眠らぬ夜空に陰る朧月

第一話 平気なふりをしているだけ

scene1-3

―雅孝―
「大人しくしろ！こいつ！」
五十嵐に抑え込まれた酔っ払いの男が、必死でその腕を振り解こうと暴れる。
決して広くはない店内で揉み合うわけにもいかず、男を拘束する五十嵐の腕が一旦解かれた。その隙に再び男が五十嵐に殴りかかる。五十嵐は男の右手首を軽い動作で捉えると、捻って肩を押さえ、そのまま店の床にうつぶせの姿勢で押さえ込んだ。男は動けず、唸り声を上げている。
「相変わらず見事だな。さすが合気道有段者」
「恐縮です。すみませんが主任、警察に連絡を」
「ああ。それと、救急車もだな」
足元で仰向けに伸びている、若い男性を見下ろす。

本社での仕事を終え、五十嵐から報告のあった西麻布のバー、"Luce"に視察に来たところだった。
二人で客のふりをして水割りでも飲みながら、例の客を待ち伏せるつもりでいたのたが。
まさか既にトラブルが起きていたとは、予想していなかった。

「すみません、大丈夫ですか」
事の成り行きを怯えながら見ていたバイトのバーテンダーに警察と救急への連絡を任せ、気を失っている様子の男性に声をかける。しかし、反応がない。
まさかと思って口元に手を当ててみるが、呼吸はしていた。念のため脈を取ってみるが、素人判断ながら正常に感じる。
黒いスーツの上着にはひどく皺が寄ってしまっていた。水でもこぼれていたのか、それとも掃除した後だったのか分からないが、床が少し湿っていた。運悪く革靴で足を滑らせたのだろう。
「うわあ、ちょっと何事？」
声がして振り向くと、ガラス戸を半分開けた状態で顔を覗かせている男性と目があった。
「世良、さん？」
「は？何でお前がここに……ってあれ、慶一？」
倒れている男性に気づいた世良さんが、慌てて傍に来て膝をついた。
「おい、慶一！」
「すみません、客とトラブルになったようで」
「何でお前が謝るんだ」
「一応、この店のオーナーなので」
「は？まじかよ。さすが大企業のボンボンだな」
「……やめてもらえませんかね、それ」
自分だって大病院の跡取り息子でボンボンでしょうが―そう嫌味を返したいのを辛うじて堪える。この人相手に余計な事を口にしたが最後、百倍になって返ってくる事は容易に予想がついた。
「救急車は？」
「呼びました。もうそろそろ、こちらに……あ、来ましたね」
パトカーと救急車のサイレンが重なり合って聞こえてくる。
俺は床に着いていた膝を伸ばし、立ち上がった。
「迷惑ついでで申し訳ないのですが、世良さん」
「お前が世良さんて言うな」
「……すみませんが世良先生、そちらの方の救急搬送に付き添って頂けませんか」
「お前はどうするんだよ」
「俺は一旦、警察の方へ。後で向かいます」
「はあ、まじかよ。せっかく今日は非番だってのに……」
救急隊が店の中へ入ってくる。状況を説明し、世良さん……いや、世良先生が付き添い人で同行する事を伝える。
「そういえば、こちらの方とのご関係は？」
担架に載せられた男性を見ながら問うと、高校の友達、と素気ない返答があった。
「では、すみませんがよろしくお願いします」
「……お前は本当に、トラブルばっかり連れて来るよな」
切長の目元の眼光が鋭くなる。
「偶然でしょう。……あの」
「あ？」
「……いえ」
何でもありません、とはぐらかす。
世良先生は肩をすくめると、担架の運び込まれた救急車に、後ろから乗り込んでいった。
―さすがに聞けなかった。
聞いたとしても、俺を嫌っているらしいあの医者から、まともな答えは返ってこなかったかも知れないが。

―朔也は……あなたの大切な幼馴染は、まだ元気ですか。

本当は、そう聞きたかった。