夏夜の涼風に想い凪ぐ

叶けい

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5.何も知らないくせに

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―瑠維―
今日は、夜間救急の当番だった。
「片倉!」
先輩看護師の声が聞こえ、カーテンの隙間から顔を出して返事する。
「はい!」
「救急車1台来るから、それ終わったら出て!」
「分かりました。…ごめんなさい、少しちくっとしますね…」
急な吐き気と眩暈で運ばれてきた、年配の女性の腕に点滴の処置を施し、手早く処理を済ませて救急センターの自動扉から外へ出る。さっきより強まってきた雨音に紛れて、サイレンの音が遠くから聞こえてくる。知らず溜まっていた疲労感から、ついため息がこぼれ出た。
今夜はもう、これで三台目だ。今度の患者はどうしたんだろう。またお年寄りだろうか。
けたたましいサイレンの音が途切れるのと同時に、救急車が滑りこんでくる。
後ろの扉が開いて、ストレッチャーが運び出される。降りてきた救急隊員が、僕と一緒に外で待機していた当直医師に状況を説明していた。
心臓発作、という単語が聞こえたのと、頭側から降ろされたストレッチャーからこぼれた桜色の髪の毛が目に飛び込んできたのが、ほぼ同時だった。
「…桃瀬さんっ…?!」
思わず名前を呼んだ。豪雨の夜闇でもわかるくらい白い肌には冷や汗があふれ、苦悶の表情で目を閉じたまま反応は無い。
「片倉、何やってるの!早くストレッチャー押して…片倉!」
先輩の看護師が呼びかけてくる声にはっとなる。
僕が呆然と固まっている間に、桃瀬さんを乗せたストレッチャーは救急センターの扉の中へ吸い込まれていく。
―どうしよう。
気が付くと、僕はPHSを取り出してある番号にかけていた。いつもいつも、持ってる意味があるのか疑わしいくらい出ない番号―世良先生の、PHSに。
『―はい』
低くハスキーな声が、だるそうに耳元で響いた。
『何だよ片倉、俺もう帰る…』
「すぐ来て下さい!」
震える手で、PHSを握り直す。
『は?どこに』
「桃瀬さんが…っ、桃瀬さんが、…先生…!」
一瞬の沈黙の後、どこだ、と短く問われた。
「夜間救急です、今運ばれてきて…!」
『すぐ行く』
言うが早いか、PHSが切れる。
力が抜け、その場にへたり込みそうになったのを、すんでのところで堪えた。
行かなきゃ。―落ち着け、自分の仕事をするんだ。
深呼吸を一つし、救急センターの自動扉の前に立った。

***
明かりも人の気配も消えた外来ロビーで、祈るように手を組んで項垂れている一人の青年に、声をかけた。
「…終わりましたよ」
「!」
弾かれたように顔を上げ立ち上がった彼の目元に、少し長めの前髪がかかる。
「桃瀬さんは…っ」
「もう大丈夫です。今はICU(集中治療室)に…」
「病棟に移した。ICUに入れるほどじゃない」
僕の説明を遮るように、背後からハスキーな声が響く。
「世良先生…」
先生は、私服に白衣を引っ掛けただけの恰好でこちらへ歩いて来ると、呆然としている彼の前に立った。
「久しぶりだな、透人ゆきとチャン」
「…世良さん…?」
驚いた表情の彼―透人さんと、世良先生の顔を交互に見る。
「え、知り合いですか?」
「…知り合い、かな」
「かな、って何ですかそれ」
「さあな。俺もどういうことなのか、よく状況が呑み込めない」
険しい表情で腕を組む。白衣から覗く細い腕にはめられたシルバーの時計が、蛍光灯に反射して光った。
「色々聞きたいことはあるが…透人チャンは、桃瀬の体の事は知っていたのか」
「…はい」
「知ってて『無茶』させたのか。」
…『無茶』の内容は、世良先生にはもう話してあった。
それは、心臓に病気を抱えた桃瀬さんが、絶対にしてはいけない事だった気がするけれど。
「…ごめんなさい…っ」
肩を震わせて俯く透人さんに、世良先生はため息交じりの声で「もういい、あいつのそばに居てやれ」とだけ言い残し、背を向けた。

***
「…先生、世良先生!」
薄暗い廊下を歩いて行く、白衣の背中を追いかける。
「…何だよ」
「あの、いいんですか」
「何が」
「さっきの人に、桃瀬さんの病状の説明とか」
振り返った世良先生は相変わらずの厳しい表情のまま、ずれた眼鏡をかけ直した。
「必要ないだろ。あの子は桃瀬の家族でも何でもない」
「え…じゃあ、ご家族に連絡は」
「後で俺がしておく」
「そう…ですか」
「…もう、いいか」
そう言ってまた背を向ける世良先生の白衣を、掴んだ。
「先生、…大丈夫ですか?」
「は?」
振り返った世良先生に、思わず言う。
「先生、何か傷ついているみたいに見えたから」
「…」
手を離す。掴んだところが、皴になってしまった。
「ごめんなさい…何でもないです」
「…あいつが」
「え?」
顔を上げる。世良先生は僕から目を背けたまま、低い声で話し出した。
「桃瀬が、恋人らしき相手と救急車で運ばれてきたのは、これで二度目なんだ」
言われて、この間偶然見かけた、身なりの良い長身の男性の事を思い出す。
「その時も、今日みたいに、すぐ薬飲ませれば落ち着く程度の症状だった」
世良先生の白い手が、拳の形に握りしめられる。
「…何も知らないくせに、あいつの傍にいながら何もしてやれない奴らに、腹が立って仕方ない…」
「先生…」
世良先生はポケットからPHSを出すと、電源が入るのを確かめてからまたポケットへしまった。
「…今日は帰らないで医局に居るから、何かあったらすぐ連絡くれ」
「分かりました」
「今日はちゃんと出るから、部屋まで来るなよ」
そう言い残して、世良先生は医局のある南棟の方へ向かって歩いて行った。
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