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崇神朝の謎4
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さて、そろそろトンデモ世界から戻ろう。 景行天皇と八坂入媛の間には数多くの御子ができる。そして彼・彼女たちは各地の豪族と婚姻を結び、崇神朝そしてそれに続く河内王朝の王権下で各地方に階層を形作っていくのである。しかしそれらの婚姻は崇神朝の武威が知れ渡ってはじめて相手が受け入れるという類のものである。そのためか景行天皇は熊襲征伐を主として各地を転戦する。景行天皇自ら熊襲征伐のため九州に赴いたときのことである。神夏磯媛をはじめとする九州各地の熊襲部族を従えたり、討ち果たしたりした後、三毛の国で倒れたクヌギ巨木、それも九百七十丈もの長さの巨木を発見することになる。
倒れた巨木は何を意味するのか? 巨木は北九州のそれまでの王権の境界線を象徴しているのではないだろうか?以前スサノオの御子神のイソタケルが木を植えて全国を旅したことを国境を定めてまわったのではないかと推測したことがある。巨木はそれだけ大きな勢力同士の境を指し示すものではないだろうか?景行天皇による熊襲征伐によって北部九州を従えたということを象徴する挿話のような気がする。
これは丹後・丹波・但馬の王権や北陸道の王権の悲願であった北九州の王権の既得権益である大陸および南韓との交易権の奪取に他ならないのではないだろうか?崇神朝が西日本各地の王権を統合し結成された最大の目標が達成された瞬間なのである。ということは、崇神朝の初期の役目は、この時点でほぼ完了したのである。
ここから先は残党の掃討と、崇神朝内での勢力争いとその粛清が主になる。その中で最も早く次ぎの動きを起こしたのは武内宿禰であった。彼は北陸道を巡察するという名目を得て、北陸道および丹後・丹波・但馬地域そして関東へ繋ぎを取り、崇神朝の皇統(この時点ではヤマトタケルを輩出している吉備・播磨王権である)の弱体化を狙って動きだしたのである。
次期大王になるはずのヤマトタケルは彼と彼の策謀にのったものたちの動きにより、崇神朝内の自分に刃向かう恐れのある勢力の粛清をすすめられなくなったのだ。一見大躍進にも見えるヤマトタケルの各地への出兵は吉備・播磨王権の経済的な弱体化を推し進めることになるのである。
ヤマトタケルは、播磨の地で生まれた。相当な難産だったと、地元の日岡神社の伝承は語っている。あまりの難産に、播磨稲日大郎姫や景行のお付きの者たちは、日岡の神に子供が無事誕生することを願い、物忌み(○○断ち)をして願をかけたということだ。飲食を最小限にし、穢れを避けるため出歩くのを極力控えたりしたそうだ。この物忌みの風習は長く日岡に残っていたということだ。例えば出歩くときに物音を立てないように戸口に藁をかませて、外にでたことを日岡の神に気付かれないようにしてみたり、調理に使う刃物を使わないようにしまったりして物忌みに勤めたらしい。
通常、御正月などにそういった物忌み(火をつかわないなど)をする場合が多いが、日岡ではタケルの誕生に因むことだと伝えられていたらしい。しかし「ヤマトタケル(コウス・オグナも)」という名は「播磨国風土記」にはない。ただ景行天皇の御子をこの地で産み落とした、とだけ記されているのだ。もちろんその子がどうなったかは風土記は語らない。なんとも歯切れの悪い顛末である。
蛇足になるかもしれないが、播磨稲日大郎姫の最後の場面を紹介しよう。
【年を経て、播磨稲日大郎姫は城宮にて崩御された。墳墓を日岡に造成し、そこへご遺体を迎えようと、遺体を運ぶ一行が加古川を渡ろうとしたとき、「大きなつむじ風」が遺体を川の中へと吹き飛ばしてしまった。遺体はいくら探しても見つからない。僅かに彼女が使っていた領布と櫛箱が見つかっただけであった。仕方がないので、日岡の墓には領布と櫛箱を収めるた。だから播磨稲日大郎姫の墓は別名「ヒレ墓」という。播磨稲日大郎姫の死を大変悲しんだ景行天皇は、遺体が消えた加古川で取れた魚をたべないと宣言された。】
大きなつむじ風に遺体が飛ばされて消えてしまったというところに風葬に繋がるようなニュアンスも感じられる。
景行天皇は播磨稲日大郎姫の遺体を食べてしまったであろう加古川の魚を食べないと宣言しているのだ。二人の恋愛の深さは政略を越えていたのかもしれない。その深い愛の結晶がヤマトタケル兄弟なのだ。後にオオウスが美濃入りしたとき父である景行天皇の見初めた女性を横取りしたという話もあるが、天皇は罰を与えるのを避けている。播磨稲日大郎姫の息子だったからかもしれない。
伝ヒレ墓は現在も日岡の地に残っているらしい。ちなみに前方後円墳だそうだがホントかどうかは謎である。日岡一帯は古墳密集地であり、漢代式青銅鏡である「三角縁三神ニ獣鏡」(魏代以降の三角縁神獣鏡ではない)もこの一帯から出土している。相当大きな勢力があったらしく、中規模古墳遺跡がかなりあったらしいが、第二次世界大戦での空爆にあい、ほとんどが破壊されてしまったらしい。
播磨は、古代において吉備地方・山陰地方・四国瀬戸内と畿内王権の狭間にあり、交通の要衝であり、畿内王権の経済基盤でもあった。第二次世界大戦の空爆がなければもっと面白いものが発掘されていたかもしれないと思うと、少し残念である。もちろん歴史上、山陽道という列島の動脈の一つの入り口にあたる播磨地方は何度も港の造成など大規模土木工事が施されているため、古代の姿が見え難いのも実情である。中世以降の工事による地形変化は解っているだけでも結構広く大きな範囲で行われている。
さて、ヤマトタケルの話に入ろう。まずは古事記から探ってみよう。古事記に記されたヤマトタケルの人生を一文字で言い表すなら「哀」ではないだろうか?双子の兄を殺してしまうことにより、父である景行天皇に恐れられ西国征伐に狩り出されることとなる。兄を殺すことになった事件は景行がタケルに兄を呼びに行かせたことに起因している。有名な話ではあるが簡単に記してみよう。
【朝夕の食膳にでてこないオオウスに怒った景行天皇は、弟のタケルに兄であるオオウスを呼びに行かせ、食膳にでてくるように教え諭しなさいと命じた。その日から五日たってもオオウスが食膳にでてこないのを怪しんだ景行天皇は、タケルに対してまだ言いつけを実行していないのではないか?と不審に思い、タケルにそれを問いただした。タケルは兄を待ち伏せして捕まえ体を引き千切って捨ててしまったことを告白した。その話を聞いた景行天皇はタケルの荒っぽい性格を恐れて西国征伐に向かわせることにした】
といった記述が、古事記では繰り広げられている。なんと哀しい家族の話だろうか?母である播磨稲日大郎姫を失ったためか景行一家は家族の様相を全く呈していない。肉親への愛情など全く感じさせない所業である。タケルだけに言えることではない。景行は自らオオウスに教え諭すことを放棄しているし、オオウスが食膳に出てこないことは現代風にいえば部屋への引きこもりといった感じがする。そしてとどめはタケルの残酷きわまりない対応であり、それにたいして景行はまたもや教え諭すことをせずにタケルを西国に追いやっているのだ。
何故だろう。大王の一家を説明する記述にしてはむごすぎる内容なのだ。ひとつ注意したい場面がこの説話には含まれている。「食膳を共にしない」という場面である。 食膳を共にすることは、外交的・政治的には、服属儀礼の一環なのである。大国主が国譲りをしたときも、天津神一行を鱸の料理でもてなしている。いわゆる天の饗(あまのまぐない)である。もちろん景行一家が本当に家族なら食膳饗応=服属儀礼という当て込みはできない。
しかしである。今まで見てきたように、タケル兄弟と景行はお互いが家族ではあってもそれぞれ違う勢力の代表者であると考えてみればどうだろう?タケル兄弟は吉備王権の代表者であり、景行天皇は、崇神朝(丹後・丹波・但馬・北陸道・大和盆地)の代表者であるということだ。双子の兄弟の一方(オオウス)は、景行に服属しないという意味で食膳に参加しなかったのであり、タケルは代表権・決定権のない吉備・播磨王権からの客であるとみれば、この家族の関係が説明できるのではないだろうか?タケルだけが参加したということで、吉備・播磨王権が崇神朝に敵対しない旨を表現し、一方で兄の不参加は崇神朝に服属したわけではなく、あくまで同等の同盟関係であることを主張しているのではないだろうか?
つまりタケルがオオウスを殺したというのは詐術であり、本当はオオウス自体が景行の宮である大和磯城纒向日代宮にやってこなかった事を指しているのではないだろうか?吉備播磨王権にとっての王は兄オオウスであり、タケルは崇神朝に差出された人質だったのかもしれない。その性情が荒く崇神朝ではもてあますことを観越しての吉備播磨王権側の罠だったのかもしれない。崇神朝というひとつの政権に参画することは認めても崇神朝というより景行の出身母体である丹後・丹波・但馬の下風に着くということを吉備・播磨王権側は躊躇していたのかもしれない。
事実、オオウスはタケルの出征後に再び歴史に登場する。美濃の媛を巡り父景行と争っているのだ。古事記では順序的に美濃からの嫁取りの後にオオウス殺しの事件が記されているが熊襲征伐に旅だったタケルの年齢は日本書紀によると景行27年=16歳 であり、双子のオオウスも同年のはずである。とするとそれより以前に行われたはずの美濃の嫁取りの段階ではまだまだ子供とっいてもいい年齢であり、父の嫁になるはずの女性を横取りするなど不可能ではなかったか?書紀の年代によれば、播磨稲日大郎姫を娶ったのが、景行2年、美濃の嫁取り事件は景行4年である。せいぜい2歳か3歳である。また次ぎに記載されている熊襲征伐の年月(景行12年)の直前に美濃事件が起こったとしても、10歳程度である。例え10歳での嫁取りが可能だったとしてもそれがオオウスの意思によって行われたとは思いがたい。吉備王権と崇神朝の政治的対立を美濃の嫁取り事件によって象徴しているだけなのではないだろうか?
タケルは景行が7年掛かった熊襲征伐をたったの1年で完了している。瀬戸内を眼前に控え、作物も豊富に取れる吉備播磨王権の後押しがあって初めて可能な戦争ではなかったか?景行自身による征伐は、播磨稲日大郎姫を娶り、表面的には合併したとはいえ背後に吉備王権という「獅子身中の虫」を意識しての熊襲征伐だった。しかしヤマトタケルはその吉備播磨王権の出身であるが故に吉備王権の反乱を考えなくていいどころか、吉備王権が主体となっての熊襲征伐だったのではないだろうか?だからこそ、たった1年で熊襲を討ちとることができたのではないだろうか?
吉備の軍勢主体にオオウスと縁の深い美濃の弓名人弟彦公とその配下の尾張系氏族の混成軍であったヤマトタケル率いる一軍こそ、吉備津彦以来の吉備播磨王権中の最大最強の軍隊であり、それは崇神朝内部で考えても最強・最大の軍勢だったのではないだろうか?たった1年の強行軍で筑紫の島から取って帰したヤマトタケルが征西と帰朝を急いだ背景には、自分たち最強軍が留守の間に吉備・播磨王権が崇神朝によって壟断され、瓦解するのを恐れたからではないだろうか?
ヤマトタケルに熊襲討伐をさせたのも、吉備播磨の経済力を疲弊させようとの魂胆があってのものではなかったか?タケルの率いた熊襲討伐軍は吉備・播磨に美濃・尾張によって形成されている。農作物の育てやすい広大な平野の経済力を背景にした軍である。強くて当然の軍隊ではなかったか?
九州から7年かけて交易権を奪った景行の崇神朝にとって、倭国統一王朝成立へ向かっての次なる一番の邪魔者は、吉備播磨平野と濃尾平野の経済力を支配する両地方に割拠する王たちであったことは想像に堅くない。崇神朝を磐石にするためには、外敵の掃討は勿論のこと、内部の粛清が大事なのである。偉い王様があちこちにいることは、とても不都合なことであり、その最大派閥が吉備播磨平野と濃尾平野の経済力を擁する王権だったのではないだろうか?まさに、「狡兎(熊襲・土ぐも)死して走狗(ヤマトタケル・吉備播磨王権)煮らるる」である。
荒っぽい性格だったはずのタケルがこうもおとなしく景行天皇の命に従い西へ東へと討伐軍を起こし崇神朝のために尽しした理由は、自らが景行の次ぎの崇神朝の大王になることが当然だと認識していたからに他ならない。話しはそれるが、古事記の中のヤマトタケルは荒っぽく残酷な性格から、何時の間にか英雄になってしまっている。まるでスサノオの如きトリックスターである。スサノオとヤマトタケルの共通点は他にもあるが、それは後述することにしたい。
実際、景行までの崇神朝の大王は各地方王権の王族の女を妻とした崇神朝の前大王の息子が次ぎの大王となっているのである。今度は吉備・播磨の番、つまりヤマトタケルもしくはオオウスいずれかが崇神朝4代目の大王につくはずであったのだ。
古事記に記載されて、書紀には記載されてない記述として「出雲タケル征伐」がある。
【やつめさす いずもたけるが はけるたち つづらさはまき さみなしにあはれ】
この歌は、出雲タケルを哀れんでいるが、実はヤマトタケルの最後を示唆しているのではないかとも思う。まさに哀れである。何故に私がそう思うかというと、この歌そっくりな歌が、書紀では崇神時代に出雲神宝を管理していた振根・飯入根兄弟の戦いとして歌われているのである。以下がそれである。
【やくもたつ いずもたけるが はけるたち つづらさはまき さみなしにあはれ】
どうだろう?全く同じと言ってよい歌ではないだろうか?要は、両方とも「だましうち」なのである。書紀では出雲兄弟が神宝を巡った争いの結果に歌われている歌である。ヤマトタケルにも兄弟がたくさんいる。書紀の記述によれば景行の血を引くヤマトタケルの兄弟はなんと80人である。80人の兄弟といえば、大国主の兄弟も80人である。この人数の符合は何を意味しているのだろうか??
倒れた巨木は何を意味するのか? 巨木は北九州のそれまでの王権の境界線を象徴しているのではないだろうか?以前スサノオの御子神のイソタケルが木を植えて全国を旅したことを国境を定めてまわったのではないかと推測したことがある。巨木はそれだけ大きな勢力同士の境を指し示すものではないだろうか?景行天皇による熊襲征伐によって北部九州を従えたということを象徴する挿話のような気がする。
これは丹後・丹波・但馬の王権や北陸道の王権の悲願であった北九州の王権の既得権益である大陸および南韓との交易権の奪取に他ならないのではないだろうか?崇神朝が西日本各地の王権を統合し結成された最大の目標が達成された瞬間なのである。ということは、崇神朝の初期の役目は、この時点でほぼ完了したのである。
ここから先は残党の掃討と、崇神朝内での勢力争いとその粛清が主になる。その中で最も早く次ぎの動きを起こしたのは武内宿禰であった。彼は北陸道を巡察するという名目を得て、北陸道および丹後・丹波・但馬地域そして関東へ繋ぎを取り、崇神朝の皇統(この時点ではヤマトタケルを輩出している吉備・播磨王権である)の弱体化を狙って動きだしたのである。
次期大王になるはずのヤマトタケルは彼と彼の策謀にのったものたちの動きにより、崇神朝内の自分に刃向かう恐れのある勢力の粛清をすすめられなくなったのだ。一見大躍進にも見えるヤマトタケルの各地への出兵は吉備・播磨王権の経済的な弱体化を推し進めることになるのである。
ヤマトタケルは、播磨の地で生まれた。相当な難産だったと、地元の日岡神社の伝承は語っている。あまりの難産に、播磨稲日大郎姫や景行のお付きの者たちは、日岡の神に子供が無事誕生することを願い、物忌み(○○断ち)をして願をかけたということだ。飲食を最小限にし、穢れを避けるため出歩くのを極力控えたりしたそうだ。この物忌みの風習は長く日岡に残っていたということだ。例えば出歩くときに物音を立てないように戸口に藁をかませて、外にでたことを日岡の神に気付かれないようにしてみたり、調理に使う刃物を使わないようにしまったりして物忌みに勤めたらしい。
通常、御正月などにそういった物忌み(火をつかわないなど)をする場合が多いが、日岡ではタケルの誕生に因むことだと伝えられていたらしい。しかし「ヤマトタケル(コウス・オグナも)」という名は「播磨国風土記」にはない。ただ景行天皇の御子をこの地で産み落とした、とだけ記されているのだ。もちろんその子がどうなったかは風土記は語らない。なんとも歯切れの悪い顛末である。
蛇足になるかもしれないが、播磨稲日大郎姫の最後の場面を紹介しよう。
【年を経て、播磨稲日大郎姫は城宮にて崩御された。墳墓を日岡に造成し、そこへご遺体を迎えようと、遺体を運ぶ一行が加古川を渡ろうとしたとき、「大きなつむじ風」が遺体を川の中へと吹き飛ばしてしまった。遺体はいくら探しても見つからない。僅かに彼女が使っていた領布と櫛箱が見つかっただけであった。仕方がないので、日岡の墓には領布と櫛箱を収めるた。だから播磨稲日大郎姫の墓は別名「ヒレ墓」という。播磨稲日大郎姫の死を大変悲しんだ景行天皇は、遺体が消えた加古川で取れた魚をたべないと宣言された。】
大きなつむじ風に遺体が飛ばされて消えてしまったというところに風葬に繋がるようなニュアンスも感じられる。
景行天皇は播磨稲日大郎姫の遺体を食べてしまったであろう加古川の魚を食べないと宣言しているのだ。二人の恋愛の深さは政略を越えていたのかもしれない。その深い愛の結晶がヤマトタケル兄弟なのだ。後にオオウスが美濃入りしたとき父である景行天皇の見初めた女性を横取りしたという話もあるが、天皇は罰を与えるのを避けている。播磨稲日大郎姫の息子だったからかもしれない。
伝ヒレ墓は現在も日岡の地に残っているらしい。ちなみに前方後円墳だそうだがホントかどうかは謎である。日岡一帯は古墳密集地であり、漢代式青銅鏡である「三角縁三神ニ獣鏡」(魏代以降の三角縁神獣鏡ではない)もこの一帯から出土している。相当大きな勢力があったらしく、中規模古墳遺跡がかなりあったらしいが、第二次世界大戦での空爆にあい、ほとんどが破壊されてしまったらしい。
播磨は、古代において吉備地方・山陰地方・四国瀬戸内と畿内王権の狭間にあり、交通の要衝であり、畿内王権の経済基盤でもあった。第二次世界大戦の空爆がなければもっと面白いものが発掘されていたかもしれないと思うと、少し残念である。もちろん歴史上、山陽道という列島の動脈の一つの入り口にあたる播磨地方は何度も港の造成など大規模土木工事が施されているため、古代の姿が見え難いのも実情である。中世以降の工事による地形変化は解っているだけでも結構広く大きな範囲で行われている。
さて、ヤマトタケルの話に入ろう。まずは古事記から探ってみよう。古事記に記されたヤマトタケルの人生を一文字で言い表すなら「哀」ではないだろうか?双子の兄を殺してしまうことにより、父である景行天皇に恐れられ西国征伐に狩り出されることとなる。兄を殺すことになった事件は景行がタケルに兄を呼びに行かせたことに起因している。有名な話ではあるが簡単に記してみよう。
【朝夕の食膳にでてこないオオウスに怒った景行天皇は、弟のタケルに兄であるオオウスを呼びに行かせ、食膳にでてくるように教え諭しなさいと命じた。その日から五日たってもオオウスが食膳にでてこないのを怪しんだ景行天皇は、タケルに対してまだ言いつけを実行していないのではないか?と不審に思い、タケルにそれを問いただした。タケルは兄を待ち伏せして捕まえ体を引き千切って捨ててしまったことを告白した。その話を聞いた景行天皇はタケルの荒っぽい性格を恐れて西国征伐に向かわせることにした】
といった記述が、古事記では繰り広げられている。なんと哀しい家族の話だろうか?母である播磨稲日大郎姫を失ったためか景行一家は家族の様相を全く呈していない。肉親への愛情など全く感じさせない所業である。タケルだけに言えることではない。景行は自らオオウスに教え諭すことを放棄しているし、オオウスが食膳に出てこないことは現代風にいえば部屋への引きこもりといった感じがする。そしてとどめはタケルの残酷きわまりない対応であり、それにたいして景行はまたもや教え諭すことをせずにタケルを西国に追いやっているのだ。
何故だろう。大王の一家を説明する記述にしてはむごすぎる内容なのだ。ひとつ注意したい場面がこの説話には含まれている。「食膳を共にしない」という場面である。 食膳を共にすることは、外交的・政治的には、服属儀礼の一環なのである。大国主が国譲りをしたときも、天津神一行を鱸の料理でもてなしている。いわゆる天の饗(あまのまぐない)である。もちろん景行一家が本当に家族なら食膳饗応=服属儀礼という当て込みはできない。
しかしである。今まで見てきたように、タケル兄弟と景行はお互いが家族ではあってもそれぞれ違う勢力の代表者であると考えてみればどうだろう?タケル兄弟は吉備王権の代表者であり、景行天皇は、崇神朝(丹後・丹波・但馬・北陸道・大和盆地)の代表者であるということだ。双子の兄弟の一方(オオウス)は、景行に服属しないという意味で食膳に参加しなかったのであり、タケルは代表権・決定権のない吉備・播磨王権からの客であるとみれば、この家族の関係が説明できるのではないだろうか?タケルだけが参加したということで、吉備・播磨王権が崇神朝に敵対しない旨を表現し、一方で兄の不参加は崇神朝に服属したわけではなく、あくまで同等の同盟関係であることを主張しているのではないだろうか?
つまりタケルがオオウスを殺したというのは詐術であり、本当はオオウス自体が景行の宮である大和磯城纒向日代宮にやってこなかった事を指しているのではないだろうか?吉備播磨王権にとっての王は兄オオウスであり、タケルは崇神朝に差出された人質だったのかもしれない。その性情が荒く崇神朝ではもてあますことを観越しての吉備播磨王権側の罠だったのかもしれない。崇神朝というひとつの政権に参画することは認めても崇神朝というより景行の出身母体である丹後・丹波・但馬の下風に着くということを吉備・播磨王権側は躊躇していたのかもしれない。
事実、オオウスはタケルの出征後に再び歴史に登場する。美濃の媛を巡り父景行と争っているのだ。古事記では順序的に美濃からの嫁取りの後にオオウス殺しの事件が記されているが熊襲征伐に旅だったタケルの年齢は日本書紀によると景行27年=16歳 であり、双子のオオウスも同年のはずである。とするとそれより以前に行われたはずの美濃の嫁取りの段階ではまだまだ子供とっいてもいい年齢であり、父の嫁になるはずの女性を横取りするなど不可能ではなかったか?書紀の年代によれば、播磨稲日大郎姫を娶ったのが、景行2年、美濃の嫁取り事件は景行4年である。せいぜい2歳か3歳である。また次ぎに記載されている熊襲征伐の年月(景行12年)の直前に美濃事件が起こったとしても、10歳程度である。例え10歳での嫁取りが可能だったとしてもそれがオオウスの意思によって行われたとは思いがたい。吉備王権と崇神朝の政治的対立を美濃の嫁取り事件によって象徴しているだけなのではないだろうか?
タケルは景行が7年掛かった熊襲征伐をたったの1年で完了している。瀬戸内を眼前に控え、作物も豊富に取れる吉備播磨王権の後押しがあって初めて可能な戦争ではなかったか?景行自身による征伐は、播磨稲日大郎姫を娶り、表面的には合併したとはいえ背後に吉備王権という「獅子身中の虫」を意識しての熊襲征伐だった。しかしヤマトタケルはその吉備播磨王権の出身であるが故に吉備王権の反乱を考えなくていいどころか、吉備王権が主体となっての熊襲征伐だったのではないだろうか?だからこそ、たった1年で熊襲を討ちとることができたのではないだろうか?
吉備の軍勢主体にオオウスと縁の深い美濃の弓名人弟彦公とその配下の尾張系氏族の混成軍であったヤマトタケル率いる一軍こそ、吉備津彦以来の吉備播磨王権中の最大最強の軍隊であり、それは崇神朝内部で考えても最強・最大の軍勢だったのではないだろうか?たった1年の強行軍で筑紫の島から取って帰したヤマトタケルが征西と帰朝を急いだ背景には、自分たち最強軍が留守の間に吉備・播磨王権が崇神朝によって壟断され、瓦解するのを恐れたからではないだろうか?
ヤマトタケルに熊襲討伐をさせたのも、吉備播磨の経済力を疲弊させようとの魂胆があってのものではなかったか?タケルの率いた熊襲討伐軍は吉備・播磨に美濃・尾張によって形成されている。農作物の育てやすい広大な平野の経済力を背景にした軍である。強くて当然の軍隊ではなかったか?
九州から7年かけて交易権を奪った景行の崇神朝にとって、倭国統一王朝成立へ向かっての次なる一番の邪魔者は、吉備播磨平野と濃尾平野の経済力を支配する両地方に割拠する王たちであったことは想像に堅くない。崇神朝を磐石にするためには、外敵の掃討は勿論のこと、内部の粛清が大事なのである。偉い王様があちこちにいることは、とても不都合なことであり、その最大派閥が吉備播磨平野と濃尾平野の経済力を擁する王権だったのではないだろうか?まさに、「狡兎(熊襲・土ぐも)死して走狗(ヤマトタケル・吉備播磨王権)煮らるる」である。
荒っぽい性格だったはずのタケルがこうもおとなしく景行天皇の命に従い西へ東へと討伐軍を起こし崇神朝のために尽しした理由は、自らが景行の次ぎの崇神朝の大王になることが当然だと認識していたからに他ならない。話しはそれるが、古事記の中のヤマトタケルは荒っぽく残酷な性格から、何時の間にか英雄になってしまっている。まるでスサノオの如きトリックスターである。スサノオとヤマトタケルの共通点は他にもあるが、それは後述することにしたい。
実際、景行までの崇神朝の大王は各地方王権の王族の女を妻とした崇神朝の前大王の息子が次ぎの大王となっているのである。今度は吉備・播磨の番、つまりヤマトタケルもしくはオオウスいずれかが崇神朝4代目の大王につくはずであったのだ。
古事記に記載されて、書紀には記載されてない記述として「出雲タケル征伐」がある。
【やつめさす いずもたけるが はけるたち つづらさはまき さみなしにあはれ】
この歌は、出雲タケルを哀れんでいるが、実はヤマトタケルの最後を示唆しているのではないかとも思う。まさに哀れである。何故に私がそう思うかというと、この歌そっくりな歌が、書紀では崇神時代に出雲神宝を管理していた振根・飯入根兄弟の戦いとして歌われているのである。以下がそれである。
【やくもたつ いずもたけるが はけるたち つづらさはまき さみなしにあはれ】
どうだろう?全く同じと言ってよい歌ではないだろうか?要は、両方とも「だましうち」なのである。書紀では出雲兄弟が神宝を巡った争いの結果に歌われている歌である。ヤマトタケルにも兄弟がたくさんいる。書紀の記述によれば景行の血を引くヤマトタケルの兄弟はなんと80人である。80人の兄弟といえば、大国主の兄弟も80人である。この人数の符合は何を意味しているのだろうか??
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