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西遷の章
トオツマチネとトオツタラシ
しおりを挟むミナカタらが筑紫へと旅立ってから数日後のことである。出雲のホヒ、そしてトシロから、タカヒコにとっては面白くない情報が届けられた。
母のことである。母タギリ姫はタカヒコと美保の宮でわかれた後、杵築の宮へと帰っていた。
その何日かあと、サルタヒコと名乗る老人と共に杵築の宮に戻ったトシロは、母とサルタヒコを伴い、熊野の政庁で出陣準備で忙しくしている大国主に筑紫出兵を取りやめるようにと願い出たのだ。
筑紫・邪馬台国は彼女にとって故郷である。せめて自分の目の黒い内は、夫や我が子がそこに攻め入るなどということは許せないということらしい。
女王国出身の彼女は気弱い反面、プライドは高い。越から因幡をまわり、やっと杵築に戻ったばかりの夫の姿を見た途端、突然のように彼女はその主張を繰り出し、ヒステリー状態に陥ったのだった。
そして彼女は宮を飛び出し、八雲山にたった一人で入り込み、抗議の態度を示したばかりか、『タギリ姫』という名を自ら捨てさり、「遠津待根(遠く離れた筑紫の港から嫁いできた一人ぼっちの女)」(注)と名乗った。
これは、自分でつけた諡(おくりな)であり、諡を自称し且つ公表し喧伝するということはすなわち、抗議が受け入れられない場合、自殺すると宣言したようなものだ。
その話は、美保で修行中のトシロにも届けられた。トシロとサルタヒコが修行している洞窟の場所を知っているのはかつてその場所で修行した経験のある大国主本人だ。
トシロは父からの書簡を読んでため息をついた。
「老師、母が錯乱したようです」
「錯乱?」
サルタヒコはトシロから書簡を受け取り、それを読んだ。
書簡に書かれている母の行動は以下のような内容だった。
「どうしても、筑紫に攻め入ると仰るのなら私は八雲山に隠れましょう。私が隠れた後、私のことを不憫と思ってくださるのなら、八雲山の前の地中深きところの磐石にこの上無く太い宮柱を打ち込み、大空に千木を高々と聳えさせた神殿を造り、私の御魂をそこでお祀り下さいませ。私はその神殿から遠く離れた故郷の方角を望みつづけます。」
と、母は父に言い張ったそうだ。
「いかがなさいますや?トシロ殿」
と、サルタヒコはシワだらけの顔に更に深いシワを作りトシロに問うた。
「修行を途中でやめるわけには行かない。けれど、、、」
「けれど?」
「母を死なせたくない!」
トシロは、彼には珍しく強い口調で言い切った。その様子を見ていたサルタヒコは提案をした。
「トシロ殿、修行の続きは出雲で行いましょうぞ。この私も杵築、いや大国主様の側までついて参りましょうぞ!」
「老師!」
二人はいくつかのまだ読んでない木簡をまとめ、美保の宮に戻り諸手舟に積み込み、先ずは杵築の宮へと向かい母を説得することにした。
杵築に着いた二人は母を説得にかかったが、山にこもったまま宮には戻らないという。サルタヒコはタギリヒメに提案した。
「我らと共に、熊野に向かい、大国主様にお会いしましょう」
タギリヒメは突っ伏して泣いた姿勢のままサルタヒコの事を無視している。サルタヒコは侍女のキクリに目配せをした。
その様子に気がついたトシロは、どうもこの老人二人は旧知の間柄のようだと悟った。
キクリがタギリヒメに耳打ちすると、タギリヒメは顔を上げトシロの顔をじっと見つめて一言だけ発した。
「熊野に参りましょう」
トシロは、母とキクリ、そしてサルタヒコ老師を伴い、熊野に向かった。
大和大物主となったタカヒコには、こういう事態が起こるかもしれないということは十分理解はしていたつもりであったが、母の狂乱とも言えるその態度は彼の気持ちを深く傷つけたのだった。
この事件は彼の心の底に留まり、彼は母のその態度に反感を感じつつも、三代目大物主としての新たな隠名を自ら「遠津山岬多良斯」と決めることになるのだ。
母が自らつけた諡を自らの新たな名前に加えるという事は、何時も弟のことばかりを気に掛け、自分の方を向いてくれなかった母へのタカヒコなりの愛着の証でもあった。
タカヒコは母やトシロ、もしかして父大国主にも二度と会うことができなくなるのでは、と大和の地から出雲の家族の事を思った。
以下、タラシに関する余談である。
(注)出雲大国主系譜にある名である。14代目に相当する『天日腹大科度美神』の配偶神で、出雲大国主系譜の最後にあたる15代目『遠津山岬多良斯神』の母神の名である。「待根」を「マッネ」「マチネ」と読むとアイヌ語の「女」に相当する。反面、筆者としては、「待根」の「根」は出雲振根、飯入根に、そして根の国神話に繋がるってこともあるんじゃないかと思ったりもしているが、単に「根」の字が繋がっているだけの話しだ。
タラシとは、隋書などに遺されている「日出ずる国の天子」つまり倭王(聖徳太子?用明天皇?蘇我馬子?)の名として知られている。また、景行天皇以後の天皇の和諡号にも使用されている。これは織田信長の天下布武の「布」に通じる「しろしめす」「しらす」と同じような意味ではないかと筆者は思っている。
閑話休題。
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