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“僕”が彼女に出会った日

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 17、18ほどだろうか。アレン兄さんと同じ年頃の娘だった。そんな“彼女”は“僕”の目の前に来ると身に着けているドレスが汚れるのも厭わずに、“僕”の前に座り込み目線を低くした。そして優しく笑いかけながら、わずかに首を傾げる。

『お名前言える?』

首を傾げた折、彼女の長い髪が揺れた。香水だろうか。甘い花の香りが鼻を掠めた。

『レイ……』

“僕”が名前を名乗ると

『そう、レイ君ね』

“彼女”は“僕”の名前を呼んで

『ちょっと待ってね。』

脇に持っていたポシェットものの中を、ゴソゴソと漁る。そして何やら手のひらサイズの容器を2つ、そして布を取り出した。

『まずは傷口を綺麗にするから、レイ君、足を伸ばせる?』

 そう尋ねてきた“彼女”に首を一度縦に振って、言われるがまま足を伸ばした。すると、“彼女”は、慣れた手つきで手のひらサイズの容器の中の液体を“僕”の足にかける。

『……冷たい』

 傷口にかけられた液体は冷たい。思わず鳥肌が立った。

『大丈夫、水だから』

 “僕”の不安そうな様子に気がついたのか、安心させるように言ってから、“僕”の傷口を布で拭った。そして、“彼女”の手際のよさに、“僕”は思わず目を丸くした。令嬢は怪我をして、治療してもらうことはあっても、治療することなんてほとんどないはずだ。そのはずなのに、慣れた手つきでテキパキと手を動かしていた。

“僕”の傷口に水をかけ、そして拭うという行為を幾度か繰り返すと、固まっていた血はなくなり、傷口が露になった。血が固まっていた場所にはかすり傷のようなものが出来ていた。出血は多かったものの、さほど深い傷ではなかったようだった。下手に動き回ったせいで、血が流れ、固まった範囲が大きくなってしまっただけのようだ。“彼女”も『よかった、大きな傷じゃなくて……』と安堵するような表情を浮かべた。“僕”もほっと胸を撫でおろしていると

『ところで、貴方はどうして怪我を放置したままいたの?それにこんな遅い時間に一人で……』

“彼女”は手にしていた布を置いて尋ねてきた。心配そうな表情を浮かべて。真っすぐな瞳に見つめられ、つい言葉が漏れる。

『兄さんたちと喧嘩して……』

 一度言葉を発してしまえば、“僕”は“彼女”に堰を切ったように話してしまっていた。

 昼間、湖の近くで魚釣りをしていたこと。夜、その魚を自分が湯あみしている間に兄さんたちが食べてしまったこと。兄さんたちは食べてしまったことをすぐに謝っていたけれど、怒りに任して出ていってしまったこと。そして、無我夢中で走って、森の中で迷ってしまったこと。もちろん、自分が『ガルシア』王家の者であるということは伏せてすべて話した。

『だから兄さんたちが悪いんだ……。兄さんたちなんて大っ嫌いだ』

 ぽつりと言った。自分がこんな時間に森の中一人怖い思いをしなくてはいけなかったのも、全部兄さんたちのせいだ。そんな自分勝手な八つ当たりをし、俯けば、“僕”の右の頬に温かい何かが触れ、思わず顔を上げると“彼女”と目が合った。“僕”の右頬に触れていたのは“彼女”の左手で、“彼女”は真剣な表情を浮かべて、静かに言った。

『……本当にそう思うなら、何で辛そうな顔をしているの?』
『え?』

“彼女”の大きな瞳に映る“僕”は、唇を噛みしめ耐えるような表情を浮かべていた。

『お兄様たちが悪いと思っているんだよね?』
『…………』
『で、お兄様たちが大嫌いなんだよね?』
『…………』
『そんな人がそんなに辛い顔するのかな?』
『…………』

 優しく諭すように言う“彼女”。

『本当はわかっているんだよね?』

 “僕”の頬を撫でる“彼女”の手のひらは温かく、そして優しい。

『確かにレイ君のお兄様たちも勝手にレイ君が一生懸命に釣り上げた魚を食べてしまったのはいけないことだわ』
『…………』
『けれど、それに対してお兄様たちはいけないことをしたと反省して、レイ君に謝ったのよね?』
『…………』
『けど、お兄様たちがきちんと謝ったのに、「大嫌い」だと怒って出ていってしまって、レイ君はすごく反省している』
『…………』

 黙って“彼女”の言葉に耳を傾ける“僕”に、『そうよね?レイ君』と真剣なまなざしで“彼女”は“僕”を言う。

正直、“彼女”の言葉に痛いところを突かれたような気がした。“彼女”の言うとおりだ。兄さんたちは、まだ幼い“僕”が城から自由に出られないということを知っていた。だから、“僕”のために湖に遊びに行こうと提案してくれた。“僕”が楽しめるように……。なのに、“僕”は、勝手に不貞腐れて、二人にひどい言葉を言って傷つけてしまった。本当は、大好きなのに。

『……“僕”、アレン兄さんとシリウス兄さんに酷いことを言ってすごく後悔している』

 自然に出た言葉だった。『大嫌い』だと言った時の傷ついたような二人の表情が脳裏を過った。兄さんたちはすぐに謝ってくれたのに、“僕”は許してあげなかった。幼いときから何をしても許してもらっていた“僕”は、誰かを許すという気持ちを持ったことがなかった。周りの大人たちもそれを咎めることはなかった。“僕”が許す前に、相手が謝ってくるのが当たり前。それがいけないことだとは頭ではわかっていたけれども、口ではっきりと初めて教えてくれたのは、目の前にいる“彼女”だ。

『……“僕”、謝るよ』

 “僕”は言った。生まれて初めて心の底から申し訳なさがこみ上げた。いつも優しい兄たちにただ甘えていた。そんな自分が情けなくて、唇を噛みしめる。そんな“僕”に

『レイ君は、偉いね』

と“彼女”は“僕”の頬に当てていた手のひらを今度は“僕”の頭の上にポンと乗せた。ふと顔を上げると“彼女”は、優しく笑っていた。

『偉い?』

 “彼女”の言っている意味が“僕”にはわからなかった。“彼女”は『うん』と首を縦に振って、口を開く。

『人はね、なかなか人を許すことができないし、悪いことをしたと思ってもなかなか謝れないものなの。でもね、レイ君は勝手に魚を食べたお兄様たちを許して、お兄様たちに言った言葉が酷いって認めたんだよね』

 “彼女”の言葉に“僕”は縦に大きく頷いた。すると、“彼女”は“僕”の前で、『だからね……』と言って、こぼれるような笑みを浮かべて、こう続けた。

『レイ君は偉いねっていったんだよ?』

 こんなにも、優しく綺麗に笑う人を“僕”は見たことがなかった。それが、あまりに綺麗に笑うもんだから“僕”は“彼女”の笑顔にしばらく見惚れていた。



♢ ♢ ♢





 

 初めてだった。“僕”が間違っていることを、間違っていると駄目なことなのだと、きちんと正してくれたのは。

 初めてだった。“僕”を真剣な瞳で窘めたあとに、『偉いね』と優しい笑顔で褒めてくれたのは。

 初めてだった。この人の笑顔を、ずっと見続けていたいと思ったのは。


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