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18、愛の決意
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ラムセスを送り出した館は、今度は沙良を送り出すということで慌ただしかった。特に沙良の世話役だった使用人や奴隷たちが暗い顔をしている。
そんなある日、サトラーが馬車でやって来た。
全身を黒い衣装ですっぽりと覆い、目しか出ていない完全武装の様子を呈している。逆に言えば、これだけの準備をしないと陽の注ぐ外に出られないのだ。
かなりの無理であることは明らかなのに、それを押して沙良を訪ねてきたとなると、只事ではない。
「どうしたの? 用事がある時は私が出向くじゃない」
サトラーは床にきちんと座り、背筋を正して沙良に顔を向けた。
「サーラ様、大切なお話があって参りました」
「ホントにどうしたのよ? 改まって……」
サトラーの赤い目が真っ直ぐ沙良を映している。只ならぬ雰囲気に、沙良は緊張して息をのんだ。
「でもその前に、聞きたいことがあります」
「聞きたいこと?」
サトラーがコックリと頷く。
「お国にお帰りになるという話は本当なのでしょうか?」
「本当よ。でも、誰に聞いたの?」
サトラーの目が見開かれるが、すぐに伏せた。
「ここの者が伝えに来てくれました。なんとか引き止めてもらえないかって」
「えっ」
「思い直していただくわけにはいかないのでしょうか?」
「ごめんなさい。それは……できないわ」
サトラーの肩がガクリと落ちる。
「……そうですか。では、私の話を聞いてください。私はここの者に頼まれたから来たのではないのです。私だけの願いがあって来たのです」
「うん。なに?」
サトラーは再び真っ直ぐ沙良を見た。
「ラムセスから結婚式を挙げるよう言われました。帰ってきたら、式を挙げるからと」
沙良の顔がパッと明るくなった。
「本当? よかったじゃない! おめでとう!」
「よくありません」
ピシャリとサトラーが言い放つ。その取りつく島もない冷たい言い方に沙良が驚いてサトラーを凝視した。だがしかし、反面目にうっすら涙を浮かべている。沙良はますます言葉を失った。
「私はラムセスが好きです。幼少の頃より、ずっとあの人を想ってきました。だからこそ、間違っていることを思い知らされます。私は――」
サトラーの頬を涙が伝う。
「自分が愚かだと思います。間違っていると理解しつつも、嬉しくて、仕方ありません。ラムセスの妻という立場を放棄することができません。ずっと願ってきたから。でも、でも、あの人が想っているのは私ではありません。おわかりでしょう? あの人は、あなたを想っています」
「それは――」
それは違う――沙良はその言葉が言えなかった。言葉が詰まり、なにも返せなかった。
「私……ずっと、もしラムセスが他に好きな人がいるから、婚約を解消してほしいと言ったら、絶対イヤだと駄々をこねてやろうと思っていました。健康に恵まれない私だから、これくらいのワガママは許されると思って……でも、彼は親の決めた義務をきちんと果たし、私を妻に迎えると言ってくれたのです」
「…………」
「私は、自分がなんと愚かで自己中心的で、彼の幸せを願っていなかったのだと痛感しました。情けなくて、言葉もありません。サーラ様、どうかお願いします! 私の代わりに、彼の横に立ち、彼とともに歩いてほしいのです。彼とともに生きてほしいのです!」
「サトラー、それはあなたにでも、できることだわ」
「いいえ! 私にはできません。私は女として彼を悦ばすこともできなければ、彼の子を産むこともできないのです。私には彼の子孫を残すことはできないのです。子を為さぬ女など、妻として存在する意味がありません!」
沙良は絶句し、ただサトラーを見つめるばかりだ。対してサトラーは大粒の涙をとめどなく流し、頭を下げて懇願した。その体が震えている。
「どれほど彼を想っても、私は愛しい人の子を産むことはできない。繁栄させるどころか、血を絶やしてしまう。不幸にしてしまうのです。それなのに、そうだとわかっていても辞すことができない。この矛盾を、どうすることもできない。こんなワガママをお願いできるのは、あなただけなんです!」
「そんなことはないわ。子どもができなくっても幸せに暮らせるわよ。大事なのは子どもを産むことじゃなくて、二人が幸せに――」
「それは、あなたの世界の話です!」
サトラーに言い捨てられ、沙良は再び言葉を失った。
「あなたの世界では許されることかもしれませんが、ここはエジプトです。エジプトでは、子どもを産まぬ女は不要なのです」
「ホルエムヘブ将軍だって子どもはいないわ。でも幸せだって言ったわ。子どもだけがすべてじゃない」
「結果的にできなかったことと、最初からできないとわかっているのに結婚することはまったく違います」
サトラーの赤い目は厳しい。
そんなある日、サトラーが馬車でやって来た。
全身を黒い衣装ですっぽりと覆い、目しか出ていない完全武装の様子を呈している。逆に言えば、これだけの準備をしないと陽の注ぐ外に出られないのだ。
かなりの無理であることは明らかなのに、それを押して沙良を訪ねてきたとなると、只事ではない。
「どうしたの? 用事がある時は私が出向くじゃない」
サトラーは床にきちんと座り、背筋を正して沙良に顔を向けた。
「サーラ様、大切なお話があって参りました」
「ホントにどうしたのよ? 改まって……」
サトラーの赤い目が真っ直ぐ沙良を映している。只ならぬ雰囲気に、沙良は緊張して息をのんだ。
「でもその前に、聞きたいことがあります」
「聞きたいこと?」
サトラーがコックリと頷く。
「お国にお帰りになるという話は本当なのでしょうか?」
「本当よ。でも、誰に聞いたの?」
サトラーの目が見開かれるが、すぐに伏せた。
「ここの者が伝えに来てくれました。なんとか引き止めてもらえないかって」
「えっ」
「思い直していただくわけにはいかないのでしょうか?」
「ごめんなさい。それは……できないわ」
サトラーの肩がガクリと落ちる。
「……そうですか。では、私の話を聞いてください。私はここの者に頼まれたから来たのではないのです。私だけの願いがあって来たのです」
「うん。なに?」
サトラーは再び真っ直ぐ沙良を見た。
「ラムセスから結婚式を挙げるよう言われました。帰ってきたら、式を挙げるからと」
沙良の顔がパッと明るくなった。
「本当? よかったじゃない! おめでとう!」
「よくありません」
ピシャリとサトラーが言い放つ。その取りつく島もない冷たい言い方に沙良が驚いてサトラーを凝視した。だがしかし、反面目にうっすら涙を浮かべている。沙良はますます言葉を失った。
「私はラムセスが好きです。幼少の頃より、ずっとあの人を想ってきました。だからこそ、間違っていることを思い知らされます。私は――」
サトラーの頬を涙が伝う。
「自分が愚かだと思います。間違っていると理解しつつも、嬉しくて、仕方ありません。ラムセスの妻という立場を放棄することができません。ずっと願ってきたから。でも、でも、あの人が想っているのは私ではありません。おわかりでしょう? あの人は、あなたを想っています」
「それは――」
それは違う――沙良はその言葉が言えなかった。言葉が詰まり、なにも返せなかった。
「私……ずっと、もしラムセスが他に好きな人がいるから、婚約を解消してほしいと言ったら、絶対イヤだと駄々をこねてやろうと思っていました。健康に恵まれない私だから、これくらいのワガママは許されると思って……でも、彼は親の決めた義務をきちんと果たし、私を妻に迎えると言ってくれたのです」
「…………」
「私は、自分がなんと愚かで自己中心的で、彼の幸せを願っていなかったのだと痛感しました。情けなくて、言葉もありません。サーラ様、どうかお願いします! 私の代わりに、彼の横に立ち、彼とともに歩いてほしいのです。彼とともに生きてほしいのです!」
「サトラー、それはあなたにでも、できることだわ」
「いいえ! 私にはできません。私は女として彼を悦ばすこともできなければ、彼の子を産むこともできないのです。私には彼の子孫を残すことはできないのです。子を為さぬ女など、妻として存在する意味がありません!」
沙良は絶句し、ただサトラーを見つめるばかりだ。対してサトラーは大粒の涙をとめどなく流し、頭を下げて懇願した。その体が震えている。
「どれほど彼を想っても、私は愛しい人の子を産むことはできない。繁栄させるどころか、血を絶やしてしまう。不幸にしてしまうのです。それなのに、そうだとわかっていても辞すことができない。この矛盾を、どうすることもできない。こんなワガママをお願いできるのは、あなただけなんです!」
「そんなことはないわ。子どもができなくっても幸せに暮らせるわよ。大事なのは子どもを産むことじゃなくて、二人が幸せに――」
「それは、あなたの世界の話です!」
サトラーに言い捨てられ、沙良は再び言葉を失った。
「あなたの世界では許されることかもしれませんが、ここはエジプトです。エジプトでは、子どもを産まぬ女は不要なのです」
「ホルエムヘブ将軍だって子どもはいないわ。でも幸せだって言ったわ。子どもだけがすべてじゃない」
「結果的にできなかったことと、最初からできないとわかっているのに結婚することはまったく違います」
サトラーの赤い目は厳しい。
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