初めての愛をやり直そう

朝陽ゆりね

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「どうしました? 先生?」

 島津しまづ拓斗たくとは面前に座る女の言葉に少しばかり顔を動かした。

 上司の娘にして、婚約者である女。

 しかしながら、申し訳ないと思いながらも、愛しいと思ったことがなかった。

 弁護士事務所の所長である上司には男児がいない。目の前にいるこの和泉いずみ知佳ちかと、妹の真弓まゆみの二人の娘がいるだけだ。

 そして二人とも普通の会社員で、知佳はこの弁護士事務所を手伝い、真弓は大手企業で働いている。資格のない二人にはこの事務所を継ぐことはできない。

 拓斗は所長に見込まれて娘を紹介された。

 断れば辞めなければならないような気がして交際を了承した。

 もともとから女が欲しいと思うタチではなかったので、交際している間に愛情も芽生えるのではないかと軽く考えていたのだが、半年が経ってもその愛情が生まれてくる気配はなかった。

 交際が煩わしいと思うことが多々あったものの、それは忙しいからだと言い聞かせていた。それに他の女性と交際してもたいして変わらない気がする。結婚して子どもができたら変わるだろうとも。

 このまま上司の娘と結婚して、事務所を継がせてもらえばいいのではないか、そう思っていた。

「いえ」

 小さく息を吐く。そしてオレンジのライトが揺れる店内を見渡した。

 一件仕事が終わった。

 訴訟を起こした原告がその訴状を取り下げた。

 最近はどこもかしこもなにかあるとすぐに相手を訴える。仕事が増えるのは大いに結構だが、それが無茶な言い分であることが少なくないから困りものなのだ。今回もその一つだった。

 拓斗の専門は医療関係のトラブルだ。もちろん駆けだし弁護士だから、離婚問題だろうが傷害問題だろうが、相談されたら話は聞くし、商売として成り立つ内容なら引き受ける。

 それでも誰しも得意分野というものがある。

 拓斗は子どもの頃から医療関係に強い弁護士になろうと思って目指していた。だから彼が卒業したのは医学部だ。

 在学中から並行して法律も勉強していた。卒業後、一年猛勉強をして司法試験に合格したエリートだった。

「本当に先生を尊敬します」
「いえ」

 もう一度同じ返事をすると、拓斗はビールを飲み干し、スタッフを呼んだ。

「お代わりを。知佳さんは?」
「では、私も同じものを」

 知佳が自らのグラスを持ち上げて答える。スタッフは頷くと、微笑んで退席した。

「最初はものすごい剣幕で、私、怖かったですもの。それを訴状の取り下げに至らせたのは先生の手腕です。素晴らしいと思います」
「…………」

 再々「いえ」では不興を買うと思い、拓斗は言葉をのみ込んだ。うっすら微笑み、小さくかぶりを振った。

「買いかぶりです。話を聞いた時点で無茶な言いがかりだと思いましたから」

 医療ミスだと騒ぎたてた患者とその家族。医者の注意を聞かず、勝手に飲食をし、病状を悪化させたのだ。

 話しあえばそれなりに収まったはずなのに、誰に入れ知恵されたのか、弁護士をつけて裁判だなどと騒ぐものだから話は大きくなった。

 相談を受けた拓斗は検査の結果やその過程、訪問者、お見舞いなどの内容を調べ、病院側に不手際などなかったことを相手側に示した。

 病院側は逆に名誉棄損で訴えることもできたが、穏便に済ませたいとのことだったので、原告は訴状を取り下げるに至った。それでも半年かかった。

「医者の資格を持つ弁護士なんてすごいです」
「……知佳さん、何度も言いますが、僕は医学部を出ているだけで医者ではありません」
「研修を受けていないから登録できないだけで、知識はお医者様と変わりないと思いますけど」
「いえ、現場経験を積んでこそプロです。僕は駆けだしの弁護士にしかすぎません」

 言葉を選んで答える。だが知佳には拓斗の苛立ちが伝わったようで、困ったように目を逸らせてしまった。

 まずかったと思い、言葉を続けようとした時、知佳が顔を戻して話し始めた。

「実は今日、先生に大切なお話があってお誘いしたんですの」

 拓斗は微笑む知佳の顔を見つめた。

 彼女の顔には今までの、拓斗の顔色を窺うような様子がなかった。それは明確な苦笑だった。

「大切な話?」

 知佳が「はい」と言って頷く。

「その前に、一つお伺いいたします。先生、好きな方がいらっしゃいますか?」
「……え?」

 意外な質問に言葉を失う。

「そうでなければ、好きな方ができましたか?」
「どういう意味ですか?」

 知佳がかぶりを振る。

「私、本当に、心から先生を尊敬しています。だからこそはっきり申し上げます。先生、このお話、なかったことにしていただきたいのです」

「…………」

「先生がオフィスにいらっしゃって、私は下心なく先生に惹かれました。医学部を出て、その後に司法試験に合格為さったというのに、実力を鼻にかけることもなく、堅実で謙虚で礼儀正しい。本当に惹かれたのです。それを父が察したんです。なにも言わないのに紹介するという行動に出てくれたことは、とても嬉しくて父に感謝しました。ですが、先生は私を気に入ってくださる雰囲気がありません。時間が経つほどに悩むようになりました。先生には好きな方がいらっしゃるんじゃないだろうか、と。近頃、とみにそう思います」

「…………」

「父には私から伝えます。私が気に入らないから断りたいと。先生の進退に影響を及ぼすようなことは絶対にいたしませんので」
「知佳さん」

 知佳が寂しそうに微笑んだ。

「わがままを言ってすみません。でも、女にはわかるんです。先生の心に私がいないことくらい、すぐに。それはつらいことです。半年経ってこの状態です。おそらく結婚しても変わらないでしょう。それにわかってほしいんです。私は愛に関係なく、ただエリートの妻になって優越感に浸ろうと思うような志の低い女じゃないって。どんな方でもいいんです。純粋に、ただ私を愛してくれる人と結婚したいんです。私が愛す以上に相手から愛されたい。先生は……期待しましたが、無理なようです」

 拓斗はなにか返そうと思ったが、言葉が見つからなかった。何度試みてもなにも思い浮かばない。そんな拓斗に知佳が微笑みかける。

「すみません。無理しなくていいですわ、先生。先生が好きだからこそ、別れたいんです。これは私のわがままです」

 拓斗は首を振った。誤魔化しても無駄だと思った。

「そんなことはありません。ただ、おっしゃるように、僕はまだ知佳さんに特別な想いを抱けていないことは事実です。でもそれは知佳さんの責任ではないと断言できます。僕は……白状しますが、今まで女性と交際らしい交際をしてこなかったのです。だからどう接していいのかよくわからない」

「勉強が忙しくて?」

「そうです。医学を勉強しながら法律も勉強する、もう必死でした。寝食を惜しんで勉強しました。だから女性への接し方がよくわからないのです。ただ……最近、そんな僕の心を揺さぶる出来事がありました」

 拓斗は今の言葉に知佳の目が光ったような気がした。

「たった一度、交際っぽい関係を持った女性がいます。高校の時のことです。その女性にとてもよく似た人をこのビルの近くで見つけたのです」

「…………」

「彼女のことが気になるのは確かです。態度が変わったとおっしゃるなら、それはその女性を見たからだと思います。ですが、それだけです。知佳さんを傷つけるような行動はしていないし、そんな状況でもありません」

 知佳は拓斗の言葉にあいまいな微笑みを浮かべた。とはいえ拓斗はその微笑みが否定的であることを理解した。彼女は受け入れる気はないのだと。

「その方かどうか、確かめないのですか?」
「……確かめてどうするんです? 十年も経ったのに、今更」

 言いながら、高校時代、少しの間だけつきあっていたクラスメートの顔が蘇った。

 十七歳の時の顔だ。大学に入ると、次第に疎遠になり、自然消滅してしまった女性。

(茜)

 自分に自信がなくて、いつもはにかんだように微笑む少女。

 勉強に忙しくていつの間にか離れてしまったけれど、愛しいと求めた人。

 拓斗の中で色褪せ、心の奥底に沈んでしまっていた記憶が鮮やかに蘇った。

「先生、その方のことがまだお好きなんですね」
「……え」
「もしかして、初恋、とか?」

 心臓がドキンと跳ねた。

 ――初恋。

「失礼しました。高校生ですものね。ごめんなさい」
「……いいえ。否定しません。僕はずっと勉強ばかりしてきたから」

 拓斗は茫然と答えた。

 初恋、初めての恋。

 確かにそうだ、あの時、自覚していた――自らの声が胸の中に響く。

「その方を近くで見つけた……なるほど。それは気になりますね」
「正確には、近くで働いている、です」

 知佳は口を噤んだ。なるほど、それで最近、態度が変わったのか、そう思った。ただ会っただけなら、きっと拓斗の変化など気づかなかっただろう。

「声をかけるべきです」

 知佳がキッパリと言った。その力強い断言に驚き、拓斗はまっすぐ知佳の顔を見つめた。

「その方であろうがなかろうが、声をかけて確かめるべきです。でなければ、ずっと引きずりますよ」

「……でも」

「先生はすでにフリーの身です。その方が初恋の人でなくても、すでに先生は好意を寄せられている。あとは、その女性に特別な人がいないことを祈るだけです。先生の恋、応援しますので頑張ってほしいです」

「恋って、知佳さん」

「私も素敵な人を見つけたいと思います。負けませんから」

「…………」

 知佳は微笑むと立ち上がった。

「明日からは一スタッフでお願いします。ご馳走様でした」

 軽く会釈をすると、振り返ることなく店から出ていった。

 拓斗は彼女の後ろ姿を茫然と見送ったが、姿が消えると視線を天井にやった。

 婚約者が去っていったこと、
 フラれたこと、
 次期所長の座を失ったこと、
 まったく、つらいとも悔しいとも思わなかった。

 脳裏に浮かぶのは、十年も昔の出来事だ。

 高校の時のことが蘇っていた。


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