霖の幻

詩方夢那

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第二話 鴉羽の矢:祭りの夜

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 夏の暑さも終わりを迎える頃、花咲大学人文学科の助教である東雲暁陽はとある元農村地帯を訪ねていた。
「お忙しいところ、取材を申し込んでしまって申し訳ありません」
 人文学科教授で郷土史研究家の北原が郷土史の調査結果をまとめた書籍を出版すると決まったのはこの夏の事だったが、出来の悪いゼミ生が多い今年は卒業論文にかかる指導に時間を要しており、取材日程が先延ばしになっていた。
「いやぁ、儂はもう農業は引退しとるんで暇をしてます」
 取材相手はこの地域の事を古くから知る古老の井上なる人物で、東雲にとっては彼を悩ませ続ける奔放な母親の親戚にあたる。
「倅から聞きましたよ、随分あのあばずれに振り回されていたと」
「面目御座いません」
「いやいや、あんたは悪ぅない。その上に、上司の教授先生にも振り回されて、いやはや、大学の先生というのも、大変ですな」
「痛み入ります……」
 かつては農村だったこの地域もこの数年で耕作放棄地が増え、宅地として販売される田畑も現れ始めているが、今も稲刈りを待つ稲穂は多く、農業の担い手探しも本格的に始まっている。
「この辺りは、まだ稲刈りも多いですね」
「そうですかのう、随分荒れ地も増えてしもうた様に思いますが」
「いえ、此処に来るまでに通ってきた地域は、だんだん田畑が消えてしまっていました」
「寂しいもんですなぁ。うちは倅が兼業でなんぼか畑をしとるもんですから、もうしばらくは畑のまま使えそうですがな」
 井上に案内されるまま東雲が辿り着いたのは、かつて村外れだったと思しき寂れた一帯にある一軒の家だった。
「この家は井上さんの家だったんですか?」
「いや、昔は集会所でな。うちの嫁さんの父親が議員をしようた頃に引き受けての、今はうちが管理をしとりまして」
「そうでしたか」
「まぁ、儂も子供の時分にゃこの庭で紙芝居を見せてもろうたり、若い頃にゃ神楽をしたりもしたもんです」
 錦田は防犯用に設置したまだ新しい金網の南京錠を開け、暁陽と共に敷地へと入る。
「年季の入った建物ですね……やっぱり、若いのが無断で入ったりするんですか?」
「そういう事も有りましたが、今はイノシシが居りてくるようになりましてな」
 建物の扉は施錠されておらず、錦田が引き戸を開けると同時に薄暗い屋内に光が差す。
「其処の面が、山女神楽の……」
「えぇ。大きな声では言えない事もしておったと聞きますが……おっと、失礼」
 錦田の携帯電話が鳴り、錦田は暁陽から離れた場所へと向かう。
(大きな声では言えない、つまり……)
 暁陽は以前、母方の親戚から妙な話を聞かされた事が有る。それは、かつてこの地域で行われていた若い男を山の女神に捧げる奇祭があり、暁陽の様に細身で非力な男は捧げられなければならなず、捧げられた男はみな死んでいるという物だった。
 その話を聞かされた当時、暁陽は十四歳。小学生の頃に髄膜炎で入院した事がきっかけで母方祖父母から言われない差別を受けた挙句、母親が蒸発して外の男との間に男児を儲けてしまった頃の事だった。
 その当時は母方の親戚による嫌がらせのひとつとして受け流していたが、成り行きで郷土史研究を専攻してしまった今、それが事実である事を突き付けられる。
「いや、申し訳ない。しつこいセールスがうるさいと嫁さんから電話があってな。倅に電話しろとも言うたんじゃが、儂も一度戻ってきますんで、そこら辺を見とって下さい」
「分かりました、お気をつけて……」
 足早に引き返す錦田を見送り、暁陽は改めて暗い屋内に視線を向ける。
(神楽面……女の姿が無いのが、山女神楽の所以か)
 暁陽はスマートフォンのライトを点灯させ、薄暗い室内を照らす。白いLEDに照らされた神楽面は煤けており、色もかなり落ちている様子だった。
(保存状態は酷いな。使っていたとはいえ、使われなくなってからが良くないパターンか……)
 薄暗い室内に浮かび上がる神楽面の白い影の不気味さも忘れ、暁陽は傷んだ神楽面をひとしきり眺める。本来であれば板張りの床に上がって検めたいところだったが、床が劣化して抜ける可能性も捨て切れず、上がり框の奥に進む勇気は無かった。
(そういえば、もうひとつ小屋が有ったな)
 黴臭さを帯びた埃の積もる建物を離れ、暁陽は金網に囲まれた敷地の中にあるもうひとつの建物へ向かう。
 その建物は物置小屋ほどの大きさで、窓は無い。だが、出入り口に小さな引き戸が設けられており、開ければ覗き窓になるらしい構造をしていた。
(まさか、此処が……)
 あの親戚の話が事実であるなら、目の前の小屋がその現場だったのだろうか。動くかどうかは分からないまま、暁陽が好奇心に負けてその小さな引き戸に手を伸ばした瞬間、彼の周囲は暗くなった。

 暁陽の目の前が暗くなった直後、彼は自分が立っている場所に充満しているのが柔らかい土と乾いた草が湿った様な匂いであると気付く。
(此処は……)
 困惑のまま辺りを見回した暁陽は、明かりが灯され人の気配の有る建物を見つける。
(まさか)
 明かりの方へ近付いて見ると、それはあの一軒の家屋。玄関の両脇の壁に縁側が設けられた特徴的な構造はそのままに、今はその雨戸が開け放たれ、人だかりが出来ている。
 暁陽はその人だかりに近付き、人が集まっている理由を知った。建物の中では神楽が行われていたのだ。
(女人禁制か?)
 人だかりの向こう、建物の中には男衆の背中が有り、女性達は中に入れないらしい雰囲気だった。だが、女性も神楽を見る事自体は禁じられていないらしく、めかし込んだ様子で集まっている。
 やがて神楽の舞が終わると観客の男衆が外に出て、女性達もまた同じ方へと歩いてゆく。暁陽は女性達の後を追って敷地を出た。
 神楽を見ていた人々が集まったのは近くの畑の脇にある広場で、其処には丸い石がひとつ置かれている。その石は幼い子供ほどの大きさで、何かの御神体を示す様に注連縄が回しかけられていた。
 ――さあさあ、力自慢の旦那さん、この岩をお抱えなさい。
 長老らしき男性に応え、若い男達が次々とその岩を抱えて見せる。それなりに重さが有る様で、胸の高さまで抱え上げた男には拍手喝采が贈られる。すると、一人の若い男がめかし込んだ娘を指名し、こちらに来るようにと言った。若い男衆は囃し立てる様に笑うが、指名された娘は恥じらいながらもどこか嬉しそうに進み出る。
 ――わしは嫁が抱えられるからのぅ。
 男は娘を抱え上げ、見ていた老人の一人は高砂の一節を謡う。
 しかし、次はあんただと指名された男の一人は、明らかに曇った表情で石の前へと進み出る。その男は暗がりの中でも分かるほど明らかに血色が悪く、痩せていた。
 男が石に手を掛けると、娘を抱え上げて見せた男をはじめ、多くの人々が広場を去っていく。
 広場に残っているのは、何人かの男。
 ――はよう持ち上げんか。
 長老に迫られて浮かない表情で立ち尽くしていた男は石に手を掛けるが、男の力では柔らかい土の上で石が揺れるばかり。僅かばかりに持ち上がったかと思えば、すぐに石は地面に食い込み、男は息を荒らげている。
(まさ、か)
 暁陽の脳裏に母方の親族から聞かされた妙な話が過った途端、彼の目の前は霞み、気が付いた時には何も見えない暗がりの、埃がかびた様な異臭の漂う場所に立っていた。
(此処は)
 振り返ると僅かな明かりをもたらす小窓があり、暁陽は其処があの小屋の中である事を知る。
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