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大和の章
オオモノヌシ 一
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タカヒコはオオナンジの戦車に同乗し、共に摂津の渡しまでやってきた。オオナンジの戦車は大陸製である。殷、周の時代より大陸ではよく使われた戦車は山川の多い列島ではなかなか普及しない。精々荷車である。牛馬、ときには人力で動く。車輪部と人が乗る屋台は取り外しができるようになっいる。
ちょうどお祭りの山車や太鼓屋台のような感じである。車輪部を取り外せば御輿のように人力で担げたり、そのまま船にも乗せられる優れものであった。銅を叩いて薄く伸ばしたものを屋根や壁に貼り付けているので、ちょっとした矢の攻撃にはびくともしないようだった。その室内は大人が五人は向かい合って座れるようになっており、移動作戦本部にもなる。タカヒコはその室内で伊和大神から播磨合戦の様子、その戦い方、その後の国内統治、日矛との交渉などを、微に入り細に渡り質問した。
しかしこの便利な乗り物も大きな川などを渡るときは大変である。船に載せることができるとはいってもその作業には時間がかかるのである。今は大物主の下へ急がなくてはならない。オオナンジは今晩をここで過ごすことにして、200の軍を四つに分けた。100人とオオナンジ自慢の戦車は留守部隊として播磨へと戻ることになり、残りの半分とナガスネヒコらが率いていた騎馬隊を抑えとして摂津の渡しに残し、残りを陸路から別働隊として大和へ向かわせた。
タカヒコと彼が出雲から率いてきた加茂の民、オオナンジとアシハラシコヲ軍団えり抜きの精鋭部隊、それにナガスネヒコとタケミカヅチの二人が摂津の渡しから船を使い幾流かの川筋を通り、後世河内王朝の宮城が築かれる難波を越え後に大和川と呼ばれる大河を溯上するという時間的には最短コースで大和大物主のもとへと向かうことになった。
この大河(大和川)の上流でも川筋は幾つかに別れている。後に河川を利用した運搬が盛んになるにつれ、葛城川、飛鳥川、初瀬川など幾流もの川沿いにいろいろな新興勢力が運搬業を基盤として割拠していくのであるがそれはまた別のお話。何はともあれ明日にはタカヒコと大物主の対面が実現する。
ちょうどその夜、大和ではイリヒコが橿原を統べる事となった祝いのための準備が行われていた。イワレヒコのニギハヤヒ暗殺の策謀は準備万端整えられていた。あとは政敵ニギハヤヒを迎えるだけである。一方、ニギハヤヒもその辺はしっかりと見ぬいていた。
大物主の体調不良などを理由に伸ばし伸ばしにしてきたが、ニギハヤヒとして次なる政敵になるであろうタカヒコの登場の前にどうしてもイワレヒコらの策謀を片付けておく必要ができたのである。百戦錬磨の政治家ニギハヤヒとしても敵が二つになってはたまったものではない。
まずは、イワレヒコらの策謀に乗った振りをして、彼ら一族を大和の地から退ける大義名分を手にいれることにしたのだ。そのためにウカシ兄弟をはじめとする地元の勢力にもわたりをつけている。彼らの兵力を使い宴を混乱させ、一気にイワレヒコ一族を叩き潰す魂胆である。祝宴は明日の正午に予定されているイワレヒコからイリヒコへの代替わりのための儀式の後に行われる手はずになっている。
ここはニギハヤヒの執務室である。 ニギハヤヒは常陸のアメノコヤネと二人で今後の方策を練っていた。コヤネは、オオナンジの大軍が明石川下流に向かって襲ってきたことを確認するやいなや、ナガスネヒコとミカヅチの負けを読み、彼らを放置したまま住吉の船隊を河内潟へ向かわせ枚方まわりで磯城纒向のニギハヤヒの下へと戻ってきていたのである。
住吉の船隊をそのままにしておいては、ナガスネヒコらが敗れたとき、船隊まるまるをオオナンジらに奪われてしまうと考えての措置である。たとえオオナンジの軍が加勢しようと剛勇でなるナガスネヒコとミカヅチが簡単に敗れたり捕らわれたりするわけはないと思っていたのだ。
ニギハヤヒには、タカヒコとナガスネヒコらの間で戦いがはじまったとだけ伝えた。負けるだろうという予測はあえて述べなかった。なぜならここからが彼と常陸をニギハヤヒに高く売りつける正念場だからだ。コヤネは彼だけしかしらない大和への最速ルートを握っていた。
それは後の淀川つまり枚方の津を回る道筋であった。葦の密生するこのルートは、先に開けた大和川流域にくらべてまだまだ未開発のルートでもあったが水量によっては表玄関である大和川よりも早く奈良盆地に辿り着ける。
河内、難波津が開けるにつれ枚方、楠葉から生駒そして奈良盆地に抜けるこのルートは、河内王朝の政策にも乗って急速に発展することになる。後に、中臣氏の祖と崇められるアメノコヤネはここに祀られることになる。この地域にいち早く目をつけたコヤネの先見性を表しているのだった。
ちょうどお祭りの山車や太鼓屋台のような感じである。車輪部を取り外せば御輿のように人力で担げたり、そのまま船にも乗せられる優れものであった。銅を叩いて薄く伸ばしたものを屋根や壁に貼り付けているので、ちょっとした矢の攻撃にはびくともしないようだった。その室内は大人が五人は向かい合って座れるようになっており、移動作戦本部にもなる。タカヒコはその室内で伊和大神から播磨合戦の様子、その戦い方、その後の国内統治、日矛との交渉などを、微に入り細に渡り質問した。
しかしこの便利な乗り物も大きな川などを渡るときは大変である。船に載せることができるとはいってもその作業には時間がかかるのである。今は大物主の下へ急がなくてはならない。オオナンジは今晩をここで過ごすことにして、200の軍を四つに分けた。100人とオオナンジ自慢の戦車は留守部隊として播磨へと戻ることになり、残りの半分とナガスネヒコらが率いていた騎馬隊を抑えとして摂津の渡しに残し、残りを陸路から別働隊として大和へ向かわせた。
タカヒコと彼が出雲から率いてきた加茂の民、オオナンジとアシハラシコヲ軍団えり抜きの精鋭部隊、それにナガスネヒコとタケミカヅチの二人が摂津の渡しから船を使い幾流かの川筋を通り、後世河内王朝の宮城が築かれる難波を越え後に大和川と呼ばれる大河を溯上するという時間的には最短コースで大和大物主のもとへと向かうことになった。
この大河(大和川)の上流でも川筋は幾つかに別れている。後に河川を利用した運搬が盛んになるにつれ、葛城川、飛鳥川、初瀬川など幾流もの川沿いにいろいろな新興勢力が運搬業を基盤として割拠していくのであるがそれはまた別のお話。何はともあれ明日にはタカヒコと大物主の対面が実現する。
ちょうどその夜、大和ではイリヒコが橿原を統べる事となった祝いのための準備が行われていた。イワレヒコのニギハヤヒ暗殺の策謀は準備万端整えられていた。あとは政敵ニギハヤヒを迎えるだけである。一方、ニギハヤヒもその辺はしっかりと見ぬいていた。
大物主の体調不良などを理由に伸ばし伸ばしにしてきたが、ニギハヤヒとして次なる政敵になるであろうタカヒコの登場の前にどうしてもイワレヒコらの策謀を片付けておく必要ができたのである。百戦錬磨の政治家ニギハヤヒとしても敵が二つになってはたまったものではない。
まずは、イワレヒコらの策謀に乗った振りをして、彼ら一族を大和の地から退ける大義名分を手にいれることにしたのだ。そのためにウカシ兄弟をはじめとする地元の勢力にもわたりをつけている。彼らの兵力を使い宴を混乱させ、一気にイワレヒコ一族を叩き潰す魂胆である。祝宴は明日の正午に予定されているイワレヒコからイリヒコへの代替わりのための儀式の後に行われる手はずになっている。
ここはニギハヤヒの執務室である。 ニギハヤヒは常陸のアメノコヤネと二人で今後の方策を練っていた。コヤネは、オオナンジの大軍が明石川下流に向かって襲ってきたことを確認するやいなや、ナガスネヒコとミカヅチの負けを読み、彼らを放置したまま住吉の船隊を河内潟へ向かわせ枚方まわりで磯城纒向のニギハヤヒの下へと戻ってきていたのである。
住吉の船隊をそのままにしておいては、ナガスネヒコらが敗れたとき、船隊まるまるをオオナンジらに奪われてしまうと考えての措置である。たとえオオナンジの軍が加勢しようと剛勇でなるナガスネヒコとミカヅチが簡単に敗れたり捕らわれたりするわけはないと思っていたのだ。
ニギハヤヒには、タカヒコとナガスネヒコらの間で戦いがはじまったとだけ伝えた。負けるだろうという予測はあえて述べなかった。なぜならここからが彼と常陸をニギハヤヒに高く売りつける正念場だからだ。コヤネは彼だけしかしらない大和への最速ルートを握っていた。
それは後の淀川つまり枚方の津を回る道筋であった。葦の密生するこのルートは、先に開けた大和川流域にくらべてまだまだ未開発のルートでもあったが水量によっては表玄関である大和川よりも早く奈良盆地に辿り着ける。
河内、難波津が開けるにつれ枚方、楠葉から生駒そして奈良盆地に抜けるこのルートは、河内王朝の政策にも乗って急速に発展することになる。後に、中臣氏の祖と崇められるアメノコヤネはここに祀られることになる。この地域にいち早く目をつけたコヤネの先見性を表しているのだった。
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