夏夜の涼風に想い凪ぐ

叶けい

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1.先生、診察時間です

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―瑠維―
(…プルルルル、…プルルルル……)
空しく耳元で鳴り続ける呼び出し音にうんざりして「切」ボタンを押した。一体何の為の院内PHSなのか。
胸ポケットにPHSを仕舞い、外科病棟ナースステーションを出て本館へ足を運ぶ。歩きながらふと思いついてもう一度PHSを手に取った。
医局の内線…出るわけ、ないか。
ため息をついて歩く足を速める。渡り廊下を抜け、南棟の奥まった場所にひっそりと位置する仮眠室…もとい、旧医局の扉を勢い良く開けた。
「先生、世良先生!起きてください、もう朝ですよ!」
病院創設当時からあるらしい、せいぜい6畳程度の広さの薄暗い部屋の隅で、白衣の塊がもぞもぞと動くのが目に入る。
「もう、また白衣着たままソファで寝てたんですか!」
怒りながら近づき、ソファの下に落ちている黒縁の眼鏡を拾い上げる。
「…あー、おはよう片倉…コーヒー淹れて」
あくび交じりに伸びをする世良先生の髪には、豪快な寝ぐせ。
「コーヒー飲んでる場合じゃないですよ、時計見てください!」
「んー…」
世良先生はぼんやりとした表情のまま、テーブルの上に伏せておかれていたスマホを手に取り、時間を確かめる。
「あ、やば。もっと早く起こせよ片倉」
「PHSに何度も電話しましたよ!」
着たままの白衣の胸ポケットを指さす。
「そういや電源切れてたな」
「もう!とにかく早く支度してください。今日、外来の予約入ってますよ」
「そうだった。分かった起きるよ」
言うやいなや、世良先生は着ていた白衣を脱ぐと、丸めて僕に向かって放り投げてきた。
「クリーニングよろしく。顔洗ってくるわ」
「急いでくださいね!」
振り返らずに軽く手を振ると、世良先生は医局を出て行った。
キャッチした白衣を軽く畳み直し、医局の中を見回す。
本当の外科医局は、2年前に増設された西棟にある。だけど世良先生は、あまり人の来ない南棟奥の、この古くて狭い医局を勝手に自分の住処にしているのだった。
そんな事がなぜ許されるかと言えば…世良先生は、この大きな総合病院の跡取り息子だからに他ならない。
ふと見ると、インスタントコーヒーの瓶の蓋が浮いていたので締め直した。傍らにはタバコの空き箱。備え付けられた小さな冷蔵庫を開けると、買い置きの栄養ゼリーが3つ入っている。
仮にも医者なのに、自分の健康に気を遣わなさすぎだろう。
呆れたため息を一つ残し、僕も医局を出た。
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