世界の果てにも雪は降る

詩方夢那

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安住の地

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 それは古い家屋だったが、年季の入った古めかしい日本建築は、リディアにとって憧れの一軒家だった。
 ミヒャエルにしてみれば、靴を脱いで家に上がるという文化が目新しく思われる反面、古い床板もそのままに暮らしていた彼は、玄関先で部屋履きのスリッパに履き替える事が当たり前だった。しかし、畳の敷き詰められた和室というのは、やはり珍しい物だった。
「お昼は食べちゃったし、夕飯はまだ作ってないし……ヤキイモでも食べる?」
 招かれた台所には、リディアが近所のスーパーで買ってきた焼き芋が有った。
「あ、手洗いならそこのシンクを使って。不透明のボトルがハンドソープよ」
「う、うん」
 一人で暮らすには広い台所には、食卓にしている折り畳みのテーブルセットが据えられていた。
「リル、此処、凄く広い気がするけど、一人で住んでるの?」
「ええ、社長が昔暮らしてた家よ。手入れはしてたらしいけど、買い手が付く様な物件じゃないからって、売らずに税金だけ払ってたとか」
「へー……でも、日本の家賃は安くないし、やっぱ高いのか?」
「ううん。その土地の税金払ってくれるならそれでいいって言ってくれたわ。勿論、光熱費や通信費は全部払ってるけど……まあ、私のオフィスというか、アトリエ兼ねてるから、稼いだお金の税金、安く見積もれるみたいだし、悪くないわよ。ちょっと、お店までは車が欲しいけど……というか、ミヒャエル、この辺鄙へんぴな所までどうやって来たわけ?」
「社長に車を貸してもらったんだ。機材の運搬をする事が今は無いから、大きいのならあるって言ってくれたんだ」
「……まさか、東京から此処まで車で来たの?」
 リディアは目を瞠った。
「一応国際免許は持ってるし、高速道路は一本道で休憩場所もあるから、むしろ快適だったよ」
「で、今車は?」
「社長が手配してくれた貸し駐車場に停めてるよ。あの車のナンバープレートならお金は取られないからって」
「はぁ……でも、よく高速道路から普通の道使って此処まで来られたわね」
「車で地図を見てたからね……ところで、それは?」
 リディアが紙袋から取り出したのは焼き芋だったが、ミヒャエルにしてみればまるで生のサツマイモである。
「ヤキイモよ。スイートポテトを焼いただけだけど、お芋自体が甘くて、加熱しただけでも十分に美味しいのよ」
「へー」
「皮はすぐに剥がれるから、剥がして食べてね。お茶を淹れるわ」
 ミヒャエルから見ると、取っ手の無いマグカップの様な湯呑にお茶が注がれている様は、まるでグラスに熱い物を注ぐ様で少し奇妙に思われたが、手に取るとマグカップのそれと同じ焼き物だという事は分った。
「日本のお茶は砂糖やミルクを入れずに飲むのよ、中国のお茶がそうである様に。ただ、粉になった緑色のお茶は別で、カフェオレみたいにして飲んでもおいしいのよ」
「俺は砂糖もミルクも入って無い紅茶しか飲んでないけどね」
「それはあんたが極貧極めてた所為でしょ……」
 見慣れない光景と、初めて口にする食品を前にミヒャエルは少しばかり戸惑っていたが、同時に、その奇妙な世界が当たり前の様に振舞うリディアの様子は、如何に彼女が長くこの国に居たのかという事を如実に物語っている様に見えていた。

 リディアが初めて日本にやって来たのは、まだ十歳の頃の事だった。
 元々はドイツ人夫婦の間に生まれた一人娘で、父親は日本の文学や文化を研究する学者だった。だが、旅する事が大好きな母親は、一人の男性と家庭を持つ事に嫌気が差し、夫が日本の大学に勤めると決まったと同時に、新しい恋に走った。
 まだ六歳だったリディアは母親の新しい恋人であるフランス人の画家と共に、欧州各地を転々とする暮らしを強いられた。その中には、極寒のロシアや情勢不安の影が残る東欧の小国も含まれ、あまりに短い滞在期間で国を移る為、学校にもまともに通えず、とても幸せとは言えない生活だった。
 そして彼女が九歳になる頃には、母親はフランス人の画家と別れ、スペイン人の音楽家と交際し、リディアと母親は彼とイタリアに留まっていた。しかし、母親が欧州各地の言葉に堪能だった事、リディアは母親の交際相手を受け入れていなかった事が災いし、彼女は母国語以外の言葉が殆ど分かっていなかった。しかも、学校にもまともに通えておらず、英語も十分に理解していない状態で、安住の地に思われたイタリアに居てもなお、其処で生活出来ると思えてはいなかった。
 そんなある日、スペイン人の音楽家は南米へ移る事を決めたが、治安の悪さにリディアの母親は渡航を渋った。だが、リディアの母親は、自分の娘を捨てる道を選んだ。
 それが、リディアが日本へやってきた理由だった。

「……リル、日本の生活、楽しいか?」
「どうしたのよ、急に」
「いや、俺にはさ、全部、なんか、別の文化で、奇妙に見えて」
「それは仕方ないわよ、あんたは日本に来たのは初めてでしょ?」
「いや、子供の頃に、一度だけ旅行で来た事は有るよ」
「そっか……でも、奇妙なのは当然よ。私は十年近く住んでたし、むしろ人生の半分くらいは日本に居たから、こっちの方が安全でずっと親しみがあるわ……あぁ、なんで私ドイツに戻ろうって思ったのかな。ハイスクールを出た後、大学に行けばよかった。そしたら……帰化してたのに」
 ミヒャエルは心臓が跳ねるのを感じた。
「もっとも、あの時は……まだ私はドイツ人だと思ってた。おじいちゃんもおばあちゃんもドイツに居た。だけど……あのバカ女が戻って来ていて、子供まで居るなんて思っても無かったし……バンドが空中分解するとも思ってなかった。ヨーロッパで音楽活動する方が、日本で何かするよりいいって思ってたし、実際、楽しかったのに」
「リル……」
「でも、むしろ、もうドイツに戻る所なんて無いし、あのバカ女と一生顔を合わせずに済むなら、この国から出ようとは思わないし……この国に骨を埋めるっていうのは、果たせるかな」

 リディアは父親が持っていた日本語の本がきっかけで、日本語という言語を知った。
 欧州を転々とする生活の中でも、唯一母国語以外に覚えた言葉が日本語だった。
 母親から捨てられる様にしてやってきた日本で、四年ぶりに父親と再会した時、少ない荷物の中に有ったのが、父親から貰った日本語訳の絵本だった。
 赤毛にも近い金髪に透き通った緑色の虹彩、母国では当たり前の容姿が異質な物とされ、教師からは地毛が金髪である事を叱責される事さえあった理不尽な国ではあったが、子供が一人で外に出る事が出来る街、拳銃を持つ人が居ないはずの町、どれほど酷い政権運営が行われようと、民衆が蜂起して暴動がおこる様な事のない、良くも悪くも平和な国、それだけでもリディアにとって日本は安住の地だった。
 しかし、それでも生まれ落ちた国への望郷の念は尽きず、大人になった今なら、もう振り回される事も無く暮らせるからとドイツに戻ったのが四年前の事だった。
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