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崇神朝の謎3

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さて、今回の本題は景行天皇である。 まず播磨風土記の景行天皇の巡幸についての説話を掻い摘んで紹介しようと思う。以下【】内。


【景行天皇が摂津播磨のあたりに狩りに出たとき、美しい女性と出会い一目ぼれしてしまいました。妻問い(プロポーズ)をするために『三種の神器』を身にまとって正装し、『仲人の息長命』とともに都を旅立ちました。道中、摂津の高瀬の川の渡し場で渡し守の小玉に船を出すように命じると、「私は天皇の召使ではない」 と言われ断られてしまいます。「そこをなんとかお頼みします」 と景行天皇は下手に出て、渡し賃として豪華な髪飾りを小玉に与えました。すると、小玉は納得し、景行天皇一行はやっとのことで川を渡ることができました。


その美しい女性の名は播磨稲日大郎姫。 吉備津彦の娘ともキビヒメと和邇氏の間の子とも伝えられています。景行天皇一行が播磨稲日大郎姫の暮らす加古川の東岸(現在の稲美町)にやって来ると、それを知った播磨稲日大郎姫は「私のようなものが、天皇の妻になるなんて恐れ多い」と、播磨灘に浮かぶ小島『南毘都麻(なびつま)』というところ隠れてしまいます。


天皇が播磨稲日大郎姫を探して賀古の松原というところに辿りつくと、一匹の白い犬が南毘都麻の方角をむいて吼えていました。近くに居た者に 「この犬は誰の飼い犬か?」と天皇が聞くと播磨稲日大郎姫の飼い犬だということが解りました。それを聞いた天皇は播磨稲日大郎姫が南毘都麻の小島に隠れていることを知り、「この島に隠し(なびし)愛しい人よ」 と呼びかけ船を出して南毘都麻の小島に播磨稲日大郎姫を迎えにいくと、今度は景行天皇の妻問いを受け入れたのか、播磨稲日大郎姫と景行天皇は仲良く二艘の船を並べ一緒に陸に戻り、賀古の六継の里(加古川流域の里)というところでめでたく結ばれることになりました。


その後、二人は同じく加古川流域の高宮というところを新居に選び、酒蔵や倉庫を築いて暮らしますが、しばらくして城宮(きのみや)というところに移り無事正式な婚儀を結ぶことになります。】


以上の説話は播磨国風土記の賀古の郡に記されているものを略したものである。まず、この説話で注意しなくてはいけない点は、播磨稲日大郎姫と景行天皇の婚姻が妻問い婚の形式で行われていることだ。どういうことかというと、系譜の上では嫁取りであるが、『三種の神器を持参』した上、仲人まで立てたということは、実勢は婿入りであるということと実は同じなのである。しかも通常の近場の通い婚とも違って、二人は酒蔵を作るくらい(新しい酒を醸すには1年はかかりますよね?)なので少なくとも数年間加古川近辺で暮らしているということが分かる。つまりは一時的とはいえ都は播磨にあったといえるのではないかと思われてくるのだ?


そして仲人の息長命といえば、北陸道の入り口近江をバッグにつけた神功皇后の出身氏族でもある息長氏を連想させられる。丹後・丹波・但馬の影響下にあったと思われる景行天皇に北陸道の近江一帯に勢力を持った息長氏の関係者(?)が同行して婚姻を結ぶということは、吉備氏出身の播磨稲日大郎姫と景行の結婚は吉備・播磨勢力と、大和・丹後・丹波・但馬・北陸道勢力の実質的結合をあらわしているのではないか?


もしそうなら、ここで吉備津彦によって開かれた地方勢力であった吉備・播磨王権は実質的に全国王権になったとも考えられると思う。


景行天皇一行が摂津で渡し守ごとき(とはいっても川は国境線の代わりでもあり、渡し守とは後世の関所の代表者のような者、つまり国境警備隊のようなものだったのかもしれませんが)に無礼な態度を取られているところを見ると、この渡し守は大和の王権所属の者ではなかったことが伺えられる。摂津の渡し守が吉備・播磨王権側の人間だったのだとすると大和にとって喉元にあたる摂津まで吉備の影響下にあったということなのかも知れない。しかも渡し守のとった態度は、大和の大王を大した事がないと思ってないような振るまいである。


大和と吉備の王権を比べた場合、景行の即位時点では吉備の方が強大な勢力を誇っていたのかも知れないと思っている。それは、配下である(?)息長命の前で、渡し守にこれだけ無礼な態度(古代においてこれが無礼かどうかは疑問の残ることですが)を取られても尚、播磨稲日大郎姫を必要としたのは、吉備王権の政治的取り込みが景行天皇にとって何より必要なことであったことを表していると思われるからである。


吉備播磨王権と同化した景行天皇時代の崇神朝は、北陸道と後に畿内と呼ばれるほぼ全域に中国地方ほぼ全域を加えた巨大王権へと成長していくことになる。この巨大な王権の経済力と軍事力を背景として初めて、当時の崇神朝にとって目の上のたんこぶであった北九州への本格的侵攻と、出雲>大和を追われてもなお崇神朝に抵抗を続ける銅鐸祭祀出雲族の末裔たちの移動先であった東海以東の諸国への侵略が可能になったのではないだろうか?そのため「塞ノ神」として天照大神を伊勢の地に置いたのではないか?


垂仁時代に、天照の御魂が倭姫とともに伊勢に遷されている。これは、伊勢は大和を追われ東海地方に移住した銅鐸出雲族と崇神朝の境界線を示しているのではないかと思っている。


「三遠式銅鐸」という一般に「見る銅鐸」として有名な巨大化・美麗化した銅鐸がある。この巨大化と美麗化も崇神朝によって迫害された出雲族の故地への思いが込められてのことかも知れないと思っている。この銅鐸がその名の示すとおり三州や遠州でよく見られる形式の銅鐸であるのも、伊勢・尾張の辺りが畿内王権と東海以東勢力の境であり、伊勢湾が重要な交易基地であったことを表しているような気もするのだ(かなりいい加減な感傷です)。


「神風の伊勢」という言葉がある。(kituno_iさんありがとう!すっかり「ど忘れ」していました。神風は伊勢に掛かる枕詞です)伊勢の国名の由来は「伊勢津彦」という神の名によるものなのだ。この神は大国主の御子として、その名を伊勢国風土記と播磨国風土記に止めている(Yahooの大国主トピック参照してくださいnunakawahimeさんよりの情報です)。同じく大国主の御子として有名なタケミナカタの鎮座する信濃の国では風の神として今尚神事が連綿と続いている神である。(一部ではタケミナカタの異名とも???)そして、伊勢といえば、ヤマトタケルの東国征伐の出発地でもあり到着地でもある。


これらのことから、伊勢は銅鐸出雲族と崇神朝の国境地帯であったこと、そしてそこには天照に象徴される崇神朝の軍隊が配置されていたことを推測してもいいのではないだろうか?


景行天皇は、播磨稲日大郎姫との間に二人の男子を得る。双子である。兄の名はオオウスといい、後美濃に入ることになる。弟の名はコウス、長じての名をヤマトオグナ、後にヤマトタケル(日本武尊)と名乗ることになる古代史上最大にして最強の英雄である。彼は播磨で生を受けたのである。


播磨風土記によれば、播磨稲日大郎姫はのちに播磨の城宮の地で生涯を終えている。「年を経て」とあるので長生きはしたようだ。とすると熊襲征伐など出征続きの景行天皇のもとで養育されたとは考え難い。母である播磨稲日大郎姫のもとで青年期を迎えたと考えたほうがいいのではないだろうか?吉備氏と崇神朝の血を引き播磨で育ったということは、ヤマトタケルの背後には必ず吉備王権の存在があったと考えていいだろう。四道将軍の中でも抜群の働きをした吉備津彦の後裔でもある。


北陸道、近江越前あたりを本拠とした大彦をバックにした垂仁天皇、丹波、丹後、但馬を本拠とした丹波道主王ちぬをバックとした景行天皇、吉備・播磨を本拠とした吉備氏をバックにしたヤマトタケル。このように見てみると四道将軍とは崇神朝の代ごとの外戚勢力であるといえるのではないだろうか?


播磨稲日大郎姫は崇神朝においては景行天皇の皇后、吉備王権にとっては時代の吉備王となるはずのヤマトタケルの母だったのである。その播磨稲日大郎姫を差し置いて、景行天皇は美濃から新たに皇后を迎える。今度は播磨稲日大郎姫の時のような妻問いではない。新皇后の名がそれを如実にあらわしている。八坂「入」姫その人である。


西日本の大部分に影響を及ぼすこととなった崇神朝にとって美濃は恐れる対象でなかったことを、この婚姻は表している。そしてこの婚姻に大きく働いたのは四道将軍最後の一人で東海道に派遣されたことになっている武渟川別その人である。彼について注意したいのは彼は出雲征伐にも吉備津彦とともに参戦していることである。東海に派遣されたのにも関わらずそれがどうして可能だったか?それは彼が他の三将軍よりも比較的自由な立場にたっていたからだ。つまり彼だけ大彦らと違い各地の現役の「王」ではなかったということである。彼は大彦の息子であり、崇神の皇后であるミマキ姫の兄弟である。


武渟川別とミマキ姫、大彦、大物主、崇神、出雲族の関係をトンデモ説で解釈してみよう。以下


大彦の一族はおそらく大物主・大国主に連なる出雲族系の一族だったと思っている。なぜなら崇神は大彦の娘に婿入りして大和の大王になっているからだ。ミマキ姫が血統的に三輪山の大物主祭祀を受け継いでも不自然ではない立場にあったからではないだろうか?つまり大物主の傍流である娘と大物主王権下で頭角をあらわしてきた九州系で実力のあったミマキイリヒコであったからこそ、周囲も大和王権の簒奪を黙認せざるを得なかったのではないかと思っている。大彦とその息子・武渟川別が出雲系だったからこそ東海地方へ移動した青銅器出雲族との対応および出雲族の故地出雲への侵攻を担当したのではないだろうか?さらにトンデモを飛躍させてみよう。


崇神天皇時点の出雲は、北九州王権による支配を受けていた可能性が高いと思っている。その北九州王への朝貢のための振根の筑紫入りであり、武渟川別の出陣は出雲に残っている同胞を九州王の支配から取り戻すための行動でもあったのではないのか?おそらく武渟川別と崇神の支配地域である大和や東海への移住促進も行ったのではないか?それが三遠式銅鐸の登場に作用したのかもしれない。


崇神が都とした纒向遺跡から吉備系の土器と共に尾張系の土器が発見されるのは、尾張系の土器とはもともと大和にいた出雲族が使っていた土器で、同じ土器を東海地方へ移動した後も作製使用したということではないだろうか?うん、それだと吉備と尾張が逆の場合も在りうるか・・・。???????


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