蒼天已死

棗颯介

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蒼天已死

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 蒼天已死そうてんすでにしす。空は死んだ。
 それは有名な三国志に出てくる一節だ。
 自分はあいにく三国志を読んだことがないから、その言葉を聞いた時最初に思ったことは、実に素朴な疑問。
 
 ———蒼い空が死んだあと、空には何が残るんだ?

 その答えは、俺が生まれる前から既にそこにあった。
 黄色。

***

「ユキタカ、面白い話があるんだけど」
「なに?」

 それは大学で二限目の講義が終わったすぐ後。同級生の櫻井さくらいがやや上気した顔で俺の座っていた机に寄ってきた。こちらとしては学食の座席が他の学生達で埋まってしまう前にさっさと移動したいところだったのだが、今日の曜日は三限目の講義を取っていないことを思い出したので急ぐ必要はなかった。
 だから俺は、至って紳士的に櫻井の話を聞いてやることにした。

「〇×県に、青い空が見える場所があるんだって」

 と櫻井が言った直後、俺は目の前の女子大生に対する興味を失った。

「へぇー、そう」
「ちょ、反応薄くない?青い空だよ青い空!青空!!」
「別に俺はそういうの興味ないからさ。前も似たようなこと言ったかもだけど」
「ユキタカ、あんたなんで天文部に入部したの」
「別にやる気があったわけじゃないけど、何かしらの部活かサークルには入っておいた方がいいかと思っただけ。というか、他の連中も大体そういうもんじゃないの」

 雪野孝宏ゆきのたかひろというフルネームの姓と名をそれぞれ略してユキタカと気安く呼んでくる彼女とは、この大学の天文部に入部してからの付き合いだ。付き合いと言っても俺はほとんど部活には顔を出していないし、天文部自体が来るもの拒まず去るもの追わず、活動内容と言えば暇な部員たちが部室に集まってテレビゲームやボードゲームに興じているような、天文学者に謝れと言いたくなるようなルーズでフリーなコミュニティだった。その気安さを気に入って入部してみたら、彼女という予期せぬ面倒とバッティングしてしまったというわけだ。
 櫻井は子供の頃から空を見るのが好きだったらしい。あまり興味はないが。いつもスマホで空の写真を撮ってはSNSで公開しているらしいが、将来カメラマンにでもなるつもりなのだろうか。だとしたら彼女が自分と同じ文学部に入学したのは進路選択のミスだと言わざるを得ない。

「もう。今度天文部の合宿があるの知ってるよね」
「合宿?」

 記憶の糸を辿ってみる。

 ———そういえば、前にグループラインでそんな話を部長がしてた気がする。

「合宿場所、私が部長に提案してそこになったの」
「青空が見える場所に?ほーん」
「で、部長と顧問に現地の下見任されたから。ユキタカも一緒に行こ?」
「なんで。というか、櫻井は一度も行ったことがない場所を部長に推薦したのか?」
「だって、行きたかったし。それにウチの部員はみんなユキタカと同じで合宿とかあまり興味がないみたいだしね」

 ———まぁ、ウチに入部する奴らは空とか星よりも駄弁ったり遊んだりすることの方が興味あるだろうしな。それでいてヤ〇サーとかじゃないのが救いだ。

「か弱い女の子に一人で遠い土地の山登らせる気?」
「あー、分かったよ。気が向いたらな」
「さっすがユキタカ」

 青い空よりもこの後食堂でありつく予定のから揚げ定食を欲していた俺は適当に話を切り上げるべくそう答えた。櫻井もそれで納得してくれたらしく、「予定決まったら連絡するね」と言ってどこかに去っていった。
 
「青い空ねぇ」

 机脇の肩掛け鞄に筆記具とノートパソコンをしまいながら、俺は教室の窓から見える空を見る。
 そこにはいつもと変わらない、黄色い空があった。

***

 俺が生まれたときから、空はもう黄色かった。
 俺の両親が子供だった頃には、空はまだ青かったらしい。その青い空を、俺は昔の映像や写真でしか見たことがない。空が黄色く染まった理由は地球の大気中の分子が云々だとかで、ともかく地球の環境が長い時間と共に変わってしまったことが原因らしい。
 今の時代にも、大人たちの中には時折空を見上げては「どうして空が青くないんだ」と嘆く人が多い。
 俺にはそれが理解できなかった。生まれたときから既に空が黄色かったということもあるが、空の色が青かろうが赤かろうが黄色だろうが、何も変わりはしないだろうに。信号機じゃないんだから。いや、もしかしたら現代の科学で空の色を青に戻すことはできるのかもしれない。でもそれを誰もしないっていうのは、空の色が何色だろうと人々の生活には問題ないし、わざわざ苦労して金をつぎ込んでまでやる価値もないってことだろう。
 どうしようもない、人がいくら足掻いても変えようがない自然の摂理を、いつまでも振り返ることに何の意味があるっていうんだ。
 
 俺が櫻井に対してどこか歯がゆさにも似た感情を抱いているのは、彼女のそういうところが気に入らないからなのだろう。

「私、青い空を見てみたいの」

 初めて会ったときから彼女は青い空に焦がれていた。俺と同い年なら、あいつだって黄色い空が日常だったはずだろうに。
 何がそこまで彼女を動かすのだろう。

***

「ふぃ~、着いたね」
「普通に市内観光して終わらないか?」
「ユキタカ、あんた何しに来たか分かってる?」
「へぇへぇ」

 後日。俺と櫻井は青空が見えるという高原のある麓の街に来た。櫻井によれば他にも何人かに声をかけたらしいのだが、案の定全員うまいこと言って断ったらしかった。生まれてこの方至って平凡に生きてきた自負のある俺だが、もし自分にヒーローや主人公になれる素質があるとするなら、それは頼みごとを断れない優柔不断さにあるのだろう。
 高原までの道のりにはバスを利用した。最初の櫻井の話だとてっきり山登りでもさせられるのかと思っていたのだが、今のご時世は自分の足で時間をかけて登るよりも科学の力で一気に頂上を目指したい人の方が多いらしい。櫻井は情緒がないと渋っていたが、俺としては標高千メートルを優に超える高原を何時間もかけてハイキングする気にはなれなかったので、そこは櫻井にも呑んでもらった。

「やっと着いたか」
「麓の駅から一時間ほどしか経ってないじゃん。しかもバスに揺られてただけだし」
「現代人にとっちゃ一時間は十分な時間の消費だろ」
「もう」
「というか、本当にこの高原から青空が見えるのか?」

 到着した場所は、確かに麓の街とは比べ物にならないくらい標高が高い。街の建物がここからだと米粒程度にしか映らないほどに。とはいえ、今頭上に広がっている空は変わらず黄色いままだ。聞いた話じゃこの高原の空気が特殊で、あるタイミングで空が青く見える瞬間があるらしいのだが。

「明け方じゃないと青空は見えないんだって。だから今日はここのコテージで夜が明けるまで待機だね」
「朝起きれる自信ねーわ」
「大丈夫?釘バット準備しておこうか?」
「……とりあえずお前の熱意は伝わった」

 夜、一緒の部屋で少し早い夕食を摂っているとき、俺は櫻井に聞いてみた。

「お前さ」
「ふぁひ?」
「食ってから喋れ」
「………っ。なに?」
「なんでそんなに青い空にこだわるんだ?お前だって俺と同じで、物心ついた頃から黄色い空が当たり前だったはずだろ?お前がやってるのは、例えるなら3D映画やVR映像が主流の現代で一人だけ白黒やモノクロの無声映画作るのと同じくらい時代錯誤なことだと思うぜ」
「?そうかな?」

 櫻井はこちらの言葉が理解できないとでも言いたげに首を傾げた。
 まるでおもちゃが欲しいと店で駄々をこねる小さな子供をあやすように、俺は言葉を重ねた。

「あー、別にお前の思想や言動が間違ってるとまでは言わないよ?ただ、意味がないんじゃないかって話」
「意味はあるよ」

 櫻井は事もなげにそう言った。

「どんな?」
「ヒントは、ユキタカも知ってる」
「俺が知ってる?」

 青い空。櫻井が青い空に焦がれる意味。
 知るか。そんなの。

「いや知らないけど」
「あー、心外。まぁ、でもそうだね、ユキタカがピンと来ないのも仕方ないか」
「何なんだよ」

 櫻井は食べていたシチューをスプーンで掬い最後の一口を咀嚼すると、満足気な表情を浮かべて両手を合わせた。

「青い空が見えたら、教えてあげるよ」

***

 “蒼天已死そうてんすでにしす”。
 “黄天當立こうてんまさにたつべし”。
 最初にその言葉を聞いたのはいつだったか。覚えていないくらいにはずっと昔のことなのだろう。古代中国で起きた争乱において、黄巾賊こうきんぞくと名乗る人々が掲げた言葉。
 蒼い空、即ちその時代の王朝は滅び、新しい時代、黄色い空が立ち上がることを訴えたのだという。
 三国志をちゃんと読んでいない自分はその争乱とやらの結末は知らない。ただ、その話を聞いて俺が思ったのは、栄枯盛衰。盛者必衰。諸行無常。変わらないものなんてこの世界にはないんだということ。現に四十六億年の地球の歴史の中で、空の下にある命を等しく青く包んでいた空でさえその色を変えたのだ。
 すべてのものは時間の支配下にある限り変わり続ける。それを認められないものは淘汰される。“進化”というのはそういうものだろう。

 なのにどうして人は、櫻井は青い空に焦がれるのか。
 どうしても自分には理解できなかった。

***

「——・・・し」

 ———ん……。

「も——・・・———し」

 ———なんだ……。

「もしもーし!」
「……うおっ!」

 目を覚ますと、目の前に櫻井の顔があった。
 目の下にクマがあって、こう言っては失礼だが間近では少々見るに堪えない顔だった。おそらく一睡もできなかったのだろう。寝起きなのもあって幽霊か何かと勘違いしそうになった。

「おはようございまぁ~す」
「もう目覚めてるから、そんな寝起きドッキリみたいな細い声出しても意味ないぞ」
「もうすぐ、“青”の時間」
「わーったよ」

 俺は櫻井を一旦部屋から追い出し、簡単に身支度を整えた。今はまだ夏が始まったばかりの七月だからこの時間も普通はそこまで寒くはないのだろうが、普段生活している地上と比べれば、標高の高いこの場所では気温が幾分低い。自分はとりあえず薄手のカーディガンを羽織り、念のため持ってきたカイロを袋から出してポケットに押し込んだ。

「お待ちどう」
「おっけ。じゃ行こう!」
「行くっていうか、コテージの外に出れば一面青空なんだろ?わざわざ俺を待たなくても一人で見りゃいいのに」

 コテージのドアを開ける直前、櫻井がこちらを振り返り、意地悪っぽく笑って言った。

「だって、昨日の答え合わせ、しないとでしょ?」

 直後、櫻井が扉を開けた。
 とうに死んだはずの“蒼”が、そこに見えた。

***

「うっわぁ………」
「これは……」

 コテージの外に出た俺たちを、青い空が出迎えてくれた。少し夜の闇が残ったような濃い色な気もするが、そこはまぁ、目を瞑っておこう。迂闊にそんなことを言えば、隣にいる櫻井がまた「情緒がない」とかなんとか口を尖らせるのは容易に想像できた。
 それに、長年の夢が叶った相手に水を差す真似をするほど、俺は無粋じゃない。
 櫻井はと言えば、子供みたいに目を輝かせて一面に広がる青い空を見つめていた。夢中になりすぎて口がだらしなく開いてしまっている。さながら赤道直下の国で雨乞いをしている人のようだ。
 だが櫻井がそうなってしまうのも頷けるほどに、それは素晴らしい空間だった。手前には高原の緑、視界の先には雄大な山々の稜線があり、それらすべてを覆うように天は青い色で塗りつぶされている。美しい。ただひたすらに美しかった。今まで写真や映像や絵画で見てきた青空など比較にならないくらいに。
 この空を知っている大人たちが今になっても青い空に焦がれる理由が、少しだけ分かるような気がした。

「ねぇ」

 不意に隣に立っていた櫻井が声をかけてきた。

「なに」
「どう?」
「どうって、何が」
「もう、この空の色に決まってるじゃん」
「まぁ……綺麗だと思うよ」
「うん、だよねだよね!」

 櫻井は嬉しそうに頷いた。まるで自分のことのように。

「そういえば、結局昨日の答えは何なんだ?」
「あぁ、それはね」

 櫻井は少しこちらから距離を置き、人差し指を彼女の顔に向けた。

「私」
「は?」
「私の名前」
「名前?」

 櫻井の名前。確か———。

あおい?」
「正解。ユキタカ、鈍感すぎるし」
「もしかして、お前の名前の由来か?」
「そう。私の名前は青空からつけられた。青空のように美しく、広い心を持ってほしいってね。なのに、私が自分の名前の意味を知る歳の頃には、空は真っ黄色。空の青さの美しさを今日まで私は知らなかったの」
「そうまでして、知りたかったのか?」
「だって、自分の名前だよ?生まれた意味みたいなものじゃない?」

 俺は櫻井じゃないから分からないが、少なくとも櫻井にとっては空が青いことには意味があったということか。
 
「まだ、青い空が見える場所があってよかった」
「———蒼天已死そうてんすでにしす。」
「そうてん?何それ?」
「変わらないものなんてないってことだよ。空の色も同じだ」

 そう、いつかは変わる。今目の前に広がっている蒼い空もいずれは死ぬんだろう。そして白血球の死骸だという膿と同じ黄色に染まるんだ。それを止めることは誰もできない。
 
「でも、また蒼に変わるかもよ?」
「え?」
「空が黄色に変わって、その先は?ずっと黄色のままなの?違うでしょ?」
「それは、そうかもだけど」
「私は何も過去に戻りたいってわけじゃないよ。ただ、また空の色は青に変わるかもしれない。もしかしたらこの高原だって、つい最近までは黄色い空しか見えなかったのかもしれないし、明日は世界のすべての場所から空が蒼く見えるのかもしれない。少なくとも私はそう願って生きてるよ」
「そうか」

 正直なところ、櫻井の言葉を一から百まで理解できたわけでも、納得できたわけでもなかった。
 ただ、“蒼い空を願う”というのはなんというか、悪くない響きだと思った。他人の願望まで否定する権利は自分にはない。
 すべてのものは移り変わる。どんな小さな変化にも意味はあり、時に人はそれに特別な想いを込める。移ろいゆく流れの中で人にできることといえば、せいぜい願うことくらいなのかもしれない。

 空よ、明日は蒼くあれ。と。
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