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死にきれない小説家

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 一心さんが買い物に付き合えと言うからカバン持ち。地獄にも俗世と同じでお金は存在するし、小さなものはそのやり取りをするが、
「芯しん亭」
 と言えば、たいてはツケになる。
 一心さんを知らない人はここにはいない。
「一心さん、これ持って行きなよ」
 今日も女性から黄色い声がかかる。
 文子さんはどうしてこの人が好きだったのだろう。好きだったから一緒にいたくて、ずっと芯しん亭で働いていたのだろうか。年季が開けて働かなくてよくなることに怯えていたのかもしれない。同じところで働いていれば好きな人から離れずにすむ。
「大丈夫か?」
 カフェで一心さんとアイスを食べた。
「一心さん、食べないの?」
「ああ」
 そうか。私が落ち込んでいると思って誘ってくれたのかもしれない。
 通りとは反対に庭園のあるお店だった。緑多めの庭。よく見たらサボテン。そういえば、こっちでは花が咲かないのだった。太陽の光が植物には必要なのだろう。造花を見かけるからこっちの人たちも花は好きみたい。現世で買って来てもすぐに枯れてしまうのだろう。故に希少。だから崇めているのかもしれない。
 ふいに一心さんが私の左手に手を重ねるからびっくり。
「力は戻ったようだな」
「力? 霊力みたいなものですか?」
「ああ。人とは思えぬ霊力がある」
 血なのだろうか。そのせいで文子さんを消してしまった。前のときも、悪いもののみならず精霊のようなものまでも。思い出そうとすると頭が痛い。
「孤独がそなたの力を強くするようだな」
 一心さんが私の心を捉えようとする。
「そうかも。なんとなく人を遠ざけちゃうときがあって」
 今は特に人に触れることが怖くてたまらない。一心さんはそれをわかってこの手を掴んでくれるのだろうか。
「なるべく一人にならないように」
 手を離してくれない。心を読まれているようで恥ずかしい。
「はい。こっちの人って、あ、人じゃないんだった。割と簡単に触るのね」
「そうかな。慣れてない?」
 だってあなたの手、大きくてあったかい。
「すいません」
「お前の触れていると心地よくて。相すまぬ」
「いえ…」
 髪をかき上げた一心さんの生え際にイボにしては大きな膨らみがあった。凝視してしまったから、
「角になりきれなかった痕だ」
 と答えてくれた。
「ああ、鬼なんでしたっけ?」
「鬼と人間の子だ」
 人間のお母さんは死んでしまったらしい。
「鬼ならお父さんは生きてるの?」
「さあ。大女将なら知ってるのかもしれないが、聞くつもりもない。さて、行こう」
 この人も自分にコンプレックスがあるのだろう。
 従業員のおやつに夏みかんを買っただけだった。重いが、凌平くんがおいしいでゼリーにしてくれた。

「文子さん、どうして急に心変わりしたんだろ? 一心さんは文子さんに冷たくて。文子さんは前の奥さんがいたときから働いていたから結婚していたことを知っているのに。自分の言い寄ってくる女なんて御免なんでしょうけど」
 廊下を拭きながら麻美さんが言った。一人がいなくなったらその分をカバーしなくてはならない。
「人の気持ちなんてすぐに変わるわ」
「確かに、人を好きでいるより誰かに好かれているほうが楽だもの」
 澪さんは皮肉っぽく、珠絵ちゃんは淡々と話す。私は黙々と仕事をこなすことしかできない。交替で誰かが休む日は大変だ。休みと言っても出かけるところもないから結局は忙しい配膳の時間だけは手伝ってくれる。他に行く場所もないんだもの。
 休みの日、私は文子さんの残した本を読んだ。少し前の恋愛小説。不倫じゃない、清い恋。それなのに周囲のせいで報われない。大まかに文子さんの年齢から予測すると芯しん亭に来てから手に入れたものなのだろう。
 私は詳しく聞いていないが、多少のお給金はあるらしい。それも芯しん亭の大部屋で寝泊まりをしているから結局は大女将に徴収される嫌なシステム。
 大女将はそのお金でかんざしを買う。花魁でもなかろうに、髪にさすのが好きみたい。私は面倒なのでお団子にまとめる。澪さんもそうだ。彼女のほうが上品に、きれいに結う。魔法みたいに。
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