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First Movement : Rabbit has come
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「箪笥とクローゼット、それからローテーブルに……ベッドはロフトよりは多機能か収納付きのちょっと高めくらいがいいか?」
正午前、住宅街を少し離れたカフェの一角で星野は数冊のカタログとタブレットを机に広げていた。
「そうだ、箪笥とクローゼットはこれがいいな。国産だけど木目の色がそろって無いとか、そういう理由で安いらしい」
天津は光の無い瞳でぼんやりと星野の広げたカタログを見下ろしていた。
「で、ローテーブルは間に合わせにひとつありゃいいよな。これは折り畳みのをホームセンターでひとつ買ってて来るか……なあ、聞いてるか?」
星野は天津の顔を覗き込み、肩を竦めながらタブレットをカタログの上に抛る。
「いやさ、ワンルームつっても板間十帖あって、風呂とトイレが独立のうえ、脱衣所は洗面付きで洗濯機据え付け出来る広さって、一人暮らしにしちゃちょっと広いかもしれないがな、俺だって同じ様な所で下宿暮らしだぞ?」
「でも、お前の所には家族も来るし」
「おかげで子供の布団と嫁の布団が収納占領してる。とても他人を呼んで仕事の話なんて出来ねぇ部屋だぜ? せめてお前くらい広い部屋に住んでくれよ……で、箪笥はこの訳あり特価品、クローゼットはこっちの組み換え自在なパイプラックに遮光用にカーテン付ける魔改造で良いか?」
天津は生返事を返す。
「じゃ、新居に配送頼んでおくぞ。俺のアカウントにポイント付けてもらう分はちゃんと手伝ってやるから、猟期前に金だけは払ってくれ。流石に、猪相手に鉄砲撃ってると、身の保障がねえからな」
左手で支えるタブレットにつないだマウスを右手に、星野は特価品のタンスを注文する。
「で……流石に、あのクソ不用心な部屋に帰るつもりじゃねえだろうな?」
「え……」
「まさか、病み上がりでネカフェか?」
顔を上げた星野は何も考えてはいないらしい天津の顔を見た。
「一応、新居の水と電気は通してもらってるが……布団を運ぶってならこれから運んでやるが」
「あ……うん」
「じゃ、こいつの処理が終わったら、いっぺんあばら家にいくか。どうせ、物干しラックと黒カビタオルしか残ってねぇし、運び出してやるよ」
虚ろな表情で、天津は再び生返事を返す。
「……分かった。今日はぼたん鍋作ってやるよ」
ご注文ありがとうございましたと表示された画面を確かめると、星野はタブレットの電源を落とした。
「大方、大家の嫌がらせだろうな」
警察官の去ってゆく後ろ姿を見ながら、星野は肩を竦めた。
昼を過ぎた頃、星野は天津を連れ、天津の部屋に残るカセットコンロとハンガーラックを回収に向かった。しかし、部屋の中には何も残されては居なかった。
「鍵は応急処置とはいえ、新しいネジで止めてたんだ」
「でも、大家さんが入っていい約束ではあったけど……」
「勝手に入るのも問題だが、物を持っていくのは次元が違う。弁償くらい請求してもいいだろ……さ、行くぞ」
二人がアパートに隣接する小さな駐車場に向かうと、女性の甲高い声が聞こえた。
「だから、貴方には、見せたくないんです! どうしても検める必要があるって言うなら、婦警さん呼んで下さい!」
尋常ではない声に、星野は通りへと出た。
「ちょっとちょっと、どうしたんですか、お巡りさん」
至って軽い調子で言いながら、星野は鞄を抱えて蹲る女性と、それを見下ろす警察官の間に割って入った。
「こら、部外者はあっちへ」
「こんな若いお嬢さんに職質ですか? んで、鞄見ようとしてこの有様……おまわりさん、お嬢さんの鞄の中は見ない方がいいですよ? 俺なんて、前の彼女の鞄見ちゃって大げんかですよ。だって、男二人が裸であんなポーズ取ってる表紙が見えちゃって、ノンケの俺はびっくり仰天っすよ」
星野は無関係な話をまくし立て、警察官が顔をしかめるのを眺めていた。
「あ……」
星野が動くまま通りに出た天津は、後先を考えている様子も無く割って入った星野に呆れながら、蹲る女性を見て、思わず声を上げた。
「お知り合いですか?」
脇に立っていたいかつい顔の警察官が天津に目を向ける。
「え、えぇ……劇団の、脚本家の先生です」
「え……」
警察官はいかつい顔を更にしかめて女性を見遣った。
「おい。免許証は見たんだろ? もういい。劇団の関係者だとさ」
「しかし、こんな所に若い女性が一人で居るのは」
「其処のが劇団員らしい。訪ねてきたんだろうよ」
女性に詰め寄っていた警察官はばつが悪そうに、気を付けて下さいと吐き捨て、上司らし気いかつい顔の警察官の方へと引く。
「この辺り、最近は空き巣やひったくり、女性相手には痴漢、子供が歩けば変質者の目撃情報と物騒ですから、気を付けて下さいね。では」
いかつい顔の警察官は天津に型どおりの言葉を掛け、若い警察官を連れて引き上げていった。
「あー……で、子の子、知り合い?」
割って入った星野は、緊張の糸が切れた様に息を吐きながら天津を見遣った。
「うん……」
「あ、あの……その……ありがとう、ございます」
立ち上がった女性は小さく頭を下げ、星野は視線を女性へと戻す。
「えっと、私、寿栖木律子って言います。その、そちらの、えっと、天津さんと一緒に、アルタイルって言う劇団のミュージカルのお話を頂いていて……」
「……あー」
聞いて、星野は再び天津を見た。
「で、でも、どうしてこんな所に」
「その……」
律子は目を伏せながら、言葉を探した。
「その、台本の事で、座長の大石さんにお話があって……大石さんの本業の、電気屋さんというか、楽器屋さんというかに……でも、大石さん、今日はお留守で……」
「……でも、その鞄、ちょっと訳ありみたいだな」
星野は警察官の間に割って入った時とは違う、鋭い眼差しで律子の鞄を見た。
すると、律子は肩を震わせた。
「まぁいいや。此処で立ち話はまずいし……俺の車でよけりゃ乗りなよ。適当な喫茶店にでも行こう」
「で、でも……」
「困ってる女の子を放ってはおけない。勘定は俺が持つからさ」
星野は律子の手首を掴み、駐車場へと戻って行った。
律子はあの路上から星野に連れられるまま、見知らぬ住宅街に佇む喫茶店に入っていた。
その喫茶店の店主と星野は知り合いらしく、彼は律子と天津を奥の席へと案内する。
「あ、あの」
「お茶代なら俺が出すよ。どう見ても……君、家出したんだろ?」
穏やかな口調とは裏腹に、鋭さを湛えた眼差しで律子を見遣りながら、星野は腰を下ろす。
天津は目を丸くして、律子の持つ大ぶりな鞄に視線を落とした。
「座りなよ。話なら、ゆっくり聞くよ」
律子は目を伏せながら、座らざるを得ないと言った様子で腰を下ろした。
様子を見計らったように店主は氷の浮かんだグラスを持って席へとやって来た。
星野は三人分の熱い紅茶を頼み、ソファに体を深く沈めながら腕を組む。
「何があったか、教えてくれるか? 尤も、俺は初対面だが……」
自嘲する様に言いながら、星野は天津を横目に見遣る。
「天津、お前は初対面ってわけでも無いんだろ?」
視線を受け、天津は肩を竦ませて、恐る恐るその視線を律子に向ける。
律子は目を伏せたまま、訳ありな鞄を抱えて縮こまっていた。
「……さっき……大石さんの所に、行くって言ってたけど……どうして?」
天津は彷徨う視線を、律子の抱えた鞄に止める。
律子は鞄を強く抱えて唇を結ぶ。すると、強く抱えられた鞄のポケットから、一枚のメモがはみ出した。
「あ……」
律子が紙の立てる僅かな音に思わず声を上げた時には。星野の指がそのメモをつまんでいた。
「あの」
律子が手を伸ばすよりも早く、引き込まれた星野の手は、二つ折りの紙を開いていた。
書き付けられていたのは、律子が設定しているブラウザメールサービスのアカウント情報だった。
「君、ミュージカルに係わってるアーティストの一人だよな……ストレージに預けたデータの情報、わざわざこんな風に持ってるってのは、そういう事、か?」
星野は訝しむ様な、憐れむ様な、曇った眼差しで律子を見た。
律子は伸ばしかけた手を引き、項垂れる。
星野は深い溜息を吐きながら、開いた紙を二つ折りに戻した。
少しばかりの静寂が訪れた頃、店主は紅茶のポットと三人分のカップを持ってテーブルへとやってくる。
「で……何でこんな物書くに至ったのか、こいつには話してもいいんじゃないか?」
星野は再び天津を横目に見遣りつつ、二つ折りに戻した紙を律子に突き返す。
律子は項垂れる様に目を伏せたまま、机の上の紙を手に取り、星野は紅茶に添えられたクッキーをひとつ口にする。
「……もしかして、辞めたいの?」
黙り込む律子と傍観を決め込んだ星野の間に天津は渋々と割って入った。
そして、その言葉に、律子は飛び上がらんばかりに顔を上げた。
「ま、まさか! そんな……やっと貰った仕事なのに、辞めたいわけ無いんです、でも……」
其処まで言って、律子は再び目を伏せる。
「でも……行くあても無いし、台本、直してって言われても、直す術も、無いし……」
「何があったか、お茶代代わりに教えてくれるか?」
クッキーの入った籠を律子の方へ押し出しながら、星野は鋭い眼差しを向ける。
少しばかり黙っていた律子は、その籠を受け取る様に口を開いた。
「……家出じゃなくて、家を追い出されたんです。仕事も無いし、親とは長らく、仲が悪かったし」
「でも、脚本の仕事」
「そんなの仕事に数えてもらえるわけ無いじゃないですか。私にとってはお仕事でも、親にしてみれば、道楽以下なんですから」
拗ねた様に天津の言葉を遮り、律子はクッキーに手を伸ばす。
「それで、家を追い出されて、仕事にならないからって、それを?」
星野は二つ折りの紙を見遣る。
「せめて……後はお任せするにしたって、出来た所くらいは、と……」
律子は遠慮がちにクッキーを口に運んだ。
律子が出ていけと言い放たれた家に戻ったのは、夜も更けた頃だった。
そして、母親には住み込みの仕事を見つけたと嘘を吐き、本格的に家を出る荷物をまとめていた。
顔を合わせたのは二回だけで、会話らしい会話をしたのはその日が初めて。そんな男と、明くる日から同じ屋根の下で暮らす事が、どれほど正気の沙汰でないか、彼女はそれを自覚していた。
だが、行くあての無い今、人生で初めて受けた仕事を成し遂げる為には、そうするしかないのだと自分に言い聞かせていた。そして、不安という不安を、死ぬ事はないだろうという言葉にすげ変えながら、いざとなれば、本当に住み込みの仕事があるのだからと考えをすり換えながら、広げた鞄に荷物を詰め込んだ。
事の発端は、あの喫茶店で彼女がクッキーを全て食べた後の事。
行くあても仕事のあても無い彼女を前にした星野は、いい事を思いついたと口を開いた。
――そこの天津が新しいアパートに引っ越すんだけど、一人暮らしにはちょっと広いくらいなんだよ。
その言葉に、律子は首を傾げた。
――荷物だって、場所をとるのはせいぜいギター周りの機材だけで、漫画の一冊も持ってない様な有様でさ、おまけにタオルに黒カビはきてるわ、物干し台は盗られるわ、身の回りの物さえロクな物が無い始末。こいつ、放っておいたら部屋が几帳面なごみ屋敷になっちまう様な生活能力の無さなんだよ。住み込みの家政婦と思って、こいつの部屋で間借りするってのはどうだ?
――ちょっと、星野
――タオル一枚茶碗ひとつから揃えるんだろ? そんなのお前ひとりに任せてられねぇし、女の子に揃えてもらうのが手っ取り早いよ。
――でも。
――俺だってタオルの一枚まで面倒みられねえよ。
星野は強引に話を推し進め、最後には、部屋の手配をしたのは俺なんだから、と言った。
――家の人には、住み込みの仲居の仕事が見つかったとでも言いなよ。いざとなったら、俺の実家に掛け合ってやるからさ。
律子には断れる理由が無かった。
それが、見ず知らずの男に提案されるまま、殆ど見ず知らずの男と共に暮らす事であっても。
彼女は深い溜息を吐き、部屋を見回した。
もう、持っていく物は何も無い。
後は、明日の朝、旅館の若さん――星野が迎えに来るのを待つだけである。
正午前、住宅街を少し離れたカフェの一角で星野は数冊のカタログとタブレットを机に広げていた。
「そうだ、箪笥とクローゼットはこれがいいな。国産だけど木目の色がそろって無いとか、そういう理由で安いらしい」
天津は光の無い瞳でぼんやりと星野の広げたカタログを見下ろしていた。
「で、ローテーブルは間に合わせにひとつありゃいいよな。これは折り畳みのをホームセンターでひとつ買ってて来るか……なあ、聞いてるか?」
星野は天津の顔を覗き込み、肩を竦めながらタブレットをカタログの上に抛る。
「いやさ、ワンルームつっても板間十帖あって、風呂とトイレが独立のうえ、脱衣所は洗面付きで洗濯機据え付け出来る広さって、一人暮らしにしちゃちょっと広いかもしれないがな、俺だって同じ様な所で下宿暮らしだぞ?」
「でも、お前の所には家族も来るし」
「おかげで子供の布団と嫁の布団が収納占領してる。とても他人を呼んで仕事の話なんて出来ねぇ部屋だぜ? せめてお前くらい広い部屋に住んでくれよ……で、箪笥はこの訳あり特価品、クローゼットはこっちの組み換え自在なパイプラックに遮光用にカーテン付ける魔改造で良いか?」
天津は生返事を返す。
「じゃ、新居に配送頼んでおくぞ。俺のアカウントにポイント付けてもらう分はちゃんと手伝ってやるから、猟期前に金だけは払ってくれ。流石に、猪相手に鉄砲撃ってると、身の保障がねえからな」
左手で支えるタブレットにつないだマウスを右手に、星野は特価品のタンスを注文する。
「で……流石に、あのクソ不用心な部屋に帰るつもりじゃねえだろうな?」
「え……」
「まさか、病み上がりでネカフェか?」
顔を上げた星野は何も考えてはいないらしい天津の顔を見た。
「一応、新居の水と電気は通してもらってるが……布団を運ぶってならこれから運んでやるが」
「あ……うん」
「じゃ、こいつの処理が終わったら、いっぺんあばら家にいくか。どうせ、物干しラックと黒カビタオルしか残ってねぇし、運び出してやるよ」
虚ろな表情で、天津は再び生返事を返す。
「……分かった。今日はぼたん鍋作ってやるよ」
ご注文ありがとうございましたと表示された画面を確かめると、星野はタブレットの電源を落とした。
「大方、大家の嫌がらせだろうな」
警察官の去ってゆく後ろ姿を見ながら、星野は肩を竦めた。
昼を過ぎた頃、星野は天津を連れ、天津の部屋に残るカセットコンロとハンガーラックを回収に向かった。しかし、部屋の中には何も残されては居なかった。
「鍵は応急処置とはいえ、新しいネジで止めてたんだ」
「でも、大家さんが入っていい約束ではあったけど……」
「勝手に入るのも問題だが、物を持っていくのは次元が違う。弁償くらい請求してもいいだろ……さ、行くぞ」
二人がアパートに隣接する小さな駐車場に向かうと、女性の甲高い声が聞こえた。
「だから、貴方には、見せたくないんです! どうしても検める必要があるって言うなら、婦警さん呼んで下さい!」
尋常ではない声に、星野は通りへと出た。
「ちょっとちょっと、どうしたんですか、お巡りさん」
至って軽い調子で言いながら、星野は鞄を抱えて蹲る女性と、それを見下ろす警察官の間に割って入った。
「こら、部外者はあっちへ」
「こんな若いお嬢さんに職質ですか? んで、鞄見ようとしてこの有様……おまわりさん、お嬢さんの鞄の中は見ない方がいいですよ? 俺なんて、前の彼女の鞄見ちゃって大げんかですよ。だって、男二人が裸であんなポーズ取ってる表紙が見えちゃって、ノンケの俺はびっくり仰天っすよ」
星野は無関係な話をまくし立て、警察官が顔をしかめるのを眺めていた。
「あ……」
星野が動くまま通りに出た天津は、後先を考えている様子も無く割って入った星野に呆れながら、蹲る女性を見て、思わず声を上げた。
「お知り合いですか?」
脇に立っていたいかつい顔の警察官が天津に目を向ける。
「え、えぇ……劇団の、脚本家の先生です」
「え……」
警察官はいかつい顔を更にしかめて女性を見遣った。
「おい。免許証は見たんだろ? もういい。劇団の関係者だとさ」
「しかし、こんな所に若い女性が一人で居るのは」
「其処のが劇団員らしい。訪ねてきたんだろうよ」
女性に詰め寄っていた警察官はばつが悪そうに、気を付けて下さいと吐き捨て、上司らし気いかつい顔の警察官の方へと引く。
「この辺り、最近は空き巣やひったくり、女性相手には痴漢、子供が歩けば変質者の目撃情報と物騒ですから、気を付けて下さいね。では」
いかつい顔の警察官は天津に型どおりの言葉を掛け、若い警察官を連れて引き上げていった。
「あー……で、子の子、知り合い?」
割って入った星野は、緊張の糸が切れた様に息を吐きながら天津を見遣った。
「うん……」
「あ、あの……その……ありがとう、ございます」
立ち上がった女性は小さく頭を下げ、星野は視線を女性へと戻す。
「えっと、私、寿栖木律子って言います。その、そちらの、えっと、天津さんと一緒に、アルタイルって言う劇団のミュージカルのお話を頂いていて……」
「……あー」
聞いて、星野は再び天津を見た。
「で、でも、どうしてこんな所に」
「その……」
律子は目を伏せながら、言葉を探した。
「その、台本の事で、座長の大石さんにお話があって……大石さんの本業の、電気屋さんというか、楽器屋さんというかに……でも、大石さん、今日はお留守で……」
「……でも、その鞄、ちょっと訳ありみたいだな」
星野は警察官の間に割って入った時とは違う、鋭い眼差しで律子の鞄を見た。
すると、律子は肩を震わせた。
「まぁいいや。此処で立ち話はまずいし……俺の車でよけりゃ乗りなよ。適当な喫茶店にでも行こう」
「で、でも……」
「困ってる女の子を放ってはおけない。勘定は俺が持つからさ」
星野は律子の手首を掴み、駐車場へと戻って行った。
律子はあの路上から星野に連れられるまま、見知らぬ住宅街に佇む喫茶店に入っていた。
その喫茶店の店主と星野は知り合いらしく、彼は律子と天津を奥の席へと案内する。
「あ、あの」
「お茶代なら俺が出すよ。どう見ても……君、家出したんだろ?」
穏やかな口調とは裏腹に、鋭さを湛えた眼差しで律子を見遣りながら、星野は腰を下ろす。
天津は目を丸くして、律子の持つ大ぶりな鞄に視線を落とした。
「座りなよ。話なら、ゆっくり聞くよ」
律子は目を伏せながら、座らざるを得ないと言った様子で腰を下ろした。
様子を見計らったように店主は氷の浮かんだグラスを持って席へとやって来た。
星野は三人分の熱い紅茶を頼み、ソファに体を深く沈めながら腕を組む。
「何があったか、教えてくれるか? 尤も、俺は初対面だが……」
自嘲する様に言いながら、星野は天津を横目に見遣る。
「天津、お前は初対面ってわけでも無いんだろ?」
視線を受け、天津は肩を竦ませて、恐る恐るその視線を律子に向ける。
律子は目を伏せたまま、訳ありな鞄を抱えて縮こまっていた。
「……さっき……大石さんの所に、行くって言ってたけど……どうして?」
天津は彷徨う視線を、律子の抱えた鞄に止める。
律子は鞄を強く抱えて唇を結ぶ。すると、強く抱えられた鞄のポケットから、一枚のメモがはみ出した。
「あ……」
律子が紙の立てる僅かな音に思わず声を上げた時には。星野の指がそのメモをつまんでいた。
「あの」
律子が手を伸ばすよりも早く、引き込まれた星野の手は、二つ折りの紙を開いていた。
書き付けられていたのは、律子が設定しているブラウザメールサービスのアカウント情報だった。
「君、ミュージカルに係わってるアーティストの一人だよな……ストレージに預けたデータの情報、わざわざこんな風に持ってるってのは、そういう事、か?」
星野は訝しむ様な、憐れむ様な、曇った眼差しで律子を見た。
律子は伸ばしかけた手を引き、項垂れる。
星野は深い溜息を吐きながら、開いた紙を二つ折りに戻した。
少しばかりの静寂が訪れた頃、店主は紅茶のポットと三人分のカップを持ってテーブルへとやってくる。
「で……何でこんな物書くに至ったのか、こいつには話してもいいんじゃないか?」
星野は再び天津を横目に見遣りつつ、二つ折りに戻した紙を律子に突き返す。
律子は項垂れる様に目を伏せたまま、机の上の紙を手に取り、星野は紅茶に添えられたクッキーをひとつ口にする。
「……もしかして、辞めたいの?」
黙り込む律子と傍観を決め込んだ星野の間に天津は渋々と割って入った。
そして、その言葉に、律子は飛び上がらんばかりに顔を上げた。
「ま、まさか! そんな……やっと貰った仕事なのに、辞めたいわけ無いんです、でも……」
其処まで言って、律子は再び目を伏せる。
「でも……行くあても無いし、台本、直してって言われても、直す術も、無いし……」
「何があったか、お茶代代わりに教えてくれるか?」
クッキーの入った籠を律子の方へ押し出しながら、星野は鋭い眼差しを向ける。
少しばかり黙っていた律子は、その籠を受け取る様に口を開いた。
「……家出じゃなくて、家を追い出されたんです。仕事も無いし、親とは長らく、仲が悪かったし」
「でも、脚本の仕事」
「そんなの仕事に数えてもらえるわけ無いじゃないですか。私にとってはお仕事でも、親にしてみれば、道楽以下なんですから」
拗ねた様に天津の言葉を遮り、律子はクッキーに手を伸ばす。
「それで、家を追い出されて、仕事にならないからって、それを?」
星野は二つ折りの紙を見遣る。
「せめて……後はお任せするにしたって、出来た所くらいは、と……」
律子は遠慮がちにクッキーを口に運んだ。
律子が出ていけと言い放たれた家に戻ったのは、夜も更けた頃だった。
そして、母親には住み込みの仕事を見つけたと嘘を吐き、本格的に家を出る荷物をまとめていた。
顔を合わせたのは二回だけで、会話らしい会話をしたのはその日が初めて。そんな男と、明くる日から同じ屋根の下で暮らす事が、どれほど正気の沙汰でないか、彼女はそれを自覚していた。
だが、行くあての無い今、人生で初めて受けた仕事を成し遂げる為には、そうするしかないのだと自分に言い聞かせていた。そして、不安という不安を、死ぬ事はないだろうという言葉にすげ変えながら、いざとなれば、本当に住み込みの仕事があるのだからと考えをすり換えながら、広げた鞄に荷物を詰め込んだ。
事の発端は、あの喫茶店で彼女がクッキーを全て食べた後の事。
行くあても仕事のあても無い彼女を前にした星野は、いい事を思いついたと口を開いた。
――そこの天津が新しいアパートに引っ越すんだけど、一人暮らしにはちょっと広いくらいなんだよ。
その言葉に、律子は首を傾げた。
――荷物だって、場所をとるのはせいぜいギター周りの機材だけで、漫画の一冊も持ってない様な有様でさ、おまけにタオルに黒カビはきてるわ、物干し台は盗られるわ、身の回りの物さえロクな物が無い始末。こいつ、放っておいたら部屋が几帳面なごみ屋敷になっちまう様な生活能力の無さなんだよ。住み込みの家政婦と思って、こいつの部屋で間借りするってのはどうだ?
――ちょっと、星野
――タオル一枚茶碗ひとつから揃えるんだろ? そんなのお前ひとりに任せてられねぇし、女の子に揃えてもらうのが手っ取り早いよ。
――でも。
――俺だってタオルの一枚まで面倒みられねえよ。
星野は強引に話を推し進め、最後には、部屋の手配をしたのは俺なんだから、と言った。
――家の人には、住み込みの仲居の仕事が見つかったとでも言いなよ。いざとなったら、俺の実家に掛け合ってやるからさ。
律子には断れる理由が無かった。
それが、見ず知らずの男に提案されるまま、殆ど見ず知らずの男と共に暮らす事であっても。
彼女は深い溜息を吐き、部屋を見回した。
もう、持っていく物は何も無い。
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第二部表紙絵制作者様→和輝こころ様《https://twitter.com/honeybanana1》
第三部表紙絵制作者様→NYAZU様《https://skima.jp/profile?id=156412》
登場人物集です→https://jiechuandazhu.webnode.jp/%e5%bd%97%e6%98%9f%e3%81%a8%e9%81%ad%e3%81%86%e3%80%90%e7%99%bb%e5%a0%b4%e4%ba%ba%e7%89%a9%e3%80%91/
対極美
内海 裕心
現代文学
同じ、世界、地球の中でも、これほどまでに国によって、情勢、環境、文化は様々であり、平和で人々が日々幸せに生きている国もあれば、戦争して、人々が日々脅えている国もある。
同じ地球に生きていて、同じ人間でも、やはり環境が違えば、違う生き物なのだろうか。
このような疑問に対し、
対極な世界に生きる少女2人の話を、比べながら、その2人の共通点、類似点を紐解き、その答えを追求するストーリー。
ろくでなしと笑わない天使
吉高 樽
現代文学
《30日以内に『価値のある人間』にならなければ、君の命は神様に奪われる》
無気力で淡泊な三十路手前の人生を送っていたその男は、あるとき美しい天使が「見えるように」なった。
生まれてからずっと傍で見守っていたという天使は、しかしながら男に非情な宣告を告げる。
惰性で生きるろくでなしの男は30日以内に『価値のある人間』になれるのか、『価値のある人間』とは何なのか、天使との半信半疑な余命生活が始まる。
※注:これはラブコメではありません。
※この作品はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係がありません。
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