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脱サラ編 第六話

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 小会議室に入ると、所属部署の管理職が集まっていた。
 別段このメンツでも緊張はしない。7年も同じ部署にいれば部署内であれば緊張せずに話すことは容易である。

「喜多、まずは座ってくれ。」

 部長が座るように促す。
 私はひとまず大人しく席に座った。全員の顔色を見るからに、あまり良い話では無いと想像できる。私悪い事してませんよ。

 数秒の沈黙の後、部長が口を開く。

「ひとまず、昨日はお疲れ様。今日呼んだのは話があるからなんだけどな...」

 そりゃそうだろう。話が無いのに会議室になんて呼んだら怒ってたぞ。
 清水さん達を見てみるが渋い顔をしている。何を言われるんだろうか。

「あのな、喜多...ちょっとな...」
「いいですよ部長。雰囲気からして悪い話なんでしょうが言ってください。」

 痺れを切らして言ってしまう。背中に冷たい感覚を覚える。冷や汗が出てきたようだ。

「実はな...本部長が昨日の成果発表を受けて怒ってるんだ。」

 怒ってる?どういうことだ。興味ないような動作で私の発表を聞いていなかったのにか?べつに怒られる発表内容では無かったと思うが。

「別段怒られるような発表をした覚えは無いですよ。しっかりと成果を発表したつもりです。」
「あぁ、俺たちもそう思ってたんだがな...しっかり纏まってて良かったと思ったんだがな。だが、発表内容が気に食わなかったらしい。」
「...具体的にお願いします。」

 なんだよ気に食わなかったって。気に食わないのとおざなりな態度を取るのは違うだろうに。眩暈がしてくる。

「不具合が発生した時期、昨年度の上旬だっただろ?つまり、それがいけなかったらしい。昨年度の中旬と下旬は仕事してなかったんだな、って思われたらしい。」

 なんだそれは。言葉が出なかった。昨年度の中旬、下旬は仕事してなかった?成果発表の内容に入れていないだけでそんな判断をされてしまうのか?
 喉が詰まりそうな感覚に陥りながら、なんとか声を出す。

「つまり...発表内容が上旬の事だった、って事だけで私の成果を否定されたと?」
「そうなるな...すまなかった、我々も練習に付き合っておきながらそこに気が着けなかった。」

 視界が狭くなる。動悸が激しくなる。つまり、私はこんなにくだらない事で昇進が無くなったのか?私の頑張りを否定されたのか?たったの、あの5分間で?ふざけるな、ふざけるな。
 ...なるほど、社長や本部長達のあの態度の疑問が解けた。事前に資料が配られたからその時に一通り目を通して、私の内容は上旬のものだったから聞く価値無しと判断したんだろう。クソが。
 部長達が何かを言っているようだが、何かが脳内で響いてうるさい。うるさくて聞こえない。何かが崩れる音がした。



 どのくらい時間が経っただろうか。いまだに部長たちは何かを言ってくれてはいるが、よく聞き取れない。まるで水中にいるかのように、意識が沈み、声が反響して届かない。うるさい。
 最初の内は、思考が黒く染まっていく感覚があった。まるで、白紙のキャンバスに黒インクが落ちたように、じわり、じわりと私の中の美しかったものが汚れていく。
 無意識に敵を探し求めていた。誰が悪いのか、誰が理不尽を強いるのか。

 部長たちが席を立ったようだ。どうやら会議室を出ていくらしい。
 その頃には私の中の憤怒と憎悪は無くなっていた。ただひたすらに、虚無感だけが自分を襲っている。私はこれまで、何のために頑張ってきたんだろうな。頑張った所で、こんな仕打ちを食らうだけなのに。頑張ったって、意味が無かったんだ。
 意識がクリアになってきた。周りの音が聞こえる。少しは落ち着いてきたという事だろう。

「喜多、大丈夫か?」

 声が聞こえた。ゆっくりと声の方を向くと、清水さんがいた。どうやら、清水さんだけはこの場に残ったようだ。

「私は...何のために頑張ってきたんでしょうね...」

 自然と口が開いた。ゆっくりと、だが確実に自分の感情を吐露するように。

 「私は、これまで頑張ってきました...周りの友人たちは大学に進学して、楽しそうに勉強して、楽しそうに遊んで、楽しそうに恋愛している間に...私は、楽しいとは言えない仕事をしていました。友人と会う度にみんなが眩しく見えていたんです。」

 私のゆっくりと紡ぐ言葉を、清水さんは静かに、だが確実に聞いていた。

「頑張っても、評価されない。たったの5分で否定される。理不尽ですよね。」

 気が付けば、自然と涙が流れていた。嗚咽なんて混じらない、静かな涙だった。

「散々頑張って、できる事増えても、給料は上がらない。それなのにプロジェクトは増える。何なんでしょうね、これ。」
「俺も喜多と同じで高卒だからよ、気持ちわかるよ。頑張っても報われないのって辛いよな。正直、俺が言うのもあれだがな、この会社はクソだ。叩けば埃がたくさん出てくるような会社だ。お前はまだ若いから、この会社に居続けるのはやめたほうがいい。会社のために生きるよりも、自分のために生きて尽くしたほうが良いだろう。」
「自分のために生きて、尽くす...」
「そうだ、自分のために生きなさい。何かやりたい事があれば、それをやってみろ。そして、可能であればやってみたい事、楽しい事、好きな事を仕事にしろ。そうすれば、辛いことがあっても立ち直れるし、また歩き出せるだろう。」

 これは清水さんからの、仕事上での上司からではなく、人生の先輩からの言葉だった。こんな状況だからだろうか、心に響く。こんなクサいセリフ、いつもの私だったら笑って誤魔化していただろう。

「私は...俺は、この状況から逃げてもいいと...?」
「おう、逃げろ逃げろ。若いんだ、体力もあるし足も速いだろ?逃げ切っちまえ。」
「はは...」

 自然と笑いが零れた。逃げるって、足使って走って物理的に逃げるのかよ。
 そうか、逃げてもいいのか。好きな事をやってもいいのか。

「やりたい事は...あります。...ちょっと、考えてもいいですかね。」
「おぅ、考えてみろ。俺は先に出てるからよ。...顔洗っとけよ?」

 ニコニコと笑顔でそう言うと、清水さんは会議室から出て行った。
 涙はまだ流れていた。もうじき止まるだろう。あぁ、泣いたのなんて何年振りだろうか。
 虚無感はもう感じない。むしろスッキリとした気分だ。
 若いんだから逃げ切っちまえ。清々しいまでに何もかも吹き飛ばす豪快な言葉だ。なんとも清水さんらしい。俺はまだ25歳だ。人生の折り返しにすら到達していない。色々とやってみよう。

 そうと決まれば会社を辞めなきゃだな。こんなにもあっさりと会社を辞める決断ができるなんて思わなかった。この会社は上層部がクソだったが、お世話になった人は沢山いる。ひとまずは辞めるまでに精一杯、出来る事をやろう。

 やる事が決まった。涙はもう止まっている。目元は赤くなってるだろうが、大丈夫だろう。清々しい気分で席を立ち、会議室を出た私はまずトイレへと向かった。
 顔を、洗わなきゃね。
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