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 その日、エイラは実に機嫌が悪かった。
 いや、ウィレームが見えるようになってからは基本的にずっと悪いのだが、特に良くなかった。

 何故か。

「行きたくない……」
「殿下、そのようなことを仰らないでください」

 ついに、聖国へと旅立つ日がやってきたからである。

 完璧に準備された馬車を目の前にして、エイラの気分は過去最高に萎れていた。

「あぁ、エイラ、わたくしの可愛い子。聖国で務めを果たすのですよ」
「エイラ、お前は私の自慢だ。聖国で頑張って来なさい」

 両親からそう言われても、エイラの心は晴れなかった。
 むしろ、両親はエイラが聖国へ行くことへ乗り気であると、改めて分かってしまった。これではどうあっても逃げられない。

『どうあれ、逃げ道なんて無いと思うよ。君の両親が抵抗したって、聖国は君を諦めないだろうからね』

 相も変わらず機嫌良さげなウィレームであるが、他の人間と違い、彼だけはエイラに同情的である。
 とは言っても、そもそも聖国へ向かうことになったのが彼の所為であるため、特に絆されたりはしなかった。

「はぁ……」
『溜息を吐くと幸せが逃げるらしいよ』

 幸せなら現在進行形で逃げ出している真っ最中である。
 しかし、我が儘を言ってもどうにもならないことはよく分かった。

 心理的な影響からか、やたらと重たい足を動かして、エイラは聖国行きの馬車へと乗り込んだ。



 ◆



 ウィレーム聖国は特殊な国である。

 その名の通り初代勇者が造った国、というわけではない。だが、その成立には初代勇者が大きく関わっている。
 彼の国が起こったのは約一八〇〇年前。
 初代勇者が亡くなり百年ほど経った後、聖国の国教でありこの世界最多の信者を持つ、勇者を信仰する宗教。勇者教会がこの世に生まれた。

 勇者教会の教義は実にシンプルである。

 勇者を信じ畏れ敬い、魔王とその眷属である魔族を滅ぼす。
 人類とはそのために生きるべきであり、勇者もまた人類のために戦わなければならない。

 他にも細かな生活の中での決まりや儀式など、宗教的な部分もある。だが、基本的な教義はたったこれだけだ。

 聖国とは、勇者教会の教皇が興し、信者のみを集めた国である。

 全く、実に不快な話である。
 特に、勇者も人類のために戦わなければならない、という辺り。

『随分と辛辣なんだね。君だってちょっと前まで信者だったんだろう?』

 またウィレームが何か宣っているが、エイラは無視した。隣に侍女がいるからだ。

「殿下、顔色があまり良くないように見えます。大丈夫ですか?」
「ん……大丈夫、平気だから続けて」

 エイラの体調を気にかけているのは、例の大泣きしていた侍女、ユリアだ。
 国を出た結果、エイラにとって最も信頼する相手となった彼女に、聖国に着いた後どうなるのかを尋ねたところ、今の説明をされたのである。

「では続けますが、疲れたらすぐに教えてくださいね」
「うん」
「聖国については今の説明の通りです。
 次に殿下がご到着された後のことですが、まずは教皇様に御目通り願うことになると思います。その後のことは……申し訳ありませんが、私にも分かりません」
『じゃあ僕が説明しよう。教皇に会った後は君の私室になる場所に案内されて、その日は食事を摂ってお休みだ。
 で、次の日からは勇者としての戦闘用の身体作りのための訓練が始まる。勇者の中身は僕として考えられてるから、技量を高めるための実践訓練とか、勇者としての心構え、みたいな洗脳紛いの教育なんかは無いよ。訓練は大変だけど、君の価値観を損なうようなことはされないから、そこら辺は安心して良い』

 どこら辺に安心できる要素があるのかは分からなかったが、そういうことらしい。残念ながら中身がウィレームではない以上、エイラにとって苦しい生活が始まることは想像に難くない。

「あぁ、殿下、顔色が!? やはり体調が良くないのですね!?」

 ウィレームの説明を聞き、血の気が引いたエイラの顔を見て、またユリアが騒ぎ始めてしまった。

「い、いや、大丈夫。本当に大丈夫だから」
「大丈夫な人間はそのような顔色はしておりません! 真っ青ではないですか!」
「そ、それはぁ……」
「あぁ、あぁ、やはり馬車酔いでしょうか? 殿下、こちらの薬草をお使いください。奥歯で噛めば酔いが軽くなります。ほら、横になって口をお開けください」

 半ば無理矢理にエイラの頭はユリアの膝まで持っていかれ、口の中に薬草が突っ込まれた。

『ぶふっ』

 吹き出すような声を聞き、反射的に呪詛が募った。
 だが、そんな内心にユリアが気付くはずもない。ただ心配そうに見つめられれば、エイラとて反抗する気もなくなってしまう。
 仕方なく、エイラは口に突っ込まれた苦い薬草をもごもごと噛み始めた。すると、なんとなく頭の奥がスッとするような感覚があった。酔っていた自覚はなかったが、実際は違ったのかもしれない。

『アレハ草の効果だね。薬効としては弱いけど、確かに馬車酔いや船酔いに効果がある。あと、本当に若干だけだけど睡眠導入の効果もあったね』
「殿下はお疲れのようですから、このまま暫しの間お休みください」

 ウィレームに従うようで、少しだけ癪だった。けれども、薬効らしい眠気に逆らうのも馬鹿らしく思えた。だから、決して寝心地は良くなかったが、エイラは彼女の膝の上で、眠りについた。



 ◆



 王国から聖国までの道程は、それほど長くない。
 片道にしておよそ三週間ほどだ。
 現在は二週間を消費したところで、順調に進んでいるため、このまま行けば、あと一週間もあれば十分に聖国へと辿り着けるだろう。

 旅の間、特筆するようなことはなかった。
 エイラは宿に泊まるとき以外は馬車を降りることはなく、人の目に晒されるようなこともなかったため、人生で最も暇な二週間だったと言える。まだ五歳だが。

 余りにも暇だったため、この二週間、エイラはずっと魔術の練習をしていた。
 一人になれる状況ではない都合上、ユリアともう一人の侍女、ベルに魔術が使えることを知られたが、別に困るものでもない。結局は、遅いか早いかの差なのだから。

「【微風】」

 ぽつりと呟き、魔術を起動する。
 弱い風が吹くのは以前と変わらないが、変わっている点が一つ。

 エイラの目の前で、一輪の花がふわふわと浮いていた。
 言うまでもなく、【微風】でエイラが浮かべているものだ。
 下から吹き上げるような風と、上から押さえつけるような風を合わせることで、花をピタリと宙に留めようとしているのだが、完全に静止させることは中々難しかった。

「むぅ」

 と、さも苦戦しているような顔をしているが、エイラの【微風】の制御はかなりのものだ。
 そもそも、風の魔術は物を浮かせるための魔術ではない。物を浮かせるのなら浮遊の魔術を使えば良いのだから。

「あっ」

 しかし集中力が切れたからだろうか。浮いていた花はバランスを崩すようにして地面に落ちてしまった。
 こうして失敗するのはこれで何度目だっただろうか。

「殿下、落ち込むことはありませんよ」
「そうですよ! 殿下のお歳で魔術を扱えるだけで、すごいことです!」

 侍女たちがそう慰めてくれたが、エイラは納得ができなかった。何故か、もっとできるような感覚があったのだ。

『それだけできれば、制御は結構なものだと僕も思うけどね。練習には良いから、辞める必要はないけど』

 ウィレームが言うのであれば、実際大したものではあるのだろう。
 とはいえ、完璧ではないし、まだ伸びそうな感覚があるのも事実だ。せっかく暇なのだから、もっと練習しておくべきだろう。

 そう思い、花を拾い上げた瞬間、爆音が響いた。

 衝撃によって馬車が大きく揺れ、花を拾うため屈んだエイラが座席から転げ落ちる。

「いたい……」
「で、殿下、お怪我はございませんか!?」

 幸い、痛みはあるが怪我らしいものはなかった。
 それを伝えつつ、ユリアに支えてもらいながら起き上がる。

「それにしても、一体今のは……」
『エイラ、今すぐ外に出ろ』
「……へ?」

 ユリアの言葉を遮るように、ウィレームが言う。
 そう長い付き合いではないが、今までに聞いたことのない強い口調だった。

「な、なん」
『早く』

 疑問を呈することも許さず、有無を言わさない姿は、普段の彼からは想像もつかない。
 ただ言われるがままに、エイラは馬車の扉を開き、侍女の静止を無視して外に出た。



 馬車の外は、凄惨な有り様だった。

 王国から着いてきていた、エイラの護衛だと思われる幾つかの人間のようなモノが焼け焦げた姿で転がっていた。

 理解が追いつかず、思考が硬直した。
 それは侍女たちも同様だったようで、静止していた声は聞こえなくなった。

 しかし、状況は少しも止まることはない。
 焼け焦げなかったらしい護衛たちは、下手人だろう剣を持ち軽鎧を纏った男たちに襲われ、次々と血を流し命を散らしていく。

「殿下! お逃げください!」

 切羽詰まった護衛の声が聞こえたが、すぐに彼の悲鳴に塗りつぶされる。
 だが、塗りつぶされなかったとて、エイラが逃げ出すことはなかっただろう。だって彼女の思考は、未だ硬直したままなのだから。

「ぁ、あぁ」

 やっと出てきた声も、何の意味も持たないただの音だ。
 しかし音は音なりに意味があったらしく、ユリアの硬直が解けたのだろう。ベルの頭を引っ叩き、エイラの腕を掴み、必死に逃げ出そうのしている。
 エイラはそれに抵抗しなかった。できなかったという方が正しいだろう。

 そして、抵抗しないとしても、人間というのは重いものだ。それが幼子であったとしても、女一人で素早く運ぶことなどできようはずがない。
 一人であったとしても、逃げられたかと問われれば怪しいところではあるが。

 どうあれ、彼女たちに逃げる手立てはなかったのだ。

 多少なりとも侍女二人とエイラが距離を取った辺りで、軽鎧の男が魔術を使った。
 もしもウィレームがいれば、『あれは【爆破プロージョン】系統の魔術だろうね』などと気の抜ける口調で語ってくれたかもしれないが、何故だか彼は今エイラの側にいなかった。

 故に、エイラには結果しか分からなかった。

 魔術が直撃した護衛は五体が千切れ飛び、その首はエイラのすぐ足元まで転がってきた。
 髪や肌が焦げ、千切れた首から血を溢れさせ、両眼は弾けたようで、真っ赤な血と透明感のある液体を涙のように流している。喉から下がないために喋れない彼は、何かを伝えようとしてか口をはくはくと動かしていたが、限界に達したのかすぐに動かなくなった。

 侍女たちの悲鳴をどこか遠くに聞きながら、エイラはやはり動けなかった。
 状況に、思考も感情も未だ追いつけずにいた。

 恐怖が限界に達したが故か、侍女たちはとうとうエイラを置いて逃げ出していった。
 もしも敵が盗賊であったなら、それは何の意味もない行動だ。追いつかれて捕まるだけだろうから。

 しかし、この場では意味がある。
 だって彼らは、エイラを殺すためだけにここへやってきたのだから。

 魔術を用いているためか、人間とは思えない速度で軽鎧の男はエイラに迫ってきた。
 一瞬で彼女の目の前に立った男は、剣を振り上げ刹那の間だけ逡巡するように視線を彷徨わせ、だがすぐに剣を振り下ろした。

 それを最も近くで見つめるエイラは、まだ状況に追いつけていない。
 しかし、彼女の頭の中では今までの人生の記憶が巡っていた。その記憶には、自発的に思い出すことのできない赤子の頃のことまで含まれていて、その記憶がやっと現在に至ったそのとき。

 ようやくエイラは追いついた。

 だが、それは遅すぎた。
 剣はすでに振り下ろされている。

 表情が恐怖に歪む。
 悲鳴は世界に追いつかない。
 脳が焼けるほど速く記憶が巡る。

 その中には、封印されたの記憶があって。

 悲鳴は世界に追いつかない。

 であれば。

「【微風ウィンド】」
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