崇神朝そしてヤマトタケルの謎

桜小径

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崇神朝の謎7

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以下いつもの如くトンデモ妄想をしてみよう。タケルは尾張氏に草薙の剣を奪われたのだ。だから近江には持っていけなかったのではないだろうか?物部氏は後世軍事氏族として石上神宮をはじめとした武器祭祀をつかさどる氏族である。タケルの死は、尾張氏ひいては同族の物部氏がタケルに変わって朝廷の武力の象徴となったことを指し示しているのだ。何のためか?吉備王権がそのまま崇神朝になることを阻むためである。ヤマト盆地のもともとの王権であった欠史八代の王朝を実質的に支えていたと見られる物部氏によるタケルによって象徴される吉備・播磨王権の勢力伸張阻止であったのではないだろうか?もしくは、草薙の剣と天叢雲剣は本来別物であって、天叢雲に象徴される出雲系豪族に代わり、草薙に象徴される尾張・物部系豪族に「キングメーカー」としての権力が移動したことを表しているのかもしれない。やっかいな敵である出雲タケル=タケミナカタ=最後の大国主の系統にトドメをさしたはずのタケルを隠し、フツヌシという物部氏が祭祀する神をタケルの変わりに国譲りに登場させたのだ。


藤原氏がタケミカヅチという、自分たちの支配地の神をアピールしたことからもそれは伺えるのではないだろうか?タケミカヅチとはもともと常陸の地方神であったのを「剣の神」=「武神」として祀り直し(とはいっても、記紀の編纂の頃には常陸も名だたる鉄産地であり、地方神としてのタケミカヅチにも剣の神としての神格がもともとからあったのかもしれない。)、朝廷の軍事の守護神とされた神である。この神はある一定の氏族の祖先神ではない。系譜主義が貫かれている記紀神話に登場し、しかも活躍する神としては異例の存在なのだ。


逆から考えると、この神に対する祭祀権をもつもの=朝廷の軍事を牛耳るものなのである。そして、同じく軍神フツヌシを擁して東国支配の尖兵となった物部氏とともに常陸の国に蟠距した中臣氏後の藤原氏こそ、その役目(=軍権支配)を負うものという、実質的開祖不比等の意向が、新たなる軍神建御雷を産み「国譲り神話」に華々しく登場させたのであろう。建御雷とフツヌシの挿入も出雲神話が実像と離れた形で巨大したことの原因の一つでもあろう。なんてことのない辺境の王を倒しても建御雷らに栄光は輝かない。


天津甕星という悪神が東国にいて、これを建御雷が倒したという話もあるそうだが、大きく扱われてはいない。鹿島神宮の縁起だそうだがあまり知られていないのも、そういう事を証明しているのではないだろうか?敵は大きいほうが倒しがいがあるのだ。そして倒した側の栄光はさらに大きなものとなる。「建御雷(タケミカヅチ)」には「武甕槌」というもうひとつの表記がある。天津甕星にも共通する「甕」は神霊の依り代と考えられているが、「甕」に入れるものといえば「水」でありそれは「水鏡」としても使われていたのかもしれない。また、自分の数少ない人生経験の中からの例で申し訳ないのだが、夏、土間に花瓶やバケツといった「甕状」のものを置いていると勝手にはいっている神がいる。それは「蛇(神)」である。もしかすると、各地で祀られている器状のものは「蛇神」を招来するための祭器ではなかったか?とも思えてくる。そして、器状といえば銅鐸もその範疇に入るのかもしれない・・・・。


話が逸れてしまった。元へと戻そう。 武甕槌とは、槌で各地の神(蛇?)の依り代である甕を壊していく役割を担っていたのかもしれない。相手の崇める神を壊すこと、それは戦いを意味しているのではないだろうか?もちろん神話の上での喩え話の解釈にすぎない。また軍神、武神の祭祀権を獲得するということは、朝廷の軍事権の獲得にも通じるのである。建御雷を祀る春日大社の祭祀権が春日氏(大?多?氏)から藤原氏に移動しているのも軍権が移動したことを表しているのではないか?古事記を記したとされる太安万侶の父(または本人?)は蝦夷征伐にも参加していたらしい。さらにこの政治闘争勝者である大伴氏と尾張氏(物部氏)が支える大和の新しい大王により、ヤマトタケルの王朝の始祖的な神格とその系譜は尾張氏の女婿として組み込まれたのではないだろうか?


草薙の剣は熱田神宮に収められている。草薙の剣は出雲から国を継承したという証であり、草薙の剣を王位継承権のレガリアとしていたタケルの崇神朝の崩壊を意味するのではないか?後の世でいえば三種の神器を奪われたのと同じなのだ。タケルの兄オオウスの家系が播磨でも吉備でもなく、尾張と美濃の豪族として後々まで続いていくのも、尾張氏への屈服を意味しているのかもしれない。


熱田神宮の縁起では、記紀には出てこない「武稲種」(ちなみにミヤズヒメの兄である)という尾張氏の祖先がタケルの東国征伐に随行することになっている。逆にこちらには大伴武日の名は出てこない。この大伴氏と尾張氏がでてきたり出てこなかったりするあたり、吉備武彦以外の二人の名は後世に挿入されたという裏返しではないかとも思う。となれば、尾張氏と同族であるミヤズ姫と弟橘姫の挿話さえもアトヅケ伝承に思えてくる。


ヤマトタケルとその直系の子孫に大王たる素質がなくなるという事を草薙の剣をタケルが手放したこと(実際は奪われたのか?)で表現しているのではないだろうか?草薙の剣をもたないタケルの子孫の継承権の否定にもつながっていくのではないだろうか?書紀にはヤマトタケルは「尾張の宮簀媛のところに長く留まった」と記載されているが、近江の伊吹山で病を得た後、長くともに暮らした妻の家に立ち寄らず、尾張からおそらくは海路で伊勢へとわたっている。まるで、逃げ出すように・・・・。尾張氏にとって大事だったのは、タケル本人そして彼との婚姻よりも、タケルの持つ正統性だったのではないだろうか?ヤマトタケルの最後の敵で、タケルに祟りを成した「近江の伊吹山の山の神」とは、「近江の志賀(滋賀?)の高穴穂の宮に天の下をお治めになった天皇」つまり稚足彦(ワカタラシヒコ)こと成務天皇をその人を指すのかもしれない。もしくはそれを操った武内宿禰さらには後の大和朝廷に深く関与する近江の豪族(息長氏など)を指し示しているような気もする。というのは、トンデモであろうか??


いずれにしても、タケルおよび吉備・播磨王権にとって近江方面が敵対勢力のある方向、鬼門であることを示唆しているような気がする。そして近江と連携してタケルを追い詰めたのが尾張といった感じであろうか?尾張からヤマトへ戻る途中、伊勢神宮に立ち寄り、俘囚(帰属した蝦夷で特殊技能を持つものが多かったとされている。太刀作りなど。)を献上し、父・景行には、吉備武彦(タケルにとっは最も信用の置ける部下であり、同族である)に自分の命が最後を迎えたであろうことと、死にたいしての覚悟と父に尽せなくなったことに対しての悔恨を、自らの代わりに奏上させている。やはり最後に頼るのは母方の一族である。


神風の吹きすさぶ伊勢の国能褒野で初期大和朝廷最大の英雄ヤマトタケルは最後を迎えた。陵に葬られた彼の魂は白鳥となって倭つまり奈良盆地の琴弾原まで飛んでいった。さらに白鳥はそこから河内の古市へと向かう。伊勢・河内・奈良の三箇所にタケルの陵は作られた。名を「白鳥陵」という。時に、三十歳という短く、戦いばかりの一生だったと言っていいだろう。その人生で出会った女性たちとヤマトタケルの恋が語られる歌謡は、戦いに明け暮れたタケルの人生に対するせめてもの鎮魂なのかもしれない。
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