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序章

7.魔王

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 加減されている。

 エイラと相対する初老の男、クラウスは確信していた。
 いつからか、厳密には初めからだ。

 エイラはあの扉を破壊して現れた。
 分厚く重い扉だ。クラウスでは破壊するにも苦労することは間違いない。
 あの影を動かす魔法、あれは危険すぎる。あれを防ぐ手段を、クラウスは持っていない。
 槍よりも長く、短剣よりも気軽に振るわれる影は、にもかかわらず圧倒的な手数と破壊力を持っている。
 一度首や心臓、急所に薙がれれば、容易く命を奪われるだろう。
 だというのに、クラウスが持つ最大の魔法すらも容易く防ぐ防御力すらも兼ね備えている。

 実にふざけた話だ。
 たかだか五歳の子供が扱う魔法が、これだけの力を有す理不尽。
 この世界においては極端に珍しいことでもないが、それにしたっておかしい。
 クラウスの主観では、既に十は死を確信している。
 幾度かはエイラがミスをした可能性はあるが、これだけ続けば偶然ではあるまい。

「くっ!」

 頬を掠めていった影に冷汗を流しながら、クラウスが風の刃を放つ。
 不可視の刃。主に暗殺に重宝するこの魔法は、今まで幾人もの敵対者の命を奪ってきた。
 威力はともかく、その速度、狙いの正確さにはそれなり以上の自負がある。
 しかし、エイラの顔を狙った刃は大きく左に逸れ、壁に傷を残すだけの結果に終わった。

 まただ。
 また外した。
 先ほどから、同じことを繰り返している。

 確実に、何かされている。
 確信はあれども、具体的に何をされているのか分からない。
 この少女が闇魔法の使い手であることを、クラウスは疑っていない。
 余人に胸を張れるほど魔法に精通しているわけではないが、影を操り、他者を妨害する魔法など、クラウスはそれしか知らなかった。
 そしてだからこそ、彼は逃げずに戦うことを選んでしまったのだ。

 闇魔法とは、それ自体が災厄である。

 曰く、魔王とその系譜の者のみが扱えるとされるその魔法は、その所以に相応しく馬鹿げた力を持っている。
 最も基本とされる影を操る魔法ですらこの通り、クラウスを圧倒して余りある有様だ。
 だが、闇魔法が恐れられる理由はこんなちゃちな魔法ではない。

 闇魔法が忌み嫌われるその本質とは、その冒涜性だ。

 例えば、最も有名な闇魔法とは何だろうか。
 これは人により様々だろうが、市井で尋ねれば大半が死魂術だと答えるだろう。
 死者の魂を遺体へ縛り付け、術者の意のままに操るその魔法。
 冒涜的恐怖はもちろん、真に恐ろしいのはその規模だ。
 一説によれば、この魔法には数という制限がないのだという。つまり、闇魔法の使い手は殺した相手をそのまま自分の配下として増やし続けることができるのだ。
 この恐怖は、あるいは軍や群れを率いる者にしか分からないかもしれない。
 しかし、想像してみれば分かるだろう。
 例えば同数、同練度の軍隊と死魂術の群れがぶつかった場合、どうなるだろうか。

 正解は、死魂術の数が増える、だ。

 より具体的に語ろう。同規模の軍隊が策もなく正面からぶつかった場合――あまり想定されることではないが――消耗は同程度になる筈だ。
 本来、一度消耗した人員が戻ることはない。故に、軍隊では五割の消耗を全滅と定義することもある。そうなれば、最早戦いどころの話ではない。停戦の協定でも結ぶことになるだろう。
 だが、相手のトップが闇魔法の使い手であったなら話は別だ。
 彼らは消耗した人員を再利用することができる。言うなれば、敵軍をそのまま接収することができるのである。
 もちろん、接収された彼らに元友軍への情や躊躇いなどというものは存在しない。
 対して、友の遺体と戦う羽目になる友軍の士気に関しては、言うまでもないだろう。

 そして、この恐ろしい死魂術が闇魔法の全てというわけですらない。
 これは、あくまでも手札の一つなのだ。
 そんな魔法の使い手を、このまま放置するわけにはいかない。

「っは」

 一瞬、意識が飛んでいたことを、クラウスは自覚した。
 恐らくは数秒もない僅かな時間だが、戦闘においては致命的な隙だ。
 咄嗟に足元を確認すれば、エイラの影が伸びてきている。
 全身から魔力を放出し、影の繋がりを弾いた。
 放置していればどうなるかは、情けなく伸びている男が教えてくれた。
 馬鹿にならない負担が掛かる上、果たしてこれが正しい対処なのかは分からないが、他に思いつかないので仕方がない。

 ちらりとエイラを確認すれば、不満げに頬を膨らませているのが目に入った。
 どうやら、意味がなかったとでも思っているのだろうか。クラウスにとってはこれ以上ないほどありがたい勘違いだ。
 ただ影を繋ぎ続けられるだけで、そのまま敗北しかねないのだから。

 しかし、このままではどうあれ負けてしまう。
 もう一度最大の魔法、【荒嵐刃】を放つべきかと自問して、否定した。
 あれは確かに動きを止められたが、決定打にはなり得ない。魔力の消費と釣り合うとは……。

 いや、それこそ否だ。
 ここに至って、クラウスが勝利を手にする可能性は低い。
 であれば、逃走こそ唯一の正解だ。
 形振り構わず、命を繋ぐ。エイラを殺すのは、今でなくて良い。
 何故、魔王とは関係のない筈のエイラが闇魔法を使えるのか、疑問は尽きず、あるいは陰謀の気配すらも感じざるを得ないが、それも最早関係ない。

 本当に最悪なのは、この場のエイラ以外の全員が死に絶え、この災厄が他に知られぬことだ。

 それはもう、誇張なく国の終わりと直結する。
 未だ誰も知らぬこの怪物が本気で国を滅ぼそうとするなら、誰がそれを防げるだろう。
 まだ五つという幼さでこれだ。
 評判や実際に対話から鑑みるに、歳の割に相当に頭が回る。
 武勇はこの通りで、魔力は身体の成長と共に増加する。
 身分は高く、尻尾が掴めぬ限りは社会的に破滅させることは難しい。
 おまけに王太子殿下の婚約者。いずれ国の頂に手を届かせることが確約されているに等しい。
 部屋の外から香るのは濃厚な人間の血臭だ。手に掛けたのが誰なのかは考えるまでもない。

 そんな人間が災厄の魔法を持つことの意味を悟れぬほど、クラウスは愚かではなかった。

 今この場で殺せるのなら、それが最善だった。
 本来の攫う依頼とは随分と動機も目的も様変わりし、主人には許可を取っていないが、それでも最善だと確信できる。
 しかしそれができぬなら、どんな手を使ってでも謀殺するべきだ。
 恐らくは彼の主人も同じ判断をするだろうことは想像に難くない。

 判断は早く、クラウスが【荒嵐刃】を発動した。
 本来ならば、発動までに多少のタメが必要な魔法だったが、まるで世界が彼を応援しているかのように円滑に、そして会心の手応えで魔法は発動された。

 対するエイラは素晴らしい反射神経を以て、クラウスを攻め立てる影を回収し、全身をそれで包んだ。
 これでは、命を奪うことは叶わないだろう。
 口惜しい思いではあるが、それでも最低限の目標である足止めは果たせている。
 魔法の終了を見届けず、クラウスは部屋の外へと駆け出した。



 そして。



「――――」

 クラウスは言葉を失った。

 部屋の外の様子は、大方はクラウスの予想通りだった。
 濃厚な血と死の香り。
 それから連想される殆どのものが、そこにある。
 誰のものとも知れぬ腕や手指、脚、首。変わり種なら頭の上半分など、死体は見慣れている筈のクラウスですら目を背けたくなる有様。
 しかし、それだけであれば、クラウスは言葉を失うことはなかっただろう。
 それは大方クラウスの予想通りのものたちで、よりエイラを危険視する材料が増えるだけという話なのだから。

 だから、彼が絶句したのには別の理由がある。

 人。人。人。
 人であったもの。

 部屋の外にあったものは、それだ。
 状態は様々だが、皆元気に二本の脚――一本の者もいる――で直立している。
 だがその者たちは実に異様なことに、皆瞳から光を失っている。いや、あるいは瞳の部分が身体から外れている者すらいた。

「……まさか」

 彼らは皆、死魂術の奴隷となっていた。

「こんな……!」

 惨いことがあるのか。
 彼らは確かに、人に褒められるような生き方はしていなかった。
 頭領の浅黒い男から、家庭教師の女を使ったら死んだという報告を受けた時は、クラウスとて吐き気を覚えたのは事実だ。
 だが、それでもこれは、罰というには重すぎる。

 神聖な遺体を弄ばれ、己の仇に隷属させられるという凌辱。
 これほどに死者の尊厳を奪う行為が、他にあるのか。

「いや、そんなことを言っている場合では」

 ふと我に返り、再び足を動かそうとした瞬間、自身の魔法が終わった感覚。

「まず……!」
「捕らえろ!」

 背後から聞こえる舌足らずな命令。
 それが誰に下されたものなのかは、考えるまでもない。

 文字通り死んだように動かなかった死体たちの瞳に、爛々とした紅い輝きが宿った。
 そして、俊敏とまでは言わずとも緩慢と馬鹿にはできぬ速さで死体たちがクラウスに群がってくる。

「ふ、【風刃】!」

 咄嗟に魔法を発動し、クラウス死体たちの首を刎ね飛ばした。
 だが。

「なっ、止まらないのか!?」

 死魂術で隷属したものは、既に命を失っている。
 故に彼らは脳で思考し、活動しているわけではないのだ。

「くっ」

 心の中で邪を払う聖句を唱えながら、クラウスは死体たちの首ではなく手足を飛ばした。
 これは最適解だ。彼らは一度死んだ身故、再び死ぬことは対となる光魔法以外では許されない。しかし、それでも失った手足を取り戻すような力は持ち合わせないのだ。
 手足を失い、虫のように藻掻く死体たちに詫びながら、クラウスが再び駆け出そうとして。

「なん……ひっ」

 鈍い痛みに顔を顰め、ふと見下ろせば、クラウスが刎ね飛ばした筈の首が彼の足首を力強く噛み締めている。
 慌てて足を動かし振り払おうとするが、首は信じられぬ顎の力を以てそれに抗った。
 仕方なしに髪を引っ掴み引き剥がしたが、非常に残念なことに時間切れのようだ。

「捕まえた」

 這い上がった彼の影が、クラウスの手足を縛り上げた。
 更に、命令の取り下げられていない死体たちまでもが群がってくる。

「危ない危ない。備えあれば、というやつですわね」
「が、っく!」

 だが、魔法を使うこと自体は未だ縛られていない。
 隙だらけのエイラの首を刎ねるべく、クラウスが魔法を発動した。

「おっと、元気のよろしいことで」

 最後の抵抗は、まるで児戯かのようにあっさりと流された。

「その状態でも、魔法は使えるのですね」

 エイラは興味深げに頷いた。
 それから、クラウスにしがみつこうとする死体の一つに、新しい命令を下した。
 曰く、連れてこい、と。

「さて、おじ様。どうして自分が殺されていないか、不思議に思っていますか?」
「……拷問に屈するつもりはありません」
「残念、そんな野蛮なことをするつもりはありませんわよ」

 呆れたように首を振る少女に苛立ちつつも、クラウスの中には確かに疑問が残った。
 彼女がクラウスを殺そうとしなかったのは、まず間違いなく彼の主人が誰なのかを知るためであろう。知った後にどうするのかまでは、最早知りたくもないが、それでもクラウスは主人の情報を吐くつもりは微塵もなかった。
 いかなる拷問にも耐える覚悟を決めていた彼にとっては、それをしないという宣言は些か肩透かしではある。

 そして、思考を回すクラウスを愉快そうに見つめるエイラの元に、一人の男が連れてこられた。

「それは……」

 クラウスも殆ど存在と生存を忘れかけていた、浅黒い肌をしたこの死体たちの元頭領である。

「私がどんな魔法を使っているか、もう分かっていますか?」
「……闇魔法でしょう」
「ご名答! 実は先ほど使えるようになったばかりで練習中なのですけれど、便利な魔法が色々あるのです」

 気の遠くなる言葉が混ざっていたが、クラウスには大人しく彼女の言葉を聞くことしかできない。

「その中の一つに」

 彼女がぱちんと指を鳴らすと、浅黒い男の肌を影が這い回り、クラウスと同じように縛り上げられた。
 それから、触れられもせず、浅黒い男は唐突に意識を取り戻した。

「っは、な、何だ?」
「洗脳が可能な魔法があります」

 エイラが男の頭に手を翳すと、頭部全体が影に覆われた。

「あ、あ゛ぁああああ!?」

 耳に突き刺さる絶叫が、響き渡った。
 耐え難い、苦痛の籠った絶叫だった。

「ん、あれ?」

 絶叫が収まり、頭部を隠す影が消えると、エイラがふと首を傾げた。

「ぅあ、ぺぁうあ」
「……あー、まあ、こういうこともあります」

 焦点の合わぬ瞳。
 だらんと口の外に零れた舌。
 誰が見ても一目で分かる。正気を失った人間の姿だった。

 ぞわり、と、クラウスは背筋が震えたのを感じた。
 だって、この話の流れは。

「貴方にも、同じ術を使います」

 全身から、冷汗が噴き出した。

「ふ、ふざけるな! お前は、私の主人のことが知りたいのではないのか!?」
「知りたいけれど、教えてくれないのでしょう?」

 そうだ。確かにクラウスはそう言った。
 しかし、あんなものを見た後に。

「心配しなくても、失敗はしませんわ。貴方には、ちゃんと丁寧にしますから」

 たおやかに微笑み、少女がクラウスに手を伸ばす。
 つい今、人を壊したばかりとは思えない程に穏やかな姿だった。

 これは、何だ?

 闇魔法は災厄だ。
 だがこれは、こいつはきっと、そんなものがなくとも災厄となっただろう。
 これは確信だ。

 こいつはいずれ必ず、この国を滅ぼすだろう。

 人を人とも思わぬその精神性。
 目的のために手段を選ばぬ姿。
 そもそもこいつは、何故男を洗脳しようとするのをクラウスに見せつけたのだ。
 分からない。分からないのが恐ろしくて仕方がない。
 歯の根が合わず、かちかちと震える音がする。

「ま、魔王」

 幼い少女の小さな手のひら、それが視界を埋めていく様。
 これが、本来のクラウスが見た、最後の光景だった。
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