38 / 42
19、誓い
1
しおりを挟む
その日が来た。
沙良はラトゥタとともに、再びカルナック大神殿の奥にある『聖なる池』にやって来た。遠巻きにアメンの神官たちが眺めているが、まったく気にはならなかった。来た時と同じ服を身につけ、鞄を持っている。手にはカルトゥーシュが描かれたスケッチブックの紙を握り締めていた。
ラトゥタが準備を整えていたが、池の水に触れた瞬間、顔を曇らせた。
「ラトゥタ様?」
しばし無言で水を睨んでいる。それから持っていた杖の先を池に突っ込んだ。隙間なくヒエログリフが描かれ、至る所に青い石が散りばめられた神秘的な杖だった。
「サーラ」
ラトゥタが張りつめた声で沙良を呼ぶ。沙良は只ならぬ雰囲気に生唾を飲み込み、返事をした。
「私は――大きな過ちを犯していました。今日は中止致しましょう。日を改め、執り行いたいと思います」
「どうしたのですか?」
「魔力がないのです」
「魔力?」
ラトゥタが小さく頷いた。
「カルナックの敷地はそのすべてが神聖で、神官以外は自由に立ち入ることができません。ですから、この池については、まったく調べずにいました。私の過ちです。あなたが落ちたというこの池には、魔力が満ちていると考えていたのです。ですが――まったく気配がありません。このままでは、帰すどころか水死させてしまいます」
「それは、ここが単なる池だということですか?」
「そうです。あなたを引きずり込んだ時空の歪が存在しない以上、ナイルに飛び込むのと同じことです」
ラトゥタはそう言い、池に視線を落とした。
「強引にこの池の中に時空の歪を作り出さねばなりません。そのためには、入念に準備を行い、最善の日を導き出す必要があります。引き延ばして心苦しいですが、今一度、私に時間をください。今日行えば、確実に失敗します」
沙良はしばらく池を見つめていた。それから顔を上げ、真っ直ぐラトゥタを見た。その顔は清々しく微笑まれていた。
四か月が経とうとしていた。当初、絶対的に有利だと考えられていたヒッタイトとの戦いは、開戦当初から苦戦を強いられた。
ヒッタイトが取る三人乗りの馬戦車の戦術と、鉄の武器にエジプト軍はほとんど太刀打ちができなかったのだ。
また敗北の文字が見え始めると指揮官たちが狼狽し、明らかな判断ミスを連発、ヒッタイトの思うままに翻弄される結果となった。
戦況はみるみる悪化していった。たった四か月でエジプトは絶対的敗北を目の前にしていた。
若い王子数名を討ち取ってはいたが、自軍の被害のほうが遥かに甚大で、特にラムセス率いる直轄隊以外の前線部隊は壊滅的となっていた。また、本軍を指揮するトルムテブ大将軍までもが大ケガを負い、慌ててテーベへ搬送を行ったが、その道中に息を引き取った。
エジプトは短期間でアムカやカナンまで征服され、数多の捕虜を取られて絶望に包まれようとしていた。
さらに追い打ちをかけるように大規模な疫病が発生した。この疫病はエジプト国内に最大の危機をもたらしながら、皮肉なことに戦争の大敗北から救う結果になった。
ヒッタイトに連行された捕虜たちの中からこの疫病が発生、蔓延を始め、ヒッタイト軍内にて爆発的に広がったのだ。
終焉は突如訪れた。ヒッタイト大王シュッピルリウマ一世が疫病によって絶命したことによってヒッタイトは全軍の引き上げを余儀なくされた。
エジプト軍は多くの司令官を失った中、急ピッチで再編を行った。
トルムテブ大将軍の後継、二人の将軍の後継をすぐさま決めることとなり、唯一残った将軍のホルエムヘブが家臣の手柄によって功績を認められ、大将軍に昇格した。またその手柄を立てた張本人であるラムセスも将軍に昇格した。
ラムセスは深い疲労を顔に刻みながら、ようやく雑事を終えて館に帰ってきた。
「どうしてここにいるんだ!」
それが帰宅後の第一声だった。
彼を迎える者たちの中に沙良がいたからだ。
「帰ったんじゃなかったのか!?」
「いろいろあってね。でもラムセスが帰るべきだって言うなら、ラトゥタ様にもう一度お願いするけど」
ラムセスが目を見開いた。そして大勢の前にもかかわらず叫ぶように怒鳴った。
「言うわけないだろ! サーラ! ここにいろ!」
ラムセスが力任せに引き寄せ、抱き締めた。同時に、ワァ! と歓声が上がった。
館中の者が声を上げ、拍手する。歓喜の中で二人はしばらくの間抱き締め合った。それからみなで祝宴を上げ、ラムセスの無事と昇格を祝った。
真夜中になって、二人はようやく二人きりになった。
館の屋上。
満天の星のもとで座り込んでいた。ラムセスは後ろから抱えるようにして沙良を抱き締めながらナイルを眺めている。
「疲れているんじゃないの? 話なら、明日でいいよ」
「明日まで我慢できない」
「なに子どもみたいなこと言ってるのよ」
「相変わらず口が悪いな。だが、その軽口も今は心地いい。会いたかったんだ。帰ったとばかり思っていたからあきらめていたが、こうして再会できたんだから実感したい。しばらく動くな」
「……うん」
ただ抱き締めるだけだ。それだけに想いの深さを感じられた。
沙良はラトゥタとともに、再びカルナック大神殿の奥にある『聖なる池』にやって来た。遠巻きにアメンの神官たちが眺めているが、まったく気にはならなかった。来た時と同じ服を身につけ、鞄を持っている。手にはカルトゥーシュが描かれたスケッチブックの紙を握り締めていた。
ラトゥタが準備を整えていたが、池の水に触れた瞬間、顔を曇らせた。
「ラトゥタ様?」
しばし無言で水を睨んでいる。それから持っていた杖の先を池に突っ込んだ。隙間なくヒエログリフが描かれ、至る所に青い石が散りばめられた神秘的な杖だった。
「サーラ」
ラトゥタが張りつめた声で沙良を呼ぶ。沙良は只ならぬ雰囲気に生唾を飲み込み、返事をした。
「私は――大きな過ちを犯していました。今日は中止致しましょう。日を改め、執り行いたいと思います」
「どうしたのですか?」
「魔力がないのです」
「魔力?」
ラトゥタが小さく頷いた。
「カルナックの敷地はそのすべてが神聖で、神官以外は自由に立ち入ることができません。ですから、この池については、まったく調べずにいました。私の過ちです。あなたが落ちたというこの池には、魔力が満ちていると考えていたのです。ですが――まったく気配がありません。このままでは、帰すどころか水死させてしまいます」
「それは、ここが単なる池だということですか?」
「そうです。あなたを引きずり込んだ時空の歪が存在しない以上、ナイルに飛び込むのと同じことです」
ラトゥタはそう言い、池に視線を落とした。
「強引にこの池の中に時空の歪を作り出さねばなりません。そのためには、入念に準備を行い、最善の日を導き出す必要があります。引き延ばして心苦しいですが、今一度、私に時間をください。今日行えば、確実に失敗します」
沙良はしばらく池を見つめていた。それから顔を上げ、真っ直ぐラトゥタを見た。その顔は清々しく微笑まれていた。
四か月が経とうとしていた。当初、絶対的に有利だと考えられていたヒッタイトとの戦いは、開戦当初から苦戦を強いられた。
ヒッタイトが取る三人乗りの馬戦車の戦術と、鉄の武器にエジプト軍はほとんど太刀打ちができなかったのだ。
また敗北の文字が見え始めると指揮官たちが狼狽し、明らかな判断ミスを連発、ヒッタイトの思うままに翻弄される結果となった。
戦況はみるみる悪化していった。たった四か月でエジプトは絶対的敗北を目の前にしていた。
若い王子数名を討ち取ってはいたが、自軍の被害のほうが遥かに甚大で、特にラムセス率いる直轄隊以外の前線部隊は壊滅的となっていた。また、本軍を指揮するトルムテブ大将軍までもが大ケガを負い、慌ててテーベへ搬送を行ったが、その道中に息を引き取った。
エジプトは短期間でアムカやカナンまで征服され、数多の捕虜を取られて絶望に包まれようとしていた。
さらに追い打ちをかけるように大規模な疫病が発生した。この疫病はエジプト国内に最大の危機をもたらしながら、皮肉なことに戦争の大敗北から救う結果になった。
ヒッタイトに連行された捕虜たちの中からこの疫病が発生、蔓延を始め、ヒッタイト軍内にて爆発的に広がったのだ。
終焉は突如訪れた。ヒッタイト大王シュッピルリウマ一世が疫病によって絶命したことによってヒッタイトは全軍の引き上げを余儀なくされた。
エジプト軍は多くの司令官を失った中、急ピッチで再編を行った。
トルムテブ大将軍の後継、二人の将軍の後継をすぐさま決めることとなり、唯一残った将軍のホルエムヘブが家臣の手柄によって功績を認められ、大将軍に昇格した。またその手柄を立てた張本人であるラムセスも将軍に昇格した。
ラムセスは深い疲労を顔に刻みながら、ようやく雑事を終えて館に帰ってきた。
「どうしてここにいるんだ!」
それが帰宅後の第一声だった。
彼を迎える者たちの中に沙良がいたからだ。
「帰ったんじゃなかったのか!?」
「いろいろあってね。でもラムセスが帰るべきだって言うなら、ラトゥタ様にもう一度お願いするけど」
ラムセスが目を見開いた。そして大勢の前にもかかわらず叫ぶように怒鳴った。
「言うわけないだろ! サーラ! ここにいろ!」
ラムセスが力任せに引き寄せ、抱き締めた。同時に、ワァ! と歓声が上がった。
館中の者が声を上げ、拍手する。歓喜の中で二人はしばらくの間抱き締め合った。それからみなで祝宴を上げ、ラムセスの無事と昇格を祝った。
真夜中になって、二人はようやく二人きりになった。
館の屋上。
満天の星のもとで座り込んでいた。ラムセスは後ろから抱えるようにして沙良を抱き締めながらナイルを眺めている。
「疲れているんじゃないの? 話なら、明日でいいよ」
「明日まで我慢できない」
「なに子どもみたいなこと言ってるのよ」
「相変わらず口が悪いな。だが、その軽口も今は心地いい。会いたかったんだ。帰ったとばかり思っていたからあきらめていたが、こうして再会できたんだから実感したい。しばらく動くな」
「……うん」
ただ抱き締めるだけだ。それだけに想いの深さを感じられた。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立
水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~
第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。
◇◇◇◇
飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。
仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。
退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。
他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。
おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。

自信家CEOは花嫁を略奪する
朝陽ゆりね
恋愛
「あなたとは、一夜限りの関係です」
そのはずだったのに、
そう言ったはずなのに――
私には婚約者がいて、あなたと交際することはできない。
それにあなたは特定の女とはつきあわないのでしょ?
だったら、なぜ?
お願いだからもうかまわないで――
松坂和眞は特定の相手とは交際しないと宣言し、言い寄る女と一時を愉しむ男だ。
だが、経営者としての手腕は世間に広く知られている。
璃桜はそんな和眞に憧れて入社したが、親からもらった自由な時間は3年だった。
そしてその期間が来てしまった。
半年後、親が決めた相手と結婚する。
退職する前日、和眞を誘惑する決意をし、成功するが――
凪の始まり
Shigeru_Kimoto
ライト文芸
佐藤健太郎28歳。場末の風俗店の店長をしている。そんな俺の前に16年前の小学校6年生の時の担任だった満島先生が訪ねてやってきた。
俺はその前の5年生の暮れから学校に行っていなかった。不登校っていう括りだ。
先生は、今年で定年になる。
教師人生、唯一の心残りだという俺の不登校の1年を今の俺が登校することで、後悔が無くなるらしい。そして、もう一度、やり直そうと誘ってくれた。
当時の俺は、毎日、家に宿題を届けてくれていた先生の気持ちなど、考えてもいなかったのだと思う。
でも、あれから16年、俺は手を差し伸べてくれる人がいることが、どれほど、ありがたいかを知っている。
16年たった大人の俺は、そうしてやり直しの小学校6年生をすることになった。
こうして動き出した俺の人生は、新しい世界に飛び込んだことで、別の分かれ道を自ら作り出し、歩き出したのだと思う。
今にして思えば……
さあ、良かったら、俺の動き出した人生の話に付き合ってもらえないだろうか?
長編、1年間連載。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
初恋の呪縛
泉南佳那
恋愛
久保朱利(くぼ あかり)27歳 アパレルメーカーのプランナー
×
都築 匡(つづき きょう)27歳 デザイナー
ふたりは同じ専門学校の出身。
現在も同じアパレルメーカーで働いている。
朱利と都築は男女を超えた親友同士。
回りだけでなく、本人たちもそう思っていた。
いや、思いこもうとしていた。
互いに本心を隠して。
【完結】東京・金沢 恋慕情 ~サレ妻は御曹司に愛されて~
安里海
恋愛
佐藤沙羅(35歳)は結婚して13年になる専業主婦。
愛する夫の政志(38歳)と、12歳になる可愛い娘の美幸、家族3人で、小さな幸せを積み上げていく暮らしを専業主婦である紗羅は大切にしていた。
その幸せが来訪者に寄って壊される。
夫の政志が不倫をしていたのだ。
不安を持ちながら、自分の道を沙羅は歩み出す。
里帰りの最中、高校時代に付き合って居た高良慶太(35歳)と偶然再会する。再燃する恋心を止められず、沙羅は慶太と結ばれる。
バツイチになった沙羅とTAKARAグループの後継ぎの慶太の恋の行方は?
表紙は、自作です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる