眠らぬ夜空に陰る朧月

第一話 平気なふりをしているだけ

scene1-2

―慶一―
左手にはめた腕時計で時間を計る。小テストを配ってから十分弱、早い生徒はもう筆記用具を置いて暇そうにしている。
「あと五分くらいで回収するぞ」
声をかけると、生徒達は焦って回答を書きこんだり、余裕の表情で見直したりし始めた。
教卓に手をつき、教科書のページを意味も無くめくってみる。―『民主主義と日本国憲法』。
そういえば、透人はここの内容が苦手だった―。
教卓のすぐ前に座っている男子生徒に、高校生だった頃の透人の面影が重なる。
手が真っ黒になるまで暗記項目を書き続け、何度も繰り返し俺が作った小テストをやり直して。成績が上がると、嬉しそうに報告に来て―。
「……そこまで。後ろから回収してこい」
声をかけると、ペンを置く音やプリントを回す音がそこかしこから聞こえ始める。
手元に全て集まってきたところで、タイミング良くチャイムの音が響いた。

自分が担任を務めるクラスでＨＲを終え、放課後は副顧問をしているテニス部の様子を見に外のコートへ向かう。
とはいえ、俺はテニスなんてまともにやった事がない。普段は顧問の体育教師が熱の籠った指導をしているので、俺はその顧問が様子を見れない時に顔を出している程度だ。
コート脇のベンチに腰かけ、ストローク練習をしている様子を眺める。フェンス越しに、外周を走って行く陸上部の姿が見えた。
そういえば、透人は陸上部だったな。長距離が得意だとか言っていたっけ。走っている様子を見たことは無かったけれど。
……だめだ。
どうして今日はこんなに、あの子の事ばかり思い出すんだろう。高校教師という職業柄、学生たちの様子なんて普段から見慣れているはずなのに、今更いちいち昔の透人に面影を重ねたりしてしまうなんて。
今朝めくったカレンダーの事を思い出す。
ああ、そのせいか。
久しぶりに、透人の存在を感じるようなものに触れてしまったから。

＊＊＊
”Luce”は大学生の頃によく通っていた、西麻布にある小さなカウンター式のバーだ。
ガラス張りの戸を引き、店内に足を踏み入れる。
カウンターの中に若いバーテンダーが一人いるだけで、店内を見回しても他の客はいなかった。控えめな音量で静かにジャズが流れている。
奥から二つ目のカウンター席に座り、いつも飲んでいるスコッチウイスキーをロックで頼む。しばらくすると、琥珀色の液体の入ったオールドファッショングラスが目の前に置かれた。
口に含むと、強烈なアルコールの匂いが鼻に突き抜けた。つまみのナッツを時々口に運びながら、ゆっくりと飲んでいく。
そういえば、前に来たのは透人の浮気を知った時だった。
あの日は偶然、高校時代の友人である世良に会い、愚痴を聞いてもらった。
そうだ。世良に透人と別れたと言ってなかったな。
スマホを出し、ウイスキーを舐めるように飲みながら世良宛にメッセージを打った。既読がついたかと思ったらすぐにスマホが震え出し、世良からの着信を知らせてきた。
「もしもし」
『おー、慶一？どした。一人で飲んでんの？』
「まあ。世良、仕事中じゃなかった？」
ガラス戸が開く気配がして、それにつられるように視線を向けた。派手なピンストライプのスーツを着た男が入ってくる。男は俺と反対側の端の席に腰を下ろした。
『今日は一応休みだから家にいるよ。そっち行こうか』
「いや、なら明日は仕事なんだろ。無理しなくても」
『そんなの別に気にするなよ。今から行くわ』
「分かった」
通話を切ると、不意に視線を感じた。
見れば、さっき入ってきた男が焼酎グラスを片手にこちらを見ている。
「……？」
怪訝な表情をしたのが、多分まずかった。
俺に睨まれたと勘違いでもしたのか、男が音を立ててグラスを置きこちらへ近づいてきた。
「おい」
「……何か？」
「店ん中で電話なんかしてんなよ、うるせえな」
ああ、そっちか。
面倒くさいのに絡まれた。男の吐く息は随分と酒臭く、この店へ入ってくる前から既に酔っていた事を窺わせる。
「すみませんでした」
揉めるのは御免なので、取り敢えず謝罪を口にしてみる。
「謝って済むと思ってんのか」
ため息をつきたいのを辛うじて堪えた。
謝ってだめならどうしろと言うのか。
男の呂律はかなり怪しく、目の焦点も定かではない。
こいつ、本当に酔っているだけだろうか。
せっかく世良を呼び出したが、早いところ離れた方が良さそうだと感じた。
財布を出し、バーテンダーに金を払って席を立とうとした。その一瞬の隙をつき、男が俺の手から財布を奪い取ってきた。
「返せよ」
逃げようとした男の肩を掴む。酔いのせいか足元がおぼつかない男は、簡単に後ろ向きに尻餅をついた。
あっさり男から財布を奪い返し素早く店を出ようとしたが、スーツの裾を掴まれふらついた。
「待てこら」
「おい、あんまりしつこいと警察を呼ぶぞ」
凄むと、逆上した男が掴みかかってきた。
応戦しようとしたが、運悪く革靴が滑ってバーカウンターの丸椅子の足に引っかかり、なす術もなく後ろ向きに倒れた。
―目の前に、星が散った。


(―……おい、何事だ)
(―オーナー！この男が……)
(―何やって……五十嵐、警察を呼べ)
(―はい、主任。大人しくしろ！こいつ……)