに見える城下の景色を眺める。枯れた木も壊れ果てた民家もない。黒い煙が青い空を汚すこともない。もう、飢えに苦しみ嘆く人の姿を見る必要もない。何にも心を痛めることなく、純粋に透き通った空を見上げることができる。
「もう誰にも荒らさせはしない」
決めたのだ。この領地ごとこの地に住む人々を守ると。誓ったのだ。もう二度とあのような惨劇を産み出すことはしないと。それが、私にできる最大限の償いなのだから。
エドゥアールは深く息を吐くと、ぎゅっと拳を握りしめた。そして、再び席につくと溜まっている書類を片付けるのだった。
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