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悪因悪果、善因善果
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「ねぇねぇ、蛇のおじさん」
「だからその呼び方はやめてもらえないかなお嬢さん?せめてお兄さんと呼んでもらいたいね」
“蛇のおじさん”と彼を呼ぶと、彼は決まってそう言う。でも、これ以外に彼をどう呼べばいいのか分からない私は、結局毎度彼のことをそう呼ぶしかないんだ。
「駄菓子屋のおばあちゃんが腰を痛めて寝込んでるから、今日代わりに店番をやってくれる人を探してるんだって」
「そうか、まったくやる気はないけれど、仕方ないから手伝ってあげようじゃないか」
突き刺すように日差しが照りつける夏だというのに蛇のおじさんは今日もいつもと同じ黒のシャツに黒いスキニーを着ていて、服の袖は捲っているけれど見ていてとても暑そう。前髪だっていつも右目が隠れるくらい伸びてるのに。でも蛇のおじさんはいつだって涼しい顔をして、この町のいろんなところからやってくる頼みごとを文句を言いながらも引き受けてくれる。
どうしてかは分からないけれど、おじさんは人助けをするためにいろんな町を渡り歩いているらしい。
旅の人。そんな現実離れした人が本当にいるなんて、今年やっと高校生になったばかりの私は今まで信じていなかった。このおじさんに会うまでは。
「それでお嬢さん。その駄菓子屋さんっていうのはどこにあるのかな?」
「あっちの角を左に曲がって……というか、私だって“お嬢さん”なんて名前じゃないもん。前にも言ったけど私の名前は———」
「君の名前なんてどうだっていい。ヒトに興味なんてないんだ」
「じゃあ人助けだと思ってさ」
「たかが名前を呼ぶだけのことを人助けとは思えないが」
おじさんはそう言って私が乗っている車椅子を何の遠慮もなしに押し始める。その所作一つとっても、この人が他人なんてどうでもいいと思っているのは本心なんだということを私は毎度実感する。
でも、それをどこか小気味いいと思っている私もいた。私に無遠慮に接してくれる人なんて、今まで一人もいなかったから。
物心ついた頃から私は体が弱かった。学校だって満足に通えなかったし、十歳になる前に大病を患って一年近く入院生活を強いられた。それからは入院と退院を繰り返すばかり。この小さな町の学校が車椅子での通学と授業を許してくれていなかったら私はきっと今高校生を名乗ることはできていなかったと思う。
両親は、そんな私を箱に仕舞っておくみたいに大事に大事に育ててくれた。まるで壊れ物を扱うみたいに。それが両親の愛情の深さによるものだっていうことは私も理解していたし、私を大事に想ってくれる二人のことが私も大好き。
友達は、いない。別に嫌われていたということはないと思うし、私から話しかけて嫌な顔をする人はいなかった。ただ、私が病弱だから接し方がみんな分かっていないんだと思う。それは仕方ないと思うし、歓迎とはいかなくても邪険にもしない他のクラスメイト達には感謝してる。
だから、この蛇のおじさんが私に対して何の気遣いもせずに接してくれるということが、私は素直に嬉しかった。初めて、誰かと対等に話すことができている気がしたから。
「そこの農協を過ぎた先にあるよ」
「あぁ、分かった」
「おじさん、この町に来てどのくらい?」
「今日で半月」
車椅子に座った状態で上を向くと、私のことなんて一瞥もくれずに無表情でそう返事をしているおじさんの顔が見えた。下から見ても汗一つかいていない。本当に暑くないのかな。
「この町にはもう慣れた?」
「慣れが必要なほど人が多いわけでも、ルールが厳しいわけでもないだろう?というか、ルールだとか規制が厳しい町なんだったら俺はとっくにこの町を出てるよ。そういうの嫌いだから」
「どうして?」
「生物としての本能をルールや決まり事っていう理性的な思考で抑え込むなんて馬鹿げてる。この世界の生き物はもっと自由で開放的な生き方をするべきだ」
「なんか難しいこと言うんだねおじさん」
「俺は何も難しいことなんて言ってないぜ?むしろ難しく考えてしまうのは君たちヒトの悪い癖だ。義務だとか倫理だとか常識だとかそんなの捨てて、欲望に忠実に生きればいい。だから俺はあの時二人に———」
「あ、おじさん。そこの青果屋さんでリンゴが安いよ。買っていったら?」
「なんで?」
「だっておじさん、いつもリンゴ食べてるでしょ?」
「四六時中食べてるわけじゃあないんだけどな」
そう言いながらも蛇のおじさんは私を乗せた車椅子の進路を変えて青果屋さんに入る。店の顔見知りのおばさんは私達を見ると陽気な笑顔を浮かべた。
「あらいらっしゃい。お兄さん、いつものやつ?」
「あぁ、いつもので頼むよ」
「はいよ」
おばさんはそれだけ言うといそいそと商品棚に置かれていた真っ赤なリンゴをいくつか手に取り、手際よく袋に包んで蛇のおじさんに手渡した。なんだ、やっぱりおじさんいつもここでリンゴ買ってるんだ。
「お代は?」
「いらないよ。この間うちの旦那の漁を手伝ってくれたんだろ?今日はサービスしといてあげる」
「そうか、ならありがたく受け取っておこう」
またよろしくね、という青果屋のおばさんの声を背に蛇のおじさんは車椅子を押して店を出た。リンゴの入った袋から一つを取り出し、残った袋を私の膝元に置く。
「私も一個食べていい?」
「ダメだ」
「ケチ」
「君にあげる理由もないだろう?」
「いつも蛇のおじさんにお仕事あげてるじゃない」
「君が勝手に俺に教えてるだけだ」
「あー、そんなこと言うならもうお仕事教えてあげない」
「どうぞご自由に。そうなったら俺は次の仕事を求めてもっと大きな町に行くとするよ」
「むぅー」
「というか、どうして君は俺に構うんだ?どこの馬の骨ともつかない素性の知れん男だぞ?年頃の女の子が関わるべきじゃないと、理性的な大人達なら口を揃えて言うんじゃないのか?」
「私、今夏休みだし」
「ヒトの子供たちが学業を休んでいる期間のことだろう。それとこれがどう結びつくっていうんだ?」
「遊びたいの」
「なら学校の友達と遊べばいいだろう。あ、もしかしてキミ友達がいないのか」
「あはは、当たり」
「特に同情はしないけど、遊び相手が欲しいなら他をあたるといい」
「あたる他がこの小さな町にどのくらいいると思う?」
「……なるほど、悔しいけど一理ある」
遊んであげる。
その一言を蛇のおじさんに言ってもらえないまま、駄菓子屋についた。おじさんに頼んで車椅子から抱え上げてもらい(文句は言われたけど)店の奥へ上がらせてもらうと、さっき来た時と同じように駄菓子屋のおばあちゃんが扇風機の風を受けて布団で横になっていた。
「おばあちゃん、さっき言ってた店番してくれる人、連れてきたよ」
「あぁ、ありがとうね。お兄さん、すまないけどお願いしていいかな」
「本当は嫌だけど、引き受けようじゃないか」
まったく遠慮なしにおじさんがそう言うから、背中におぶさっていた私はおじさんの頬っぺたを軽くつねってやった。
「痛った、いきなり何するんだよキミは」
「おじさんがそんなこと言うのが悪いの」
「思っていることを正直に言って何が悪い」
「はは、嫌だと思うのは仕方ないよ。それでも手伝ってくれるなら、あたしゃ嬉しいよ。ありがとうね、優しいお兄さん」
優しいのはきっとおじさんじゃなくておばあちゃんの方だ。
店番を始めて少しすると、町の子供たちが駄菓子を買いにやってきた。
「あ、いつも堤防に座ってるおじさんだ!」
「ねぇねぇ、どこから来たの?」
「俺、ガムとアイスとキャラメル!」
子供は元気がいい。子供は風の子元気の子なんて言うけれど、駄菓子を買って店を出ていく一連の姿はさながらちょっとした台風みたいだ。
私も、あの子たちみたいに遊べたらな。友達と一緒に外を走り回って、山で虫取りしたり、川で水遊びしたり、海で魚を釣ったり。そういうの、小さい頃から一度もやったことがないや。この身体じゃ、満足に歩くこともできないんだから。
「ねぇおじさん」
「なんだ?」
「明日、一緒に遊ばない?」
「遊ばない」
「人助けするために旅してるんでしょ?これも人助けだと思ってさ」
「なら、明日他に困っているヒトがいないようなら付き合ってあげようじゃないか」
「やったぁ!ねぇ、何して遊ぶ?」
「なんでもいい。強いて言えばなるべく楽で時間がかからなくて疲れない遊びがいいね」
「そっか、じゃあ今夜のうちにいろいろ考えておくから、明日絶対遊ぼうね。約束だよ?」
私がおじさんに小指を伸ばすと、蛇のおじさんはやっぱり私の顔なんて見ずに、溜息をつきながら自分の小指を私の指に絡ませてくれた。
結局、次の日に私とおじさんが遊ぶことはなかった。
おじさんが遊んでくれなかったわけじゃなくて、私がおじさんに会いに行けなかったから。
***
「…………」
退屈だ。昨日あの女の子に遊んでくれという人助けを依頼されたが、いつも来る時間になっても彼女は来ない。見たところ病弱のようだから、今日は具合が悪いのかもしれないな。まぁどうだっていい。人助けができるなら相手が誰だろうと俺には関係ない。
この町に来てからはあの子が勝手に頼みごとを持ってきてくれていたから、久しぶりに自分の足で町を歩いて困っているヒトを探すのもいいだろう。今までだってそうしてきた。この町に来てからがおかしかっただけだ。
昨日買ったリンゴの最後の一つを芯まで食べ終え、俺は重い腰を上げた。今日も、日差しが眩しい。
初めて来たときも思ったが、本当に寂れた町だ。活気がなさすぎる。夏休みで遊んでいる町の子供たちが走り去っていく姿を時折見かける程度。車だってほとんど走っていない。山と海に囲まれた静かなこの町は、病弱なあの子が暮らす分にはちょうどいいのかもしれないな。どうでもいいけど。
結局困っているヒトを見つけられないまま半日が過ぎてしまった。やっぱり人通りが少ない町は人助けがままならない。昨日あの子に伝えたようにとっとと別の町に移った方がいいかもしれないなこれは。
空腹を感じて昨日と同じ青果店に顔を出した。別に通い詰めているつもりはないが、この町に来て数週間しか経っていない俺を店の店主はすっかり覚えてしまっているらしい。これだけ人が少ない町じゃ余所者が珍しいのも当然か。
「あ、お兄さん!」
店主の女は、いつもとは違う焦りの表情で俺を出迎えた。普段なら愛想のいい顔で何も言わずにリンゴを包んでくれるんだが。
「ちょっと、あの子のこと聞いた?」
「あの子のこと?」
いつも俺にくっついているあの女の子のことか?
「昨日の夜に容体が急変してね、山の麓の病院に救急搬送されたんだって。お兄さんあの子と仲が良かったみたいだから話した方がいいかと思って」
「そうなのか?」
仲が良いと町の住人たちからは思われているらしい。別に俺はあの子と仲良くしているつもりなんてこれっぽっちもないんだけど。
「今度お見舞いに行ってあげてね。ほら、リンゴ沢山包んでおいたから。あの子に会えたらよろしく伝えておいてね」
「ん、あぁ……分かったよ」
俺の言葉など聞こうともせず、店主はいつも俺に売っているときの倍近い量のリンゴを、これまた普段よりもいくらか装飾の凝った袋に包んで寄越してきた。
見舞いに行く。これも人助けか。
***
「あ、おじさん。来てくれたの?」
「青果屋のおばさんから話を聞いてね。ほら、おばさんからお見舞いだ」
私が担ぎ込まれた病室に入ってきた蛇のおじさんは、まるでサンタさんのプレゼントを入れた袋みたいに大きな包みを手渡してきた。
いつものように気遣いもなく乱雑に寄越してきたそれを、今の私は受け取ることができない。
「ごめん、今ちょっと身体が思うように動かなくて。包み、開けてくれないかな」
「やれやれ」
おじさんは溜息をつきながらその場で包みを解き、中からリンゴを一つ取り出した。
「わぁ、美味しそうなリンゴだね」
「いつもあの店で売っているものと変わらないだろ?」
「それでも美味しそうだよ。……あのさ」
「まさか食べさせてほしいなんて言わないだろうね?」
「……えへへ、当たり」
「まったく」
文句を言いながらおじさんは病室を出て、少ししたらお皿とフォークと包丁を持って戻ってきた。看護婦さんに借りてきたのかな。私の横になっているベッドの傍に椅子を置いて、リンゴを手で回しながら器用に皮を剥いてくれた。
「わぁ、すごい。おじさん器用だね」
「伊達に何千年も人助けはしてないからね」
「何千年?」
「そう、何千年」
「あのさ、おじさん。おじさんが普段前髪で隠してるその右目って」
「また見たいのか?別にいいけど」
別にいいよ、と言うより先におじさんは前髪を上げて隠していた右目を露わにした。最初に会った時と変わらず、そこには私と同じ眼球がなかった。代わりにあったのは、縦に長い瞳孔を持ったまるで宝石みたいな瞳。そしてその右目の周りの皮膚は、緑がかった細かい鱗のようなもので覆われていた。
「どうしておじさんはそんな蛇みたいな目をしてるの?」
「だから言っただろう。俺は蛇だからだ」
「でも、右目以外は私と変わらないよ?」
「元々俺は蛇で、いろいろあってキミたちと同じヒトの姿にされちゃったんだよ」
「いろいろって?」
「絶対食べちゃいけないって言われていたリンゴを食べさせたんだ、ある二人に」
蛇のおじさんは前髪を下ろすと、また器用にリンゴの皮を剥き始めた。
「どうして、食べさせようと思ったの?」
「ん?別に深い理由なんてないよ。ただからかってみただけだ。強いて言えば嫉妬、かな」
「嫉妬?」
「俺よりも優れていて、俺よりも愛されていたあの二人が気に入らなかったから、食べちゃいけないって言われていたリンゴを食べさせた。そして二人はずっと暮らしていた家を追い出されて、二人を誑かした俺も追い出された」
おじさんはリンゴの皮を剥き終えると、今度はそれを皿の上に置いて剥きたての果肉に包丁を差し込んだ。水気を感じさせるリンゴを切る音が病室に響く。
「そっか、だから人助けしてるんだ」
「なにが?」
「人助けすることで許してもらおうとしてるんじゃないの?」
「別に許してもらいたいわけじゃないけどね。追い出されたときに命令されたんだ。“死すべき運命を背負ってしまった彼らのために善行を積め”ってね。わざわざ俺が一番嫌っていたヒトの姿に俺を変えて」
「“死すべき運命”?」
「まぁ、キミには難しい話だよ」
一口で食べられる程度の大きさまで切り分けられたリンゴを皿に盛りつけると、蛇のおじさんはそのうち一つをフォークで刺して私の口元に無言で運んでくれた。
「えへへ」
「何がおかしいんだい?」
「やっとおじさんにリンゴ分けてもらえたから」
「分けるもなにも、このリンゴはそもそも青果屋のおばさんがキミに寄越したものなんだから、キミが食べて当然だろう?」
「それでも、嬉しかったの」
「変な子だな、キミは」
「うん、変な子だよ。私」
「やれやれ」
蛇のおじさんは沢山溜息をついたり文句を言ったりしてたけど、日が暮れるまで私の傍にいてくれた。次の日も、その次の日も、おじさんは来てくれた。駄菓子屋のおばあちゃんからお見舞いを持っていくよう頼まれたとか、仕事に行くお父さんたちの代わりに私を見ているよう頼まれたとか、いつも面倒くさそうな顔をしていたけれど。でも、どんな理由でもおじさんが毎日私に会いに来てくれることが、私はたまらなく嬉しかった。
***
「あ、蛇のおじさん」
いつも通り町を歩いていると、見知らぬ女の子に声をかけられた。見たところ今入院しているあの子とそう変わらない。同級生だろうか。しかし、誰が広めたのか知らないが、最近は町の見知らぬ人からも“蛇のおじさん”と呼ばれることが増えた。別に何か問題があるわけじゃないがせめてお兄さんと呼んでくれ。あの子にも言った気がするが。
「おじさん、あの子のお見舞いに行ってくれてるんですよね」
「あぁ。不本意だけど」
「じゃあ、これ、あの子に渡しておいてくれませんか?」
そう言って渡されたのは、落ち着いた色合いの袋に包まれた四角い何か。おそらく書籍の類だろう。
「俺は基本頼まれたことは引き受けるしこれを渡すことも構わないが、どうしてわざわざ俺を通すんだ?キミが直接渡せばいいだろう」
「いや、できればそうしたいんですけど、あんまりあの子と話したことなくって」
「接点もないのに見舞いの品を贈るなんて、変わってるんだな」
「クラスメイトだから気にはしますよ。友達だ、って手放しに言えるわけじゃないですけど、私が学校で困ってた時に何度か助けてもらったことがあったので。それに、あの子が良い人だってことはみんな分かってると思いますから」
よろしく伝えておいてください。そう言って少女は去っていった。
その背中を見つめながら、この町に来て何度目になるか分からない溜息を漏らす。ここ数日、町の誰かしらに声をかけられてあの子への見舞いの品だの言付けだのを頼まれることが多い。どいつもこいつもどうして俺に頼むんだ。俺が人助けをしていて頼めば断らないってあの子から聞きでもしたのか?
結局、俺は今日もあの子の病室へ向かう羽目になった。
「あ、おじさん。おはよう」
「あぁ。またキミに見舞いの品だ。キミのクラスメイトだとか言っていたよ」
預かったプレゼントを渡すと、彼女は以前より弱った表情を僅かに輝かせた。
「わぁ、嬉しいな。……あれ、手紙かなこれ?」
彼女が包みを解くと、中から小ぶりな本が一冊と薄っぺらい便箋が出てきた。便箋を手に取り、書かれた言葉に目を走らせた彼女は、静かに目を閉じた。
「なんて書いてあったんだ?」
「元気になったら一緒に遊ぼうねって」
「そうか、よかったじゃないか」
「うん、嬉しい、な……」
彼女は閉じたままの瞳から大粒の涙を零しはじめ、そしてすぐに顔を歪めた。
「泣くほど嬉しかったのか?」
「うん……っ、うれ、しい、よ…………」
嬉しさのあまり涙を流す彼女は、ずっとずっと泣き続けた。何がそんなに嬉しくて泣いているのか、俺には理解できなかったしどうでもいいが。
ようやく彼女が泣き止む頃には、もうすっかり日が落ちかけていた。病室の窓からから見える空は赤く染まり、いつも堤防から見ていた水平線には夕日が沈みかけている。
「はぁ。泣いた泣いた」
「気は済んだのか?」
「うん。ねぇ、おじさん」
「なんだい?」
「私と、遊んで欲しいな」
「遊ぶのは結構だけど、何して遊ぶんだ?まだ外に出ることもできないんだろう?」
「大丈夫。この間ね、他の病室にいるおじいさんに借りたの」
そう言って彼女が取り出したのは、トランプよりもさらに小ぶりな、花や植物の絵が描かれた札の束だった。
「花札か」
「おじさん知ってるの?」
「年寄りの世話をした経験も数えきれないほどあるからね。花札の相手をしてあげたこともある」
「良かった。ルール、おじいさんに聞いたんだけど全然分かんなくて」
「ルールが分からないものを借りたのかキミは」
「蛇のおじさんいろんなところ旅してるって言ってたし、詳しいかなって。正解だったみたい」
「やれやれ」
その後俺は、要領の悪い彼女に花札のルールを教えてやった。一通り教えた後で実際に対戦したが、すべて俺の勝ち。
でも、負けているというのに彼女は少しも悔しそうな顔をせず、楽しそうに何度も何度も再戦を申し出て。結局その日は、看護婦に怒られるくらい夜遅くまで彼女と花札で遊んでやる羽目になった。
***
「おじさん、きて、くれたんだ」
「無理に喋らなくていい」
いつもは無遠慮な蛇のおじさんがそんなことを言うなんて、今の私はどれだけひどい顔をしているんだろう。もうすぐ八月が終わろうとしているけれど、私の体調は一向に良くならなかった。声を出すことも、満足にできないほどに。
「さっき病院前の花屋で貰ってきた。キミにお見舞いだそうだ」
「うれしい、な」
おじさんは枕元の机に色とりどりの花が詰められたバスケットをそっと置いて、いつも通り私のベッド傍に腰かけた。
何か話をしたいけど、声を上手く出せない今の私じゃ、楽しくおしゃべりすることはできないんだろうな。
おじさんはいつも通りのどこか少し面倒くさそうな顔でこっちを見ている。そのことが少しだけ私を安心させた。
「お、じさん」
「なんだい?」
「このなつ、たのしか、った?」
「別に、取り立てて楽しいことはなかったな」
「わたしは、たのしかったよ」
「そうか、良かったじゃないか」
蛇のおじさんはそう言うけれど、その表情はまったく喜ばしい顔をしていない。多分、本当に私のことはどうでもいいと思ってるんだろうな。
でも。
「おじ、さんの、おかげ」
「俺は何もしてない。何かあったんだとしたら、それはキミの行動の結果だよ」
私の行動の結果。
やっぱりあの日、蛇のおじさんに声をかけたのは、正解だったんだ。
▼▼▼
「あの~?」
一人で車椅子に乗って家に帰っていた時、私の膝に突然リンゴが降ってきた。驚いて上を見ると、そこには車椅子に座っている今の私よりもいくらか高い堤防があって、そこに黒い服を着た知らない誰かが座っていて、その傍らにリンゴの入った袋が口を開けていた。きっとこの人が落としたんだ。
「これ、あなたのですか?」
私の声に気付いた黒い服の人は、私の持っているリンゴを見て自分が落としてしまったことに気付いたみたい。少し高い堤防を飛び降りて、私の元に寄ってきた。
飛び降りた時に男の人の前髪が一瞬風に揺れて、その下に蛇みたいな瞳が見えたような気がした。
「ごめんね、ありがとうお嬢さん」
男の人は、私からリンゴを受け取るとまた堤防の上に戻ろうとする。私は、反射的にその人を呼び止めた。
「あ、あの!」
「?」
ただ、対等な目線で接してくれる人が欲しかった。私のことを特別扱いしない人と出会いたかった。
この夏を、誰かと一緒に過ごしたかった。
「リンゴ、私も食べていいですか?」
▲▲▲
私が頑張って声をかけたからかもしれない。
でも、この夏が楽しかったのはやっぱり、蛇のおじさんがいてくれたから。
「おじ、さん」
「ん?」
「あり、がとう」
「だから礼を言われるようなことはしてないよ。俺はそうするよう言われたから人助けをしてるだけだ」
確かにおじさんにとってはそうかもしれないけど。本当は人助けなんてしたくないのかもしれないけど。本当に私のことなんてどうでもいいのかもしれないけど。
でも、私にとっては幸せだったんだ。おじさんと一緒に沢山人助けをしたことも、おじさんと沢山お話したことも、おじさんが沢山私と遊んでくれたことも。
おじさんに見守られながら、私は深い深い眠りについた。
***
子供たちの夏休みが終わった日、あの子が死んだ。
葬儀には意外にもそれなりの数の人が訪れ、両親ほどではないが彼女の死を悼んでいた。友達がいないなんてあの子は言っていたが、なんだかんだ彼女のことを気にかけてくれる人は大勢いたんだな。俺と違って、普段の振る舞いや行いが良かったんだろう。
こうしてヒトの死を見るのももう慣れた。ヒトという生き物を“死すべき運命”に追いやった立場としては、特に思うことはない。いつもなら誰でもない誰かの死を見るたびにざまぁみろと嘲笑っていたはずなのに、どうしてか今回に関してはあの子の死を嗤うことはできなかった。
俺があの子を殺したようなものだから?
まぁ、どうでもいい。永く生きていればそういうこともあるだろう。
あの子がいなくなった今、もうこの町に長居する必要もない。
町を出る前にいつもの青果店にリンゴを買いに行くと、店主の女性がこちらが要求したものとは別に包みを差し出した。
「ん?おばさん、これは?」
「あんた、まだあの子の墓参りに行ってないんだろ?行ってきてあげな」
別に墓参りなんて行く気はない、とはなぜか言えず、結局俺は店主に持たされたモノをあの子の墓まで持っていった。あの子の墓は、見晴らしのいい町の小高い丘の上に建っていた。海が遠くまでよく見える。
「随分良いところに眠らされたもんだね」
俺は青果屋で渡された包みを彼女の墓前に置く。中身は、リンゴ。日持ちするとは思えないが、あの子の家も知らない俺にはここ以外に贈り先のあてがない。傷まないうちに身内がここに来てくれるのを祈るしかないだろう。ヒトの文化に興味はないが、この国だと墓の前では手を合わせるんだったか。まぁ、倣うつもりもないけど。
そのまま墓を去ろうとしたとき、ふとあの子の声が聞こえた気がした。
「おじさん」
「?……気のせいか」
振り向いたがそこにあるのは彼女の墓だけで、他には誰もいない。当然だ。
ふと、彼女の墓石に刻まれた名前に目が留まった。
「……波音」
そういえば、あの子の名前を呼んだことは今まで一度もなかったな。
まぁ、いいか。
俺は次の町へ向かう。きっと俺はこの先も、望まぬ善行を積み続けるんだろう。
「だからその呼び方はやめてもらえないかなお嬢さん?せめてお兄さんと呼んでもらいたいね」
“蛇のおじさん”と彼を呼ぶと、彼は決まってそう言う。でも、これ以外に彼をどう呼べばいいのか分からない私は、結局毎度彼のことをそう呼ぶしかないんだ。
「駄菓子屋のおばあちゃんが腰を痛めて寝込んでるから、今日代わりに店番をやってくれる人を探してるんだって」
「そうか、まったくやる気はないけれど、仕方ないから手伝ってあげようじゃないか」
突き刺すように日差しが照りつける夏だというのに蛇のおじさんは今日もいつもと同じ黒のシャツに黒いスキニーを着ていて、服の袖は捲っているけれど見ていてとても暑そう。前髪だっていつも右目が隠れるくらい伸びてるのに。でも蛇のおじさんはいつだって涼しい顔をして、この町のいろんなところからやってくる頼みごとを文句を言いながらも引き受けてくれる。
どうしてかは分からないけれど、おじさんは人助けをするためにいろんな町を渡り歩いているらしい。
旅の人。そんな現実離れした人が本当にいるなんて、今年やっと高校生になったばかりの私は今まで信じていなかった。このおじさんに会うまでは。
「それでお嬢さん。その駄菓子屋さんっていうのはどこにあるのかな?」
「あっちの角を左に曲がって……というか、私だって“お嬢さん”なんて名前じゃないもん。前にも言ったけど私の名前は———」
「君の名前なんてどうだっていい。ヒトに興味なんてないんだ」
「じゃあ人助けだと思ってさ」
「たかが名前を呼ぶだけのことを人助けとは思えないが」
おじさんはそう言って私が乗っている車椅子を何の遠慮もなしに押し始める。その所作一つとっても、この人が他人なんてどうでもいいと思っているのは本心なんだということを私は毎度実感する。
でも、それをどこか小気味いいと思っている私もいた。私に無遠慮に接してくれる人なんて、今まで一人もいなかったから。
物心ついた頃から私は体が弱かった。学校だって満足に通えなかったし、十歳になる前に大病を患って一年近く入院生活を強いられた。それからは入院と退院を繰り返すばかり。この小さな町の学校が車椅子での通学と授業を許してくれていなかったら私はきっと今高校生を名乗ることはできていなかったと思う。
両親は、そんな私を箱に仕舞っておくみたいに大事に大事に育ててくれた。まるで壊れ物を扱うみたいに。それが両親の愛情の深さによるものだっていうことは私も理解していたし、私を大事に想ってくれる二人のことが私も大好き。
友達は、いない。別に嫌われていたということはないと思うし、私から話しかけて嫌な顔をする人はいなかった。ただ、私が病弱だから接し方がみんな分かっていないんだと思う。それは仕方ないと思うし、歓迎とはいかなくても邪険にもしない他のクラスメイト達には感謝してる。
だから、この蛇のおじさんが私に対して何の気遣いもせずに接してくれるということが、私は素直に嬉しかった。初めて、誰かと対等に話すことができている気がしたから。
「そこの農協を過ぎた先にあるよ」
「あぁ、分かった」
「おじさん、この町に来てどのくらい?」
「今日で半月」
車椅子に座った状態で上を向くと、私のことなんて一瞥もくれずに無表情でそう返事をしているおじさんの顔が見えた。下から見ても汗一つかいていない。本当に暑くないのかな。
「この町にはもう慣れた?」
「慣れが必要なほど人が多いわけでも、ルールが厳しいわけでもないだろう?というか、ルールだとか規制が厳しい町なんだったら俺はとっくにこの町を出てるよ。そういうの嫌いだから」
「どうして?」
「生物としての本能をルールや決まり事っていう理性的な思考で抑え込むなんて馬鹿げてる。この世界の生き物はもっと自由で開放的な生き方をするべきだ」
「なんか難しいこと言うんだねおじさん」
「俺は何も難しいことなんて言ってないぜ?むしろ難しく考えてしまうのは君たちヒトの悪い癖だ。義務だとか倫理だとか常識だとかそんなの捨てて、欲望に忠実に生きればいい。だから俺はあの時二人に———」
「あ、おじさん。そこの青果屋さんでリンゴが安いよ。買っていったら?」
「なんで?」
「だっておじさん、いつもリンゴ食べてるでしょ?」
「四六時中食べてるわけじゃあないんだけどな」
そう言いながらも蛇のおじさんは私を乗せた車椅子の進路を変えて青果屋さんに入る。店の顔見知りのおばさんは私達を見ると陽気な笑顔を浮かべた。
「あらいらっしゃい。お兄さん、いつものやつ?」
「あぁ、いつもので頼むよ」
「はいよ」
おばさんはそれだけ言うといそいそと商品棚に置かれていた真っ赤なリンゴをいくつか手に取り、手際よく袋に包んで蛇のおじさんに手渡した。なんだ、やっぱりおじさんいつもここでリンゴ買ってるんだ。
「お代は?」
「いらないよ。この間うちの旦那の漁を手伝ってくれたんだろ?今日はサービスしといてあげる」
「そうか、ならありがたく受け取っておこう」
またよろしくね、という青果屋のおばさんの声を背に蛇のおじさんは車椅子を押して店を出た。リンゴの入った袋から一つを取り出し、残った袋を私の膝元に置く。
「私も一個食べていい?」
「ダメだ」
「ケチ」
「君にあげる理由もないだろう?」
「いつも蛇のおじさんにお仕事あげてるじゃない」
「君が勝手に俺に教えてるだけだ」
「あー、そんなこと言うならもうお仕事教えてあげない」
「どうぞご自由に。そうなったら俺は次の仕事を求めてもっと大きな町に行くとするよ」
「むぅー」
「というか、どうして君は俺に構うんだ?どこの馬の骨ともつかない素性の知れん男だぞ?年頃の女の子が関わるべきじゃないと、理性的な大人達なら口を揃えて言うんじゃないのか?」
「私、今夏休みだし」
「ヒトの子供たちが学業を休んでいる期間のことだろう。それとこれがどう結びつくっていうんだ?」
「遊びたいの」
「なら学校の友達と遊べばいいだろう。あ、もしかしてキミ友達がいないのか」
「あはは、当たり」
「特に同情はしないけど、遊び相手が欲しいなら他をあたるといい」
「あたる他がこの小さな町にどのくらいいると思う?」
「……なるほど、悔しいけど一理ある」
遊んであげる。
その一言を蛇のおじさんに言ってもらえないまま、駄菓子屋についた。おじさんに頼んで車椅子から抱え上げてもらい(文句は言われたけど)店の奥へ上がらせてもらうと、さっき来た時と同じように駄菓子屋のおばあちゃんが扇風機の風を受けて布団で横になっていた。
「おばあちゃん、さっき言ってた店番してくれる人、連れてきたよ」
「あぁ、ありがとうね。お兄さん、すまないけどお願いしていいかな」
「本当は嫌だけど、引き受けようじゃないか」
まったく遠慮なしにおじさんがそう言うから、背中におぶさっていた私はおじさんの頬っぺたを軽くつねってやった。
「痛った、いきなり何するんだよキミは」
「おじさんがそんなこと言うのが悪いの」
「思っていることを正直に言って何が悪い」
「はは、嫌だと思うのは仕方ないよ。それでも手伝ってくれるなら、あたしゃ嬉しいよ。ありがとうね、優しいお兄さん」
優しいのはきっとおじさんじゃなくておばあちゃんの方だ。
店番を始めて少しすると、町の子供たちが駄菓子を買いにやってきた。
「あ、いつも堤防に座ってるおじさんだ!」
「ねぇねぇ、どこから来たの?」
「俺、ガムとアイスとキャラメル!」
子供は元気がいい。子供は風の子元気の子なんて言うけれど、駄菓子を買って店を出ていく一連の姿はさながらちょっとした台風みたいだ。
私も、あの子たちみたいに遊べたらな。友達と一緒に外を走り回って、山で虫取りしたり、川で水遊びしたり、海で魚を釣ったり。そういうの、小さい頃から一度もやったことがないや。この身体じゃ、満足に歩くこともできないんだから。
「ねぇおじさん」
「なんだ?」
「明日、一緒に遊ばない?」
「遊ばない」
「人助けするために旅してるんでしょ?これも人助けだと思ってさ」
「なら、明日他に困っているヒトがいないようなら付き合ってあげようじゃないか」
「やったぁ!ねぇ、何して遊ぶ?」
「なんでもいい。強いて言えばなるべく楽で時間がかからなくて疲れない遊びがいいね」
「そっか、じゃあ今夜のうちにいろいろ考えておくから、明日絶対遊ぼうね。約束だよ?」
私がおじさんに小指を伸ばすと、蛇のおじさんはやっぱり私の顔なんて見ずに、溜息をつきながら自分の小指を私の指に絡ませてくれた。
結局、次の日に私とおじさんが遊ぶことはなかった。
おじさんが遊んでくれなかったわけじゃなくて、私がおじさんに会いに行けなかったから。
***
「…………」
退屈だ。昨日あの女の子に遊んでくれという人助けを依頼されたが、いつも来る時間になっても彼女は来ない。見たところ病弱のようだから、今日は具合が悪いのかもしれないな。まぁどうだっていい。人助けができるなら相手が誰だろうと俺には関係ない。
この町に来てからはあの子が勝手に頼みごとを持ってきてくれていたから、久しぶりに自分の足で町を歩いて困っているヒトを探すのもいいだろう。今までだってそうしてきた。この町に来てからがおかしかっただけだ。
昨日買ったリンゴの最後の一つを芯まで食べ終え、俺は重い腰を上げた。今日も、日差しが眩しい。
初めて来たときも思ったが、本当に寂れた町だ。活気がなさすぎる。夏休みで遊んでいる町の子供たちが走り去っていく姿を時折見かける程度。車だってほとんど走っていない。山と海に囲まれた静かなこの町は、病弱なあの子が暮らす分にはちょうどいいのかもしれないな。どうでもいいけど。
結局困っているヒトを見つけられないまま半日が過ぎてしまった。やっぱり人通りが少ない町は人助けがままならない。昨日あの子に伝えたようにとっとと別の町に移った方がいいかもしれないなこれは。
空腹を感じて昨日と同じ青果店に顔を出した。別に通い詰めているつもりはないが、この町に来て数週間しか経っていない俺を店の店主はすっかり覚えてしまっているらしい。これだけ人が少ない町じゃ余所者が珍しいのも当然か。
「あ、お兄さん!」
店主の女は、いつもとは違う焦りの表情で俺を出迎えた。普段なら愛想のいい顔で何も言わずにリンゴを包んでくれるんだが。
「ちょっと、あの子のこと聞いた?」
「あの子のこと?」
いつも俺にくっついているあの女の子のことか?
「昨日の夜に容体が急変してね、山の麓の病院に救急搬送されたんだって。お兄さんあの子と仲が良かったみたいだから話した方がいいかと思って」
「そうなのか?」
仲が良いと町の住人たちからは思われているらしい。別に俺はあの子と仲良くしているつもりなんてこれっぽっちもないんだけど。
「今度お見舞いに行ってあげてね。ほら、リンゴ沢山包んでおいたから。あの子に会えたらよろしく伝えておいてね」
「ん、あぁ……分かったよ」
俺の言葉など聞こうともせず、店主はいつも俺に売っているときの倍近い量のリンゴを、これまた普段よりもいくらか装飾の凝った袋に包んで寄越してきた。
見舞いに行く。これも人助けか。
***
「あ、おじさん。来てくれたの?」
「青果屋のおばさんから話を聞いてね。ほら、おばさんからお見舞いだ」
私が担ぎ込まれた病室に入ってきた蛇のおじさんは、まるでサンタさんのプレゼントを入れた袋みたいに大きな包みを手渡してきた。
いつものように気遣いもなく乱雑に寄越してきたそれを、今の私は受け取ることができない。
「ごめん、今ちょっと身体が思うように動かなくて。包み、開けてくれないかな」
「やれやれ」
おじさんは溜息をつきながらその場で包みを解き、中からリンゴを一つ取り出した。
「わぁ、美味しそうなリンゴだね」
「いつもあの店で売っているものと変わらないだろ?」
「それでも美味しそうだよ。……あのさ」
「まさか食べさせてほしいなんて言わないだろうね?」
「……えへへ、当たり」
「まったく」
文句を言いながらおじさんは病室を出て、少ししたらお皿とフォークと包丁を持って戻ってきた。看護婦さんに借りてきたのかな。私の横になっているベッドの傍に椅子を置いて、リンゴを手で回しながら器用に皮を剥いてくれた。
「わぁ、すごい。おじさん器用だね」
「伊達に何千年も人助けはしてないからね」
「何千年?」
「そう、何千年」
「あのさ、おじさん。おじさんが普段前髪で隠してるその右目って」
「また見たいのか?別にいいけど」
別にいいよ、と言うより先におじさんは前髪を上げて隠していた右目を露わにした。最初に会った時と変わらず、そこには私と同じ眼球がなかった。代わりにあったのは、縦に長い瞳孔を持ったまるで宝石みたいな瞳。そしてその右目の周りの皮膚は、緑がかった細かい鱗のようなもので覆われていた。
「どうしておじさんはそんな蛇みたいな目をしてるの?」
「だから言っただろう。俺は蛇だからだ」
「でも、右目以外は私と変わらないよ?」
「元々俺は蛇で、いろいろあってキミたちと同じヒトの姿にされちゃったんだよ」
「いろいろって?」
「絶対食べちゃいけないって言われていたリンゴを食べさせたんだ、ある二人に」
蛇のおじさんは前髪を下ろすと、また器用にリンゴの皮を剥き始めた。
「どうして、食べさせようと思ったの?」
「ん?別に深い理由なんてないよ。ただからかってみただけだ。強いて言えば嫉妬、かな」
「嫉妬?」
「俺よりも優れていて、俺よりも愛されていたあの二人が気に入らなかったから、食べちゃいけないって言われていたリンゴを食べさせた。そして二人はずっと暮らしていた家を追い出されて、二人を誑かした俺も追い出された」
おじさんはリンゴの皮を剥き終えると、今度はそれを皿の上に置いて剥きたての果肉に包丁を差し込んだ。水気を感じさせるリンゴを切る音が病室に響く。
「そっか、だから人助けしてるんだ」
「なにが?」
「人助けすることで許してもらおうとしてるんじゃないの?」
「別に許してもらいたいわけじゃないけどね。追い出されたときに命令されたんだ。“死すべき運命を背負ってしまった彼らのために善行を積め”ってね。わざわざ俺が一番嫌っていたヒトの姿に俺を変えて」
「“死すべき運命”?」
「まぁ、キミには難しい話だよ」
一口で食べられる程度の大きさまで切り分けられたリンゴを皿に盛りつけると、蛇のおじさんはそのうち一つをフォークで刺して私の口元に無言で運んでくれた。
「えへへ」
「何がおかしいんだい?」
「やっとおじさんにリンゴ分けてもらえたから」
「分けるもなにも、このリンゴはそもそも青果屋のおばさんがキミに寄越したものなんだから、キミが食べて当然だろう?」
「それでも、嬉しかったの」
「変な子だな、キミは」
「うん、変な子だよ。私」
「やれやれ」
蛇のおじさんは沢山溜息をついたり文句を言ったりしてたけど、日が暮れるまで私の傍にいてくれた。次の日も、その次の日も、おじさんは来てくれた。駄菓子屋のおばあちゃんからお見舞いを持っていくよう頼まれたとか、仕事に行くお父さんたちの代わりに私を見ているよう頼まれたとか、いつも面倒くさそうな顔をしていたけれど。でも、どんな理由でもおじさんが毎日私に会いに来てくれることが、私はたまらなく嬉しかった。
***
「あ、蛇のおじさん」
いつも通り町を歩いていると、見知らぬ女の子に声をかけられた。見たところ今入院しているあの子とそう変わらない。同級生だろうか。しかし、誰が広めたのか知らないが、最近は町の見知らぬ人からも“蛇のおじさん”と呼ばれることが増えた。別に何か問題があるわけじゃないがせめてお兄さんと呼んでくれ。あの子にも言った気がするが。
「おじさん、あの子のお見舞いに行ってくれてるんですよね」
「あぁ。不本意だけど」
「じゃあ、これ、あの子に渡しておいてくれませんか?」
そう言って渡されたのは、落ち着いた色合いの袋に包まれた四角い何か。おそらく書籍の類だろう。
「俺は基本頼まれたことは引き受けるしこれを渡すことも構わないが、どうしてわざわざ俺を通すんだ?キミが直接渡せばいいだろう」
「いや、できればそうしたいんですけど、あんまりあの子と話したことなくって」
「接点もないのに見舞いの品を贈るなんて、変わってるんだな」
「クラスメイトだから気にはしますよ。友達だ、って手放しに言えるわけじゃないですけど、私が学校で困ってた時に何度か助けてもらったことがあったので。それに、あの子が良い人だってことはみんな分かってると思いますから」
よろしく伝えておいてください。そう言って少女は去っていった。
その背中を見つめながら、この町に来て何度目になるか分からない溜息を漏らす。ここ数日、町の誰かしらに声をかけられてあの子への見舞いの品だの言付けだのを頼まれることが多い。どいつもこいつもどうして俺に頼むんだ。俺が人助けをしていて頼めば断らないってあの子から聞きでもしたのか?
結局、俺は今日もあの子の病室へ向かう羽目になった。
「あ、おじさん。おはよう」
「あぁ。またキミに見舞いの品だ。キミのクラスメイトだとか言っていたよ」
預かったプレゼントを渡すと、彼女は以前より弱った表情を僅かに輝かせた。
「わぁ、嬉しいな。……あれ、手紙かなこれ?」
彼女が包みを解くと、中から小ぶりな本が一冊と薄っぺらい便箋が出てきた。便箋を手に取り、書かれた言葉に目を走らせた彼女は、静かに目を閉じた。
「なんて書いてあったんだ?」
「元気になったら一緒に遊ぼうねって」
「そうか、よかったじゃないか」
「うん、嬉しい、な……」
彼女は閉じたままの瞳から大粒の涙を零しはじめ、そしてすぐに顔を歪めた。
「泣くほど嬉しかったのか?」
「うん……っ、うれ、しい、よ…………」
嬉しさのあまり涙を流す彼女は、ずっとずっと泣き続けた。何がそんなに嬉しくて泣いているのか、俺には理解できなかったしどうでもいいが。
ようやく彼女が泣き止む頃には、もうすっかり日が落ちかけていた。病室の窓からから見える空は赤く染まり、いつも堤防から見ていた水平線には夕日が沈みかけている。
「はぁ。泣いた泣いた」
「気は済んだのか?」
「うん。ねぇ、おじさん」
「なんだい?」
「私と、遊んで欲しいな」
「遊ぶのは結構だけど、何して遊ぶんだ?まだ外に出ることもできないんだろう?」
「大丈夫。この間ね、他の病室にいるおじいさんに借りたの」
そう言って彼女が取り出したのは、トランプよりもさらに小ぶりな、花や植物の絵が描かれた札の束だった。
「花札か」
「おじさん知ってるの?」
「年寄りの世話をした経験も数えきれないほどあるからね。花札の相手をしてあげたこともある」
「良かった。ルール、おじいさんに聞いたんだけど全然分かんなくて」
「ルールが分からないものを借りたのかキミは」
「蛇のおじさんいろんなところ旅してるって言ってたし、詳しいかなって。正解だったみたい」
「やれやれ」
その後俺は、要領の悪い彼女に花札のルールを教えてやった。一通り教えた後で実際に対戦したが、すべて俺の勝ち。
でも、負けているというのに彼女は少しも悔しそうな顔をせず、楽しそうに何度も何度も再戦を申し出て。結局その日は、看護婦に怒られるくらい夜遅くまで彼女と花札で遊んでやる羽目になった。
***
「おじさん、きて、くれたんだ」
「無理に喋らなくていい」
いつもは無遠慮な蛇のおじさんがそんなことを言うなんて、今の私はどれだけひどい顔をしているんだろう。もうすぐ八月が終わろうとしているけれど、私の体調は一向に良くならなかった。声を出すことも、満足にできないほどに。
「さっき病院前の花屋で貰ってきた。キミにお見舞いだそうだ」
「うれしい、な」
おじさんは枕元の机に色とりどりの花が詰められたバスケットをそっと置いて、いつも通り私のベッド傍に腰かけた。
何か話をしたいけど、声を上手く出せない今の私じゃ、楽しくおしゃべりすることはできないんだろうな。
おじさんはいつも通りのどこか少し面倒くさそうな顔でこっちを見ている。そのことが少しだけ私を安心させた。
「お、じさん」
「なんだい?」
「このなつ、たのしか、った?」
「別に、取り立てて楽しいことはなかったな」
「わたしは、たのしかったよ」
「そうか、良かったじゃないか」
蛇のおじさんはそう言うけれど、その表情はまったく喜ばしい顔をしていない。多分、本当に私のことはどうでもいいと思ってるんだろうな。
でも。
「おじ、さんの、おかげ」
「俺は何もしてない。何かあったんだとしたら、それはキミの行動の結果だよ」
私の行動の結果。
やっぱりあの日、蛇のおじさんに声をかけたのは、正解だったんだ。
▼▼▼
「あの~?」
一人で車椅子に乗って家に帰っていた時、私の膝に突然リンゴが降ってきた。驚いて上を見ると、そこには車椅子に座っている今の私よりもいくらか高い堤防があって、そこに黒い服を着た知らない誰かが座っていて、その傍らにリンゴの入った袋が口を開けていた。きっとこの人が落としたんだ。
「これ、あなたのですか?」
私の声に気付いた黒い服の人は、私の持っているリンゴを見て自分が落としてしまったことに気付いたみたい。少し高い堤防を飛び降りて、私の元に寄ってきた。
飛び降りた時に男の人の前髪が一瞬風に揺れて、その下に蛇みたいな瞳が見えたような気がした。
「ごめんね、ありがとうお嬢さん」
男の人は、私からリンゴを受け取るとまた堤防の上に戻ろうとする。私は、反射的にその人を呼び止めた。
「あ、あの!」
「?」
ただ、対等な目線で接してくれる人が欲しかった。私のことを特別扱いしない人と出会いたかった。
この夏を、誰かと一緒に過ごしたかった。
「リンゴ、私も食べていいですか?」
▲▲▲
私が頑張って声をかけたからかもしれない。
でも、この夏が楽しかったのはやっぱり、蛇のおじさんがいてくれたから。
「おじ、さん」
「ん?」
「あり、がとう」
「だから礼を言われるようなことはしてないよ。俺はそうするよう言われたから人助けをしてるだけだ」
確かにおじさんにとってはそうかもしれないけど。本当は人助けなんてしたくないのかもしれないけど。本当に私のことなんてどうでもいいのかもしれないけど。
でも、私にとっては幸せだったんだ。おじさんと一緒に沢山人助けをしたことも、おじさんと沢山お話したことも、おじさんが沢山私と遊んでくれたことも。
おじさんに見守られながら、私は深い深い眠りについた。
***
子供たちの夏休みが終わった日、あの子が死んだ。
葬儀には意外にもそれなりの数の人が訪れ、両親ほどではないが彼女の死を悼んでいた。友達がいないなんてあの子は言っていたが、なんだかんだ彼女のことを気にかけてくれる人は大勢いたんだな。俺と違って、普段の振る舞いや行いが良かったんだろう。
こうしてヒトの死を見るのももう慣れた。ヒトという生き物を“死すべき運命”に追いやった立場としては、特に思うことはない。いつもなら誰でもない誰かの死を見るたびにざまぁみろと嘲笑っていたはずなのに、どうしてか今回に関してはあの子の死を嗤うことはできなかった。
俺があの子を殺したようなものだから?
まぁ、どうでもいい。永く生きていればそういうこともあるだろう。
あの子がいなくなった今、もうこの町に長居する必要もない。
町を出る前にいつもの青果店にリンゴを買いに行くと、店主の女性がこちらが要求したものとは別に包みを差し出した。
「ん?おばさん、これは?」
「あんた、まだあの子の墓参りに行ってないんだろ?行ってきてあげな」
別に墓参りなんて行く気はない、とはなぜか言えず、結局俺は店主に持たされたモノをあの子の墓まで持っていった。あの子の墓は、見晴らしのいい町の小高い丘の上に建っていた。海が遠くまでよく見える。
「随分良いところに眠らされたもんだね」
俺は青果屋で渡された包みを彼女の墓前に置く。中身は、リンゴ。日持ちするとは思えないが、あの子の家も知らない俺にはここ以外に贈り先のあてがない。傷まないうちに身内がここに来てくれるのを祈るしかないだろう。ヒトの文化に興味はないが、この国だと墓の前では手を合わせるんだったか。まぁ、倣うつもりもないけど。
そのまま墓を去ろうとしたとき、ふとあの子の声が聞こえた気がした。
「おじさん」
「?……気のせいか」
振り向いたがそこにあるのは彼女の墓だけで、他には誰もいない。当然だ。
ふと、彼女の墓石に刻まれた名前に目が留まった。
「……波音」
そういえば、あの子の名前を呼んだことは今まで一度もなかったな。
まぁ、いいか。
俺は次の町へ向かう。きっと俺はこの先も、望まぬ善行を積み続けるんだろう。
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