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4.ハニーカフェラテ・リンゴジュース

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ー瑠維ー
夜勤明けの空は、目に眩しすぎる。
職員通用口のガラス戸を開け、冷えた空気を吸い込む。ようやく桜が咲き始めたとはいえ、まだ冬の気配は消えていない。思わずこぼれたため息が、白く霞んで朝の空気の中へ消えていく。
ついさっき、朝の申し送り後に先輩たちから聞かされた噂話の内容が、頭から離れない。
ポケットからスマホを出し、なんとなく時間を確かめる。とっくに外来が始まっている時間だ。
「あれっ」
声がして顔を上げると目の前に、桜の花みたいな髪色をした小柄な男の人が立っていた。
「片倉君、だよね?お久しぶり」
柔らかそうなベージュのカーディガンが、風に揺れる。
「桃瀬さん?」
桃瀬朔也さんは世良先生の幼なじみで、心臓に難しい病気を抱えている。去年の夏に大きな手術を受けてからは調子が良いと聞いていたけど、会うのは久しぶりだった。
「お久しぶりです。どうしたんですか?」
「定期受診の日なんだよ。さっき終わったとこでさ」
風に乱れた前髪を押さえながら、桃瀬さんは世間話の延長の様に、さらりと言った。
「世良、アメリカ行くんだってね」
僕の顔色が変わった事に気が付いたのか、桃瀬さんの茶色い瞳がこぼれそうに見開かれた。
「え、どうした?大丈夫?」
「ご、ごめんなさい」
はっとなって目を逸らす。唇をかんだ。
「片倉君。時間ある?」
桃瀬さんの小さい手が、服の裾を無意識に握りしめていた僕の手首に触れる。
「ちょっとそこでお茶でもしない?」

***
『―世良先生、アメリカ研修に行くらしいね』
何げない調子で先輩達が始めた噂話は、初めて聞く内容だった。
『片倉聞いてないの?世良先生と仲良いじゃない』
『知らないです』
『そうなの?』
『やだ片倉、そんなショック受けなくても。まだ、噂程度の話だし』
『でも遅かれ早かれ行くでしょうね。世良先生、幼なじみの主治医しているじゃない?』
『ああ、桃瀬さんて人?』
『そうそう。手術したけど、完治したわけじゃないから。アメリカ行って、最先端の医療に触れてこないと……』
『なるほどね。世良先生、あの人のために医者やってるようなもんだしね……』

***
「はい、どうぞ」
目の前にマグカップが置かれ、はっと我に返った。
「あ、桃瀬さん……お金」
「えーいいよ。飲みな?」
「すみません、いただきます」
茶色のマグカップを引き寄せる。真っ白な泡の上にハチミツがかかっていた。一口飲む。
「あ、美味しい」
「良かった。俺、コーヒーの味分からないからさ」
「桃瀬さんは、何を?」
「これ?リンゴジュース。カフェイン摂取、できないからね」
桃瀬さんは何でも無い事のように言って、氷のたっぷり入ったリンゴジュースにストローを差し、すすった。
「ごめんね。夜勤明けで疲れてるのに付き合わせて」
「大丈夫です。帰ってから寝るので……」
「寝れるの?大丈夫?」
心配そうに言われ、マグカップの取っ手を握る手に力がこもった。
「アメリカに行く話、本当だったんですね」
絞り出すようにそう言うと、桃瀬さんはカーディガンで半分以上隠れた手で頬杖をつき、頷いた。
「とっくに周知の事実なんだと思ってた。驚かせてごめん」
「いえ……」
「片倉君、世良と仲良さそうだったもんね。寂しいよねえ」
唇を噛む。
「そりゃあ、寂しくないって言ったらウソになりますけど。寂しいっていうより心配なんですよ」
「そうなの?」
「いつ寝てるんだか分からないし、医局はいつも散らかってるし。放っておくと、全然まともにご飯食べようとしないんですよ」
「確かに」
「暇さえあればタバコばっかり吸って、喉が乾いたら、一日に何杯でもコーヒー飲んで」
「……うん」
「生活能力全然無いし、一人でアメリカ行ったりしたらどうなることか。体壊してても分からないし、心配で」
「ふふ」
「何で笑うんですか」
桃瀬さんは両手の甲に顎を乗せ、僕を見ると優しく微笑んだ。
「片倉君は、世良の事が好きなんだね」
「えっ」
「違うの?さっきから、世良の事が好きで堪らないって言ってるようにしか聞こえないんだけどな」
子猫みたいなアーモンド型の大きな瞳に見つめられ、どんどん頬が熱くなっていく。
そんな僕を見て、桃瀬さんは楽しそうに、告白しないのと聞いてきた。
「……もうしました、玉砕済みです」
「まじ?」
桃瀬さんは驚いたように身を乗り出してきた。
「いつ告白したの?」
「桃瀬さんが入院中に、無理やり外出しようとした日です」
桃瀬さんの表情が固まる。
「僕、あの時どうしても納得出来なくて世良先生に言ったんです。桃瀬さんの事が心配じゃないんですか、どうして止めなかったんですかって」
「そしたら何て?」
「無理やり手術を受けさせても、桃瀬さんの幸せに繋がるわけじゃないから、好きにさせてやりたいって……」
そう言った時の世良先生の、何もかも諦め切った様な切ない表情を思い出して苦しくなる。
「片倉君に告白されて、世良は何て答えたの」
「今は誰のことも、そんな風には考えられないって」
冗談ぽく、五年後くらいにもう一回告白してみろよ、と言われた事も話した。とにかく、あの時は桃瀬さんの事で先生の頭の中はいっぱいだったんだろう。
「世良先生は」
言っていいのか躊躇う間も無く、勝手に言葉が滑り出た。
「桃瀬さんの事が好きなんです」
「はっ?何それ」
それまで神妙に僕の話を聞いていた桃瀬さんが、堪らずといった風に吹き出した。
「何でそうなるの」
「笑わないでください、本当にっ……」
「いやいや、ありえないから」
「そんな事ないです。アメリカ行くのだって先生はきっと、桃瀬さんの為に」
「世良がそう言ったの?」
問われ、答えに詰まる。
「先生は、違うって言うだろうけど」
「ほら。なら違うよ」
「でも」
膝の上で握った拳の中に、汗が滲む。
「先生が桃瀬さんの事を話す時、すごく、桃瀬さんを大切に思ってる事が分かるから……」
桃瀬さんは何か思案する様に、腕を組んでテーブルに載せた。
「でもそれはさ、恋とは違うじゃん」
「……でも、とにかく振られちゃいました」
ー代わりなんか、要らない。
呟く様にそう言った世良先生は、すごく苦しそうだった。
僕じゃ、だめなんだって、言われた気がした。
「で、諦めちゃうの?」
腕を解き、ジュースのカップを引き寄せながら桃瀬さんが聞いてくる。
「まだ好きなんでしょ?」
問われ、答えようと口を開いたら瞼が熱くなった。
「……はい」
頷くのが精一杯な僕の頭に、桃瀬さんの手が載る。
「五年後にもう一回告白してこい、かぁ。ずるいこと言うな、あいつ」
そうか、と桃瀬さんは独り言の様に続けた。
「世良が俺を好き、ね。ふうん……」
「あ、あのっ」
慌てて顔を上げる。
「それ、僕が思い込んでるだけかも知れないので!」
「うん、分かってる」
桃瀬さんは笑っていたけど、その後で残ったリンゴジュースを飲みながら何か思案している表情は、ほんの少しだけ険しく見えた。
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