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Luna
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慎重に慎重に、自室の引き戸を開け、音をたてないように階段を下りる。階段を下りた先にある玄関で靴を回収し、そのままリビングを経由してキッチンへ。キッチンの奥にある家の裏口のドアを静かに開け、持ってきた靴を履く。
靴紐をきつめに結ぶと空を見上げ、肉眼で改めて今日の夜空の具合を確認する。
今日も、月は綺麗だ。
ポケットから取り出した錆びかけた鍵で外から裏口の鍵をかける。この鍵を見つけたのは本当に幸運だった。おかげで親に気付かれることなく夜の散歩を楽しめる。
そのまま俺は、檻から解放された獣のように、威勢よく夜の街へと繰り出した。
【月光症候群】。月光病とも呼ばれるその奇病の名が世界に広まったのは今から一年ほど前だ。
原因、感染経路、治療法。すべてが不明。分かっていることは、月の光を浴びることでその人の精神に何らかの異常をきたすということ。もちろん浴びれば誰でも発症するわけではなく個人差はあるし、精神に及ぼす影響も人によりけりだ。ただ、程度の差はあれ良い影響を受けるということはまずない。大抵の場合は身近な誰かを傷つけることがほとんど。月光病患者が原因で命を落とした人の数はたった一年間で一千万人を超えた。犠牲者がここまで膨れ上がった原因の一つに、月光病を発症した人間は周囲の人間を傷つけた後、多くの場合自滅するかのように命を落としていることがある。一度発症してしまえば精神を侵され、他人はもちろん自分自身の命すら平気で投げうってしまうのだそうだ。
だから世界各国では現在、不要な夜間の外出を原則として禁じている。どうしても夜間に外出する必要がある場合はフードや帽子、マスクにサングラスなどを着用して極力肌を見せず、人と接触しないことが求められている。
そんなご時世の中、今年で15歳になる俺はこうして毎晩夜中に家を抜け出して月の光を浴びまくっている。一切顔を隠したりはせず。
俺は月光病に焦がれていた。
自分も狂いたかった。
おかしくなってしまいたかった。
明確な理由なんてない。悲しい過去だとか人間関係に問題があるなんてこともない。極々ありきたりで普通の生活を過ごしている。
ただ、普通でいることをやめたかっただけだ。
普通に生きるっていうのはきっと気楽なんだろう。普通っていうのは他の人と同じってことだから。他人と同じようにありきたりに進学して、そこそこの会社に就職して、世間の目を気にして結婚なんてして、本能に抗えずに子供を作ったりして、そのまま家族だとか社会だとかのために何十年も働いて、気が付けば歳をとって周りの足を引っ張るだけの存在になって、あっけなく死んでいく。
そんな人生に何の意味があるんだ?
親の都合で勝手に生まれてきただけで、俺はこんな世界に生まれることも、社会に迎合して生きることも望んでいない。だけど幼少の頃から施された教育に起因する“理性”がそんな自分を縛りつける。お前は間違っていると、俺の中の“理性”が糾弾する。
だから、そんな邪魔な“理性”を消してくれる【月光症候群】は、俺にとっては福音だった。
夜中に家を抜け出すと、俺は決まって近くの自然公園に足を運ぶ。小さい頃から通っていたこの大きな公園は、昔からお気に入りの場所だった。緑が多いこの場所はどの季節に来ても美しい顔を見せてくれる。春には花見、夏は新緑、秋は紅葉、冬は雪景色。そして夜には木々の隙間から差し込む月の明かりがある。
大きな池にかかった橋を渡って少し行った先に、休憩用のベンチがぽつんと佇んでいる。ベンチの付近には老朽化で弱々しい光を放つ電灯以外に明かりはなく、電灯よりも夜空に浮かぶ月の光の方が明るいと思えるほどだ。そのもうボロボロで今にも崩れてしまいそうな木製のベンチに座る影を、自分は遠目に確認する。今日も“あの人”が来ていることに、心のどこかで安堵する。
「こんばんは」
「どうも」
ベンチに座っていた“彼女”は、俺の姿を確認すると優しい笑顔を浮かべて挨拶してくれる。そんな彼女にややぶっきらぼうに返事をしてしまう俺は、どうしようもなく子供なんだということを痛感してしまう。
▼▼▼
名前も知らないこの女性と出会ったのは一週間ほど前だ。
いつも通り夜に家を抜け出して当てもなく公園を歩いているときに、このベンチに座っている彼女と遭遇した。
夜中に誰かと出会うことはあれが初めてだった。このご時世に夜中にわざわざ公園に行くような人はいないし、もしいたとしてもマスクなりフードなりで顔を隠しているのが一般的だ。だから、出会った彼女が顔を隠さずに月夜に出歩いていたことに、自分は一種の共感を覚えたのだと思う。
それに、不思議と俺はその人と初めて会った気がしなかった。
だから、俺が彼女にかけた最初の一声はどうしようもなく距離感が迷子だった。
「月が綺麗ですね」
その言葉の意味を後になって調べて知った俺は、月光病ではなく恥ずかしさで気が狂いそうになった。
「……ふふっ。“私、死んでもいいわ”?」
それまで月を見上げてどこか虚ろな目をしていた彼女は、月の光にも負けない明るい笑顔を見せてくれた。
たったそれだけのやり取りで、俺は自分がどうしようもなく彼女に惹かれていることに気付いた。一目惚れというのはこういうことを言うのだろうか。あんなに普通の人生だとか恋愛に否定的だった俺が。けれど、その女性の左手の薬指に光り輝くものが見えたことで、俺のほんの僅かな気の迷いはあっさりとどこかに消え失せた。この人にはもう家庭があるんだ。
俺は、僅か5秒の間に初恋と失恋を経験した。
「ねぇ」
「えっ?」
「こんな夜中に一人で何してるの?」
女性が少し悪戯っぽい笑みで問いかける。月明かりに照らされたその少し不敵な笑みも、どうしようもなく俺の心を掴んで離さない。あぁ、くそ、調子が狂う。相手はもう結婚してるんだから、気にしちゃダメだ。見たところ歳は20代前半くらいだろうか。もしかしたらもう少し上かもしれないけど、20代の大学生と言っても十分通用する若さと美しさだと思った。
「えっと、散歩です」
「顔を隠さずに夜の散歩なんて、よほどのお馬鹿さんか死にたがりだよ?」
「そういうあなただって」
「私もきっと貴方と同じよ」
その時の彼女はどこか寂しそうな、けれど少し嬉しそうな、いろんな感情がない交ぜになった笑みを浮かべていた。まるで路頭に迷っていた野良犬が、自分と同じ行き倒れの犬と出会ったような。今でもあの顔が忘れられない。
▲▲▲
彼女の座るベンチに、間に一人分ほどのスペースを空けて腰を下ろす。本当はもう少し距離を近づけたいけれど、近づきすぎるとこの人の香りとか吐息を嫌というほど意識してしまう。女性っていうのはどうしてこんなに良い匂いがするんだろう。学校のクラスメイトの女子もそうだけど、香水とか石鹸の香りなんだろうか。
「今夜も月光病にかかりに来たの?」
「はい、聞かなくてももうご存じでしょう」
「日常会話だよ日常会話。君、細かいこと気にしてるとモテないぞ」
「余計なお世話です」
今夜も彼女はそんな風に俺をからかいながらとりとめのない話をする。ビールを飲みながら。
彼女と最初に出会った夜から毎晩こうして会っているが、ビールを欠かさなかった日は今のところ一度もない。
「この公園ってアルコールの持ち込みOKなんでしたっけ?前も聞いた気がしますけど」
「確か駄目だったんじゃなかったっけ。まぁこのご時世夜に出歩く人も、ましてや夜の公園に来るもの好きなんてそうそういないから大丈夫だよ」
「ここに一人いますけど」
「じゃあ君も飲めば共犯だね、一杯どう?」
「未成年にアルコール勧めないでください」
どういうわけか彼女はいつもこのベンチでビールを飲んでいる。月見酒だなんて言っているが、普通月見酒と言ったら日本酒とか焼酎が一般的なんじゃないだろうか。中学生の自分には酒のことはあまりよく分からないけれど。
「月光病にかかりたいなんて言ってるのに、この程度のルールも破れないんだね」
「それは、その……」
「まぁ、君の歳じゃまだお酒の美味しさは分からないだろうしね」
「馬鹿にしてるんですか」
「そんなことないよ」
一本目の缶ビールを飲み干したところで、不意に彼女が真顔になった。
「君は、世の中の普通の人こそむしろ異常だと思っているんでしょう?」
「まぁそうですね」
「私もそう。どうしてみんなが普通でいられるのかが分からない。きっと人間なんてみんなどこか狂っているのに、どうして普通を装っていられるんだろう」
俺と彼女は、不思議なほど価値観が似ていた。
夜に顔を隠さず外を出歩いている時点でおそらく彼女も自分と同じ、“狂っている”側の人間だろうということは察していたが、この一週間いろいろなことを話すうちに、驚くほど俺たちはいろいろなことで意見が一致した。そのことが、俺は喜ばしかった。意見が一致するなら、話が通じるのなら、誰かに話したいと思うことが俺には沢山あったからだ。
もしもう少し早く彼女と出会えていたなら、もっといろんな何かが変わっていたかもしれないと思うほどに。
「今夜も月が綺麗ね」
「…そうですね」
「“私、死んでもいいわ”って言わないの?」
「っ、からかわないでください」
「あはは!」
本当は俺だってそう言いたかった。もし言うことが許されるのなら、きちんと彼女の名前とか住所を聞いて、昼間に会って一緒にご飯に行ったり買い物したり、勉強を教えてもらったりとか、そういう普通の関係を築くことだってできるんだろう。
そうしたいのに、ただ結婚しているというだけの、子供の俺にとってはどうしようもない大人の世界が俺の前に立ち塞がる。
いっそ月光病で狂うことができたのなら、この人を無理やり自分のものにすることもできるのかもしれない。
いや、ダメだ。そんなこといけない。
どうしてなかなか、たった十年程度で自分の中に住み着いた“理性”というのはすっかり自分の思考に根付いてしまっているらしい。その事実がどうしようもなく自分を辟易させる。
「ねぇ」
「はい?」
「君さ、私のことが好きなんでしょ?」
いつもの悪戯っぽい笑みで彼女はそう言った。
しかしその目はどこか真っすぐこちらを見据えている。
「な、なに言いだすんですかいきなり。相手が子供だからって馬鹿にするのも大概にしてください」
「女って男の人のそういう目とか雰囲気には敏感なのよ」
「そもそも、もうご結婚されてるんでしょう」
「いいよ、君のものになっても」
「え?」
「私は結婚して子供もいるし主人と息子を愛してるけど、でも、君のものになってもいい。その方法が一つだけあるとしたらどうする?」
「なんですかその方法って」
「……こういうこと」
彼女は俺の両手を持つと、その手を自分の首に添えるように押し当てる。華奢な首だ。中学生の自分の両手でもすっぽり包み込めてしまいそうなくらい。
中学生の自分の力でも、あっさりへし折れそうなくらい。
彼女はそのまま頭を俺の耳元まで近づけて、甘い声で囁いた。
「私を殺せば、私は永遠に君だけのものになる」
彼女の声と香りが、まるで麻薬のように自分の思考を侵していく感覚が自分でも理解できた。
俺の中の“理性”が必死に抵抗する。
人を殺すなんてよくない。
この人が言っていることはただの詭弁か冗談だ。
こんな変な女に関わらないでとっとと逃げればいい。
目の前の女性を殺せる力があるなら逃げるくらい簡単だろう。
お互い名前も住んでいる場所も知らないんだから、逃げて、それっきりもう夜のこの場所に来なければいい。
夜空に浮かぶ月が視界に入る。
今夜の月もとても綺麗だ。
月の放つ光が、どうしてか今夜はすごく眩しい。
自分が、もうすぐ“理性”を失う予感だけがある。
きっと俺は、もう発症してしまっているんだ。
【月光症候群】。
この人と最初に出会った時から、俺はゆっくりと狂っていったんだ。
恋愛とか家族とかそういうのを嫌っていた俺が誰かを好きになるなんてありえない。
だから、俺はもうとっくに狂っていたんだ。
望み通りに。
彼女の次の言葉が、俺が“理性”を失うための最後の引き金になった。
「“私、死んでもいいわ”」
彼女の首に添えられていた両手に、自分でも信じられないほどの力がこもった。
******
———あぁ、これで終われる。
いつからだったろう。あの人が笑わなくなったのは。
いつからだったろう。あの人が私を殴るようになったのは。
いつからだったろう。あの人が息子まで殴るようになったのは。
いつからだったろう。私が狂っていたのは。
私の主人は優しい人だった。交際を始めたばかりの頃はとても優しくて紳士的で、そんなあの人とならきっと幸せに、ごく当たり前の幸せを手に入れられると思って結婚した。だけど、息子が三歳になる頃には、あの人は私にも息子にも愛情を注いでくれなくなっていた。代わりに与えたのは暴力と心ない言葉。私は毎日息子を守りながら必死に耐えていた。主人の機嫌を損なわないように。主人の手が息子に及ばないように。
どんな目に遭っても、私はあの人を愛していたから。
けれど私は、そんなあの人を自分の手で殺してしまった。
あの人が、息子を殺したから。
ううん、違う。あの人が殺したんじゃない。あの人は何も悪くない。あの人は狂ってなんかいない。
———主人は月を見ると人が変わったように暴力を振るいました。
私は警察やマスコミ、テレビや雑誌でそう証言した。自分がどれだけ滑稽なことを言っているか自覚はあった。そんなおとぎ話のような証言、誰も信じてくれないことは分かっていた。分かっていたけど、私はあの人が狂っていたなんて思いたくなかった。あの人は何も悪くない。あの人は月のせいで狂ったんだ。あの優しかった主人があんな風になるはずがないんだから。
どういうわけか、私がいろんなところでそう証言すると、同じように月を見たせいで凶行に走ったという人間が続出した。時間が経つにつれてそれはやがて伝染病のように全世界に広がっていき、いつしか【月光症候群】なんてそれらしい名前が付いていた。
あぁ、やっぱり。
やっぱりあの人は狂ってなんかいなかったんだ。
あの人が狂っていたのは月のせい。
あの人は何も悪くない。
悪くないのに。
どうして、こんなに胸が苦しいんだろう。
あの日私は、この公園で主人のために死のうとしていた。
【月光症候群】がただの人間の思い込みでしかないことを知っているのは世界で私だけ。私が生きていれば、いつか【月光症候群】なんて病気は存在しないことが明るみに出てしまうかもしれない。そうなれば、あの人は本当にただ狂っていたということになってしまう。
だから私は、【月光症候群】を真実にするために死ぬ。そのはずだったのに。
———そこに、君が来たんだよ。
———あぁ、もう。子供のくせに血走った目しちゃって。
———正直冗談半分だったんだけど、そんなに私が好きなの?
こんな子供を誑かして人殺しをさせているんだから、きっと私も立派な月光病患者だ。
いいじゃない、私に相応しい最期よ。
私の“狂気”が、世界中の人を殺してきたんだ。
きっと私は、世界で誰よりも狂っている。
———でもね、私は君になら殺されてもいいって思ったのは本心なんだよ。
———お互い名前も知らないのにね。
———君は、世の中の普通の人がおかしいって言ってた。
———その言葉を聞いて、私みたいな狂った人間がどれだけ救われたか、きっと君は気付いてないんだろうなぁ。
———私は君のこと、好きだったよ。
———でもごめんね、君に殺されたとしても、私はやっぱり主人と息子を愛してるの。
———ほんとうに、ご、め、ん、ね……。
狂った私たちを、月だけが静かに見下ろしていた。
靴紐をきつめに結ぶと空を見上げ、肉眼で改めて今日の夜空の具合を確認する。
今日も、月は綺麗だ。
ポケットから取り出した錆びかけた鍵で外から裏口の鍵をかける。この鍵を見つけたのは本当に幸運だった。おかげで親に気付かれることなく夜の散歩を楽しめる。
そのまま俺は、檻から解放された獣のように、威勢よく夜の街へと繰り出した。
【月光症候群】。月光病とも呼ばれるその奇病の名が世界に広まったのは今から一年ほど前だ。
原因、感染経路、治療法。すべてが不明。分かっていることは、月の光を浴びることでその人の精神に何らかの異常をきたすということ。もちろん浴びれば誰でも発症するわけではなく個人差はあるし、精神に及ぼす影響も人によりけりだ。ただ、程度の差はあれ良い影響を受けるということはまずない。大抵の場合は身近な誰かを傷つけることがほとんど。月光病患者が原因で命を落とした人の数はたった一年間で一千万人を超えた。犠牲者がここまで膨れ上がった原因の一つに、月光病を発症した人間は周囲の人間を傷つけた後、多くの場合自滅するかのように命を落としていることがある。一度発症してしまえば精神を侵され、他人はもちろん自分自身の命すら平気で投げうってしまうのだそうだ。
だから世界各国では現在、不要な夜間の外出を原則として禁じている。どうしても夜間に外出する必要がある場合はフードや帽子、マスクにサングラスなどを着用して極力肌を見せず、人と接触しないことが求められている。
そんなご時世の中、今年で15歳になる俺はこうして毎晩夜中に家を抜け出して月の光を浴びまくっている。一切顔を隠したりはせず。
俺は月光病に焦がれていた。
自分も狂いたかった。
おかしくなってしまいたかった。
明確な理由なんてない。悲しい過去だとか人間関係に問題があるなんてこともない。極々ありきたりで普通の生活を過ごしている。
ただ、普通でいることをやめたかっただけだ。
普通に生きるっていうのはきっと気楽なんだろう。普通っていうのは他の人と同じってことだから。他人と同じようにありきたりに進学して、そこそこの会社に就職して、世間の目を気にして結婚なんてして、本能に抗えずに子供を作ったりして、そのまま家族だとか社会だとかのために何十年も働いて、気が付けば歳をとって周りの足を引っ張るだけの存在になって、あっけなく死んでいく。
そんな人生に何の意味があるんだ?
親の都合で勝手に生まれてきただけで、俺はこんな世界に生まれることも、社会に迎合して生きることも望んでいない。だけど幼少の頃から施された教育に起因する“理性”がそんな自分を縛りつける。お前は間違っていると、俺の中の“理性”が糾弾する。
だから、そんな邪魔な“理性”を消してくれる【月光症候群】は、俺にとっては福音だった。
夜中に家を抜け出すと、俺は決まって近くの自然公園に足を運ぶ。小さい頃から通っていたこの大きな公園は、昔からお気に入りの場所だった。緑が多いこの場所はどの季節に来ても美しい顔を見せてくれる。春には花見、夏は新緑、秋は紅葉、冬は雪景色。そして夜には木々の隙間から差し込む月の明かりがある。
大きな池にかかった橋を渡って少し行った先に、休憩用のベンチがぽつんと佇んでいる。ベンチの付近には老朽化で弱々しい光を放つ電灯以外に明かりはなく、電灯よりも夜空に浮かぶ月の光の方が明るいと思えるほどだ。そのもうボロボロで今にも崩れてしまいそうな木製のベンチに座る影を、自分は遠目に確認する。今日も“あの人”が来ていることに、心のどこかで安堵する。
「こんばんは」
「どうも」
ベンチに座っていた“彼女”は、俺の姿を確認すると優しい笑顔を浮かべて挨拶してくれる。そんな彼女にややぶっきらぼうに返事をしてしまう俺は、どうしようもなく子供なんだということを痛感してしまう。
▼▼▼
名前も知らないこの女性と出会ったのは一週間ほど前だ。
いつも通り夜に家を抜け出して当てもなく公園を歩いているときに、このベンチに座っている彼女と遭遇した。
夜中に誰かと出会うことはあれが初めてだった。このご時世に夜中にわざわざ公園に行くような人はいないし、もしいたとしてもマスクなりフードなりで顔を隠しているのが一般的だ。だから、出会った彼女が顔を隠さずに月夜に出歩いていたことに、自分は一種の共感を覚えたのだと思う。
それに、不思議と俺はその人と初めて会った気がしなかった。
だから、俺が彼女にかけた最初の一声はどうしようもなく距離感が迷子だった。
「月が綺麗ですね」
その言葉の意味を後になって調べて知った俺は、月光病ではなく恥ずかしさで気が狂いそうになった。
「……ふふっ。“私、死んでもいいわ”?」
それまで月を見上げてどこか虚ろな目をしていた彼女は、月の光にも負けない明るい笑顔を見せてくれた。
たったそれだけのやり取りで、俺は自分がどうしようもなく彼女に惹かれていることに気付いた。一目惚れというのはこういうことを言うのだろうか。あんなに普通の人生だとか恋愛に否定的だった俺が。けれど、その女性の左手の薬指に光り輝くものが見えたことで、俺のほんの僅かな気の迷いはあっさりとどこかに消え失せた。この人にはもう家庭があるんだ。
俺は、僅か5秒の間に初恋と失恋を経験した。
「ねぇ」
「えっ?」
「こんな夜中に一人で何してるの?」
女性が少し悪戯っぽい笑みで問いかける。月明かりに照らされたその少し不敵な笑みも、どうしようもなく俺の心を掴んで離さない。あぁ、くそ、調子が狂う。相手はもう結婚してるんだから、気にしちゃダメだ。見たところ歳は20代前半くらいだろうか。もしかしたらもう少し上かもしれないけど、20代の大学生と言っても十分通用する若さと美しさだと思った。
「えっと、散歩です」
「顔を隠さずに夜の散歩なんて、よほどのお馬鹿さんか死にたがりだよ?」
「そういうあなただって」
「私もきっと貴方と同じよ」
その時の彼女はどこか寂しそうな、けれど少し嬉しそうな、いろんな感情がない交ぜになった笑みを浮かべていた。まるで路頭に迷っていた野良犬が、自分と同じ行き倒れの犬と出会ったような。今でもあの顔が忘れられない。
▲▲▲
彼女の座るベンチに、間に一人分ほどのスペースを空けて腰を下ろす。本当はもう少し距離を近づけたいけれど、近づきすぎるとこの人の香りとか吐息を嫌というほど意識してしまう。女性っていうのはどうしてこんなに良い匂いがするんだろう。学校のクラスメイトの女子もそうだけど、香水とか石鹸の香りなんだろうか。
「今夜も月光病にかかりに来たの?」
「はい、聞かなくてももうご存じでしょう」
「日常会話だよ日常会話。君、細かいこと気にしてるとモテないぞ」
「余計なお世話です」
今夜も彼女はそんな風に俺をからかいながらとりとめのない話をする。ビールを飲みながら。
彼女と最初に出会った夜から毎晩こうして会っているが、ビールを欠かさなかった日は今のところ一度もない。
「この公園ってアルコールの持ち込みOKなんでしたっけ?前も聞いた気がしますけど」
「確か駄目だったんじゃなかったっけ。まぁこのご時世夜に出歩く人も、ましてや夜の公園に来るもの好きなんてそうそういないから大丈夫だよ」
「ここに一人いますけど」
「じゃあ君も飲めば共犯だね、一杯どう?」
「未成年にアルコール勧めないでください」
どういうわけか彼女はいつもこのベンチでビールを飲んでいる。月見酒だなんて言っているが、普通月見酒と言ったら日本酒とか焼酎が一般的なんじゃないだろうか。中学生の自分には酒のことはあまりよく分からないけれど。
「月光病にかかりたいなんて言ってるのに、この程度のルールも破れないんだね」
「それは、その……」
「まぁ、君の歳じゃまだお酒の美味しさは分からないだろうしね」
「馬鹿にしてるんですか」
「そんなことないよ」
一本目の缶ビールを飲み干したところで、不意に彼女が真顔になった。
「君は、世の中の普通の人こそむしろ異常だと思っているんでしょう?」
「まぁそうですね」
「私もそう。どうしてみんなが普通でいられるのかが分からない。きっと人間なんてみんなどこか狂っているのに、どうして普通を装っていられるんだろう」
俺と彼女は、不思議なほど価値観が似ていた。
夜に顔を隠さず外を出歩いている時点でおそらく彼女も自分と同じ、“狂っている”側の人間だろうということは察していたが、この一週間いろいろなことを話すうちに、驚くほど俺たちはいろいろなことで意見が一致した。そのことが、俺は喜ばしかった。意見が一致するなら、話が通じるのなら、誰かに話したいと思うことが俺には沢山あったからだ。
もしもう少し早く彼女と出会えていたなら、もっといろんな何かが変わっていたかもしれないと思うほどに。
「今夜も月が綺麗ね」
「…そうですね」
「“私、死んでもいいわ”って言わないの?」
「っ、からかわないでください」
「あはは!」
本当は俺だってそう言いたかった。もし言うことが許されるのなら、きちんと彼女の名前とか住所を聞いて、昼間に会って一緒にご飯に行ったり買い物したり、勉強を教えてもらったりとか、そういう普通の関係を築くことだってできるんだろう。
そうしたいのに、ただ結婚しているというだけの、子供の俺にとってはどうしようもない大人の世界が俺の前に立ち塞がる。
いっそ月光病で狂うことができたのなら、この人を無理やり自分のものにすることもできるのかもしれない。
いや、ダメだ。そんなこといけない。
どうしてなかなか、たった十年程度で自分の中に住み着いた“理性”というのはすっかり自分の思考に根付いてしまっているらしい。その事実がどうしようもなく自分を辟易させる。
「ねぇ」
「はい?」
「君さ、私のことが好きなんでしょ?」
いつもの悪戯っぽい笑みで彼女はそう言った。
しかしその目はどこか真っすぐこちらを見据えている。
「な、なに言いだすんですかいきなり。相手が子供だからって馬鹿にするのも大概にしてください」
「女って男の人のそういう目とか雰囲気には敏感なのよ」
「そもそも、もうご結婚されてるんでしょう」
「いいよ、君のものになっても」
「え?」
「私は結婚して子供もいるし主人と息子を愛してるけど、でも、君のものになってもいい。その方法が一つだけあるとしたらどうする?」
「なんですかその方法って」
「……こういうこと」
彼女は俺の両手を持つと、その手を自分の首に添えるように押し当てる。華奢な首だ。中学生の自分の両手でもすっぽり包み込めてしまいそうなくらい。
中学生の自分の力でも、あっさりへし折れそうなくらい。
彼女はそのまま頭を俺の耳元まで近づけて、甘い声で囁いた。
「私を殺せば、私は永遠に君だけのものになる」
彼女の声と香りが、まるで麻薬のように自分の思考を侵していく感覚が自分でも理解できた。
俺の中の“理性”が必死に抵抗する。
人を殺すなんてよくない。
この人が言っていることはただの詭弁か冗談だ。
こんな変な女に関わらないでとっとと逃げればいい。
目の前の女性を殺せる力があるなら逃げるくらい簡単だろう。
お互い名前も住んでいる場所も知らないんだから、逃げて、それっきりもう夜のこの場所に来なければいい。
夜空に浮かぶ月が視界に入る。
今夜の月もとても綺麗だ。
月の放つ光が、どうしてか今夜はすごく眩しい。
自分が、もうすぐ“理性”を失う予感だけがある。
きっと俺は、もう発症してしまっているんだ。
【月光症候群】。
この人と最初に出会った時から、俺はゆっくりと狂っていったんだ。
恋愛とか家族とかそういうのを嫌っていた俺が誰かを好きになるなんてありえない。
だから、俺はもうとっくに狂っていたんだ。
望み通りに。
彼女の次の言葉が、俺が“理性”を失うための最後の引き金になった。
「“私、死んでもいいわ”」
彼女の首に添えられていた両手に、自分でも信じられないほどの力がこもった。
******
———あぁ、これで終われる。
いつからだったろう。あの人が笑わなくなったのは。
いつからだったろう。あの人が私を殴るようになったのは。
いつからだったろう。あの人が息子まで殴るようになったのは。
いつからだったろう。私が狂っていたのは。
私の主人は優しい人だった。交際を始めたばかりの頃はとても優しくて紳士的で、そんなあの人とならきっと幸せに、ごく当たり前の幸せを手に入れられると思って結婚した。だけど、息子が三歳になる頃には、あの人は私にも息子にも愛情を注いでくれなくなっていた。代わりに与えたのは暴力と心ない言葉。私は毎日息子を守りながら必死に耐えていた。主人の機嫌を損なわないように。主人の手が息子に及ばないように。
どんな目に遭っても、私はあの人を愛していたから。
けれど私は、そんなあの人を自分の手で殺してしまった。
あの人が、息子を殺したから。
ううん、違う。あの人が殺したんじゃない。あの人は何も悪くない。あの人は狂ってなんかいない。
———主人は月を見ると人が変わったように暴力を振るいました。
私は警察やマスコミ、テレビや雑誌でそう証言した。自分がどれだけ滑稽なことを言っているか自覚はあった。そんなおとぎ話のような証言、誰も信じてくれないことは分かっていた。分かっていたけど、私はあの人が狂っていたなんて思いたくなかった。あの人は何も悪くない。あの人は月のせいで狂ったんだ。あの優しかった主人があんな風になるはずがないんだから。
どういうわけか、私がいろんなところでそう証言すると、同じように月を見たせいで凶行に走ったという人間が続出した。時間が経つにつれてそれはやがて伝染病のように全世界に広がっていき、いつしか【月光症候群】なんてそれらしい名前が付いていた。
あぁ、やっぱり。
やっぱりあの人は狂ってなんかいなかったんだ。
あの人が狂っていたのは月のせい。
あの人は何も悪くない。
悪くないのに。
どうして、こんなに胸が苦しいんだろう。
あの日私は、この公園で主人のために死のうとしていた。
【月光症候群】がただの人間の思い込みでしかないことを知っているのは世界で私だけ。私が生きていれば、いつか【月光症候群】なんて病気は存在しないことが明るみに出てしまうかもしれない。そうなれば、あの人は本当にただ狂っていたということになってしまう。
だから私は、【月光症候群】を真実にするために死ぬ。そのはずだったのに。
———そこに、君が来たんだよ。
———あぁ、もう。子供のくせに血走った目しちゃって。
———正直冗談半分だったんだけど、そんなに私が好きなの?
こんな子供を誑かして人殺しをさせているんだから、きっと私も立派な月光病患者だ。
いいじゃない、私に相応しい最期よ。
私の“狂気”が、世界中の人を殺してきたんだ。
きっと私は、世界で誰よりも狂っている。
———でもね、私は君になら殺されてもいいって思ったのは本心なんだよ。
———お互い名前も知らないのにね。
———君は、世の中の普通の人がおかしいって言ってた。
———その言葉を聞いて、私みたいな狂った人間がどれだけ救われたか、きっと君は気付いてないんだろうなぁ。
———私は君のこと、好きだったよ。
———でもごめんね、君に殺されたとしても、私はやっぱり主人と息子を愛してるの。
———ほんとうに、ご、め、ん、ね……。
狂った私たちを、月だけが静かに見下ろしていた。
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