コーポ椿

昆布茶

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コーポ椿

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 “駅3分/4階角部屋の10畳1LDK/築49年/管理費込み家賃3万円”

 春から私立高校の講師になることになった私は、勤務校の隣駅の不動産屋でこの張り紙を見つけた。都心でこの値段は破格だ。

 地元で頼れる人がいない私は、就職活動をしたが手応えがないまま冬を迎え、卒業するギリギリに受けた高校で講師として採用が決まった。運が良ければ正規採用されるらしいが、給料は慎ましい生活がなんとか送れる程度。ただでさえスーツや引っ越し代、授業のために購入した本などで私の残高は寂しいものになっていた。
 不動産屋に内見依頼をし契約手続きをするのに日はかからなかった。
 どんなオンボロな家かと思えば、数年前にリフォームを行い床はフローリングのシートが貼られ、床の壁紙は真っ白で汚れひとつなかった。角部屋で陽の光はよく入るので明るく、風通しもよかった。台所のシンク下のこもったニオイに引っ越してから気がついたが、大きな問題に感じなかった。
 契約する前に、なぜこんなに安いのか一応不動産屋に聞いてみた。もしかしたら、「事故物件」なのではないかと。答えは、建物が古いことと近々大家さんが建物を取り壊す予定だからだということであった。残高を考えると私にとってこの条件を飲まない手はなかった。


 コーポ椿での生活が始まった。私の部屋は405号室。隣の部屋は403号室なのが不思議だと思ったが、4という数字は縁起が悪いからきっと飛ばしてつけたんだろうなと推測した。隣人の姿は見たことがないが、朝でも深夜でも電気と換気扇を常につけっぱなしにしていた。
 建物の中に踊り場のある階段があり、窓からの日が差している。入り口のドアの外には椿の木が植えてある。アパートの隣の一軒家に住んでいるのが大家さんである。大家さんは車椅子に乗った高齢の女性で、入居時の挨拶でだけ会った。多くの仕事は代わりに30代後半と思われる娘さんがやっていた。この娘さんが大事に手入れしているようで椿の葉は美しくつやつやと輝いていた。

 7月になり、講師としてようやく仕事に慣れてきた頃である。仕事にもやりがいが出てきて、秋に行われる文化祭の仕事を任されるようになった。加えて成績の処理などで何かと忙しくなり、帰りは日付を越えてしまうこともしばしばであった。
 コーポ椿の入り口は夜11時になると防犯上の理由で大家さんが鍵を閉めることになっていた。鍵は入居時に渡されていたのでその鍵でアパートに入った。疲れ切っていた私は自室のドアを開けてワイシャツのままベッドになだれ込んで眠ってしまった。

 次の日、目が覚めると喉に何か詰まったような感覚があった。うがいをすると何か繊維質なものが口から出てきた。昨日の夜食のおにぎりの中身かな。朝ごはんを食べているうちにその感覚はなくなっていたので気にせずにいた。アパートを出るときに椿を見ると虫に喰われた跡がいくつもあった。一晩でこんなになってしまうのなんて虫の威力は恐ろしいと同時に大家さんが手入れしていた姿が目に浮かんで、すこし切なくなった。
 数日間、朝喉に違和感があったが疲れからくる風邪か何かかと思っていた。

 7月の中旬になって、仕事も山を越えて夕方まだ明るいうちに久々に帰ることができるようになった日だった。大家さんの娘さんにアパートの入り口で会った。腕に包帯が巻かれていたので怪我ですか、と聞いたらかぶれてしまったということだった。おそらく椿の手入れをしているときに毛虫に触ってしまったのだろう。お大事にしてください、と伝え私は自分の部屋に向かった。その時、隣の403号室の人はどんな時間でもいつも電気がついているのに、その日は珍しく電気が消えていたことに気がついた。旅行にでも行ったのかな。私は特に気にせず自分の部屋に帰った。

 その次の日曜日、私は1週間の疲れが溜まって昼だというのにベッドの上でゴロゴロとしていた。スマートフォンでゲーム実況動画を見てひとりニヤニヤしていた。
♫ピンポン
 おや、誰だろうとドアスコープを覗くと大家さんの娘さんだった。
 「はい、どうされましたか?」
 「加藤さん、突然すみません。403号室の方、最近見なかったですか?」
 見てない、と言うと娘さんはそうですか、と言った。
 「そういえば先週からだったか、いつも明かりがついているのに消えているなあとは思っていました。何かあったんですか?」
 「あまり大きな声で言えないんだけど」と言って大家さんは言った。
 403号室は中年の女性が住んでいた。かなり長く住んでおり、いつも家賃をきちんと納めていた。ところが4月(私が越してきた月だ)から家賃が支払われなくなったそうで、先月大家さんが電話したら「来月には払えるはずなので待っていてください」と言っていたそうだ。しかし支払いがなく電話も通じなく、先週は何度も色んな時間に呼び鈴を鳴らしたが応じず、物音もしないことに不審を感じ先ほど合鍵で中に入ったのだという。
 「それで、中はどうだったんですか?」と私が聞いた。
 「きれいさっぱり、鍵だけ置かれて他は何もなかったのよ。でも不思議ね、アパートの入り口の鍵はずっとかかったままだったのよ。外から鍵がないとかけれないはずなのに。」
 休みの日にごめんね。どうもありがとう。と言って大家さんは私の部屋を後にした。
 
秋、403号室住人が失踪したことも記憶に薄くなってきた頃に私には悩みができた。
 家のドアに蛾が留まっているのである。帰りにドアに2匹いた日なんて最悪である。そんな頃だった。
 休みの日の夕方、近くの商店街で夕飯の買い出しから帰ろうとした時、空に何かの群れが飛ぶのを見た。よく大量の鳥が一つの木に向かっていくのを目にしていたが、なんだか動きが違った。鳥ほど大きくなく、動きはややゆっくりである。なんだかもやもやしているなと思っていた。商店街中の人が見上げていた。
 「あれ!虫じゃない?」小学生の男の子が大きな声で言った。
 私は視力が良くないのではっきりとはわからないがそう言われてみればそんな気がする。
 「向こうにいくねえ。」と年配の女性が言うのでぼんやり見ていたら、その方角は私の家の近くだった。
 嫌な予感がした。
 本当は帰りたくなかったが豚コマと箱アイスを買って喫茶店で時間をつぶすのも気が引けたので家に向かった。群れは家の近くに来ていたが、アパートではなく大家さんの庭の倉庫に集まっているようだった。今のうちにとダッシュで部屋に戻った。それから窓の外を見る気にもならず夕飯を作って何事もなかったように寝た。

 そんなことがあってから月日は流れ、12月になった。師走という言葉の通り仕事も慌ただしい頃であった。
 まだ暗い時間に出勤するのは少し不気味だが、自分の仕事が溜まっている。周りの住人に迷惑にならないよう、静かに階段を降りてアパートの入り口を出ると何かが床に落ちている。
 しゃがんで確認する。
 「椿だ。」
 おびただしい数の赤い椿の花が玄関から道路に出たところまで落ちていた。どれもきれいに花の形を保ったままで。
「どうしたんだ…これ…。」
 異様な光景だった。
 大家さんに伝えたいと思ったが、まだ朝の6時で出勤途中だった。帰ってから言おう。不気味に思いつつ、暗闇に目が慣れて椿の花の輪郭が見えてくるとなんとも言えず美しかった。
 仕事を終えたのは夜の9時だった。冬の夜は鼻の先まで冷えるほど寒い。マフラーを顎まで巻いてアパートに向かうと椿の花はもうなかった。片付けたんだな。木には花はもう残っていない。
 階段を上り、4階に着くと403号室の前に老婆が立っているのが見えた。誰だろう、と足を止めたその時だった。
 「椿はもうないか。」老婆が言った。
 「はい、お母さん。」と403号室の部屋の中から声がした。
 「新しい虫もそろそろだろうか。」と老婆が言った。
——新しい虫って何だ?私は黙って見守っていた。
 「しかし、この繭はどうしましょう。」部屋の声は言った。
 「また煮て、肉は食べるとしよう。」と老婆は言った。さらに続けた。
 「女の肉と、椿の花は美しさの秘訣だからな。」

 その時、反射的に私は階段を降りた。過去の出来事が不気味に繋がっていく。そして、嫌な推測が脳裏に浮かんだ。椿の葉は、虫が食べる。食べた虫は、繭になる。
 その日は川向こうに住んでいた同期の家に泊めさせてもらった。1週間くらい世話になったあとに荷物を持って逃げようと、一緒にアパートまでついてきてもらった。
 
 そこに「コーポ椿」はなかった。更地だけがあった。どういうことかスマートフォンで不動産屋に電話して聞いたところ、こう言われた。「あれ、大家さんに言われませんでした?取り壊しがあると。」
 ねえ、と一緒についてきてもらった同期が声をかけてきた。
 「見て、この土のところ。」
 そこには赤い椿の花びらと蛾の羽が大量に散らばっていた。
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