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1巻
1-3
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オリバー殿下はびくっと動きを止め、ぎょっとしたような目をそちらに向けて叫ぶ。
「兄さん……!」
「カリーナ嬢から離れろ!」
走りながら状況を判断したらしいルシアン様が、鋭く怒鳴りつけた。
オリバー殿下があたふたした様子で苦しまぎれの言い訳をする。
「待ってくれ、兄さん、勘違いしないでほしい。これは単なる婚約者同士のじゃれあいであって……」
口を手で塞がれている私は否定の意思を示すために「うーっ、うーっ」と唸り、激しくもがいてみせた。
「とにかく、離れろ!」
「わかったよ」
目前に迫る兄の剣幕に気圧され、オリバー殿下が慌てて立つ。
ようやく口が自由になった私は、間髪容れずに叫んだ。
「オリバー殿下が、襲ってきたんです!」
「ごっ、誤解だ。兄さん、カリーナの奴から誘ってきたんだ。こいつの性質の悪さは兄さんも耳にしているだろう?」
焦って弁解するオリバー殿下を無視して、ルシアン様はさっと膝を落とし、私を優しく助け起こしてくれる。
「大丈夫か? 頬が赤い」
それからキッとした目を向けて問う。
「お前がやったのか、オリバー?」
さすがに誤魔化しきれないと思ったのか、オリバー殿下はとっさに嘘をついた。
「カリーナが俺を侮辱するから、ついカッとなって……」
ルシアン様が美しい眉根を寄せ、はーっと長い溜め息をつく。
「オリバー、貴様、王族としての恥を知れ! この状況でどんな言い訳も通用するものか! 男としても女性に暴力をふるうなど絶対に許されないことだ。ましてや欲望にまかせて襲うなど、極刑に値する!」
「極刑!」
オリバー殿下は裏返った声で叫び、言い募る。
「兄さん、信じてくれ。俺は断じてカリーナを襲ってなどいない。だって、俺達は婚約者でいずれ結婚するのに、どこにそんな必要がある? そうだ、こいつが俺を煽って、わざと怒らせたのも、誘ったくせに襲われたふりをするのも、全部こうして俺を罠にはめるためだったんだ!」
そして、いかにも今気づいたというように、ポンと手のひらに拳を打ち付けた。
自己正当化もここまでくると見苦しい。
私は呆れて言葉も出なかった。
ルシアン様がうんざりしたように叫ぶ。
「もう黙れ、オリバー! そこまでで充分だ――あとの詳しい話はカリーナ嬢から聞こう」
「待ってくれ兄さん、カリーナから話を聞く必要なんてない! そいつには虚言癖がある! デッカー公爵夫妻も妹のリリアも、家族皆がそう言っている」
「いいからもうどっかに行け!」
「わかった、わかった」
ルシアン様の怒りの声に、オリバー殿下は諦めたように両手を上げ、逃げるように退散していった。
ようやくルシアン様と裏庭で二人きりになり、私は遅まきながらお礼を言った。
「助けてくださってありがとうございました。ルシアン殿下」
しかし、ルシアン様はなぜかこちらを見ないように顔を背けている。
「まずは胸元を直してくれ」
指摘された私は、恥ずかしさに頬を熱くして再びしゃがみ込み、ブラウスの前を閉じた。
「……直しました」
報告すると、ルシアン様は振り返って確認してくる。
「怪我はないか?」
「はい、たぶん」
曖昧な返事をする私に、彼は観察するみたいに真剣な眼差しを向けた。
「膝から血が出ている。医務室へ行こう」
「大丈夫、軽い擦り傷です」
「ダメだ。さあ――」
ルシアン様は有無を言わさぬ口調で言って手を掴み、いつかのように引き上げるように私を立たせてくれる。
とたん、懐かしい温もりに鼓動が激しく高鳴った。
「頬も冷やしたほうがいいな」
ときめく私の気持ちも知らず静かに呟き、彼はそのまま手を引いて歩き始める。
そんなルシアン様を強く意識しながら、私はといえばもう胸がいっぱいで、移動中ずっと話しかけることができなかった。
もちろん、危機に駆けつけてくれたことや、こうして間近で会えたことも感激している。
けれど何より、ルシアン様は迷わず私の名前を呼んでくれた。
八年前たった一度会っただけなのに、覚えていてくれたことが嬉しくてたまらない。
頬を腫らした私を気遣ってか、ルシアン様は人気のない経路を通り、誰とも会わずに医務室に到着する。
「誰もいないようだな。普段は校医が詰めているのだが――ちょうどいいので、ここで話を聞かせてもらおう」
ルシアン様は私に椅子をすすめた後、歩き回って、次々に戸棚や引き出しを開けては薬品と布を取り出していく。
私はその間、夢心地でぼうっと、その姿を眺めた。
オリバー殿下に襲われたショックか、はたまたルシアン様に再会できたからか。心臓がうるさいままで、なんだか息苦しい。
「さあ、これで頬を冷やして」
濡らした布を私に手渡し、ルシアン様は近くに椅子を寄せて座った。
それから私の膝を手当てしながら謝ってくる。
「先程は弟が申し訳なかった。謝って済むものでもないが」
「そんな、ルシアン殿下に謝っていただく必要なんてありません」
「いや、兄としても同じ王族としても、僕には責任がある。暴力も無体なことも二度とさせない。そう約束したうえで、何があったか詳しく聞かせてもらっていいか? もちろんまだ話すのが辛いなら、後日改めてでもいいが……」
「いえ、大丈夫です!」
力をこめて返事し、私は今日裏庭で起こったことをありのまま、順を追って話して聞かせた。
他の生徒達同様、私への悪い噂を聞かされているはずのルシアン様が、間違ってもオリバー殿下の無茶な言い分を信じないよう、真剣に。
私が説明を終えると、ルシアン様は確認するように尋ねる。
「では君は、リリアがオリバーをそそのかしたと言うんだね?」
たとえ、王太子の婚約者候補であるリリアの足を引っ張ることになっても、真実は真実だ。
「はい、オリバー殿下自身が、リリアからそうするようにすすめられたと言っていましたし、これまでずっとそうでしたから。リリアは計算高く嘘が得意で、私は幼い頃からずっと同じような被害を受けてきました」
「……そうか……」
重く頷いた後、彼は麗しい顔に憂いを浮かべて嘆息した。
「信じてくれますか?」
不安な気持ちで聞いた私に、率直に答える。
「正直に言うと、僕には君と弟のどちらの言い分を信じるべきか、判断がつかない。弟は母に特別甘やかされて育ったせいか、幼い頃から自分の思い通りにならないと癇癪を起こす癖がある――そしてカリーナ、君も……」
「私ですか?」
学園に出回っている悪評のことだろうか?
「ああ、デッカー公爵の口から、娘の君を溺愛して甘やかしすぎたことを後悔していると、何度か聞かされたことがある」
私は思わず自分の耳を疑う。
「父が……私を……溺愛?」
本気で言葉の意味が理解できなかった。
「そうだ。幼い頃に母親を亡くした君が不憫で、つい、我儘放題させてしまった、と」
「そんなことを、父が……⁉」
外面がいいことは知っていたが、まさかそんな娘に甘い父親を演じていたなんて。私は衝撃を受けて息を呑む。
「ああ。そのせいでリリアに無用な我慢を強いてしまったとも言っていた」
その言葉に激しくかぶりを振った。
「ルシアン殿下、それでは話が真逆です! 父はリリアを溺愛し、私のことを嫌っています!」
ただ信じてほしい一心で声を張り上げる。
「……だが、デッカー公爵だけではなく、夫人もリリアも皆、同じことを言っていた。君一人が嘘をついているのか、君以外の全員が嘘をついているのかという話なら、やはり前者に思える。何より血の繋がらない公爵夫人とリリアはわかるが、デッカー公爵にはそのような嘘をつく理由がない」
ルシアン様には、実の娘を嫌い義理の娘を愛する父親がいることが、想像できないのだろう。
それでも私には繰り返し事実を訴えることしかできない。
「私にもなぜ父が義理の娘であるリリアばかりを可愛がって優先するのかわかりません。でも嘘偽りのない真実なんです!」
ルシアン様は金色の長い睫毛を伏せて静かに首を横に振る。
「すまないが、僕には他人の悪口を言う人間の言葉を信じることはできない。カリーナ、君はリリアが計算高く嘘つきだと言うが、僕の前で彼女が君を悪く言ったことなど、ただの一度もないんだ。むしろいつも、妹として家族として、君を庇う言動をしてきた」
そう、それがリリアのいつものやり口なのだ。
決して他人を悪く言わないし、自分が表立って行動を起こすこともしない。常に表面上は同情的な言動を取りながら、結果的に私が悪く思われるように誘導する。
「悪口なんかじゃありません! 実際にリリアは……!」
なおも言い募ろうとしたとき、私に向けられるルシアン様の水色の瞳に浮かぶ冷たい光――軽蔑の眼差しに気づき、私は続きの言葉が出なくなった。
リリアの本性を伝えれば伝えるほど、家族を罵っていると思われる。
ルシアン様も他の人と同様、私を信じてくれない。口では話を聞くと言いつつ、最初から先入観で私を悪者だと決めつけている。
その事実に気がつき、深い失望が胸を覆ったとき、予鈴が鳴った。
そこでルシアン様が、もう話すべきことはないというように立ち上がる。
「悪いが僕はもう行かねばならない。君の担任には連絡しておくので、落ち着くまでここで休んでいるといい」
言葉こそ優しかったが、硬く冷たい声だった。
私は背中を向けて歩き出す彼の姿を、悲しい気持ちで見つめる。
「きっとルシアン殿下にはわかっていただけないのでしょうね。この世界には想像もつかない悪意や、自分ではどうしようもない、不可抗力の事態があるということを……」
泣くのを堪え、最後にそれだけ言うのがやっとだった。
ルシアン様は扉の前で一瞬立ち止まったものの、振り返らずに医務室を出ていく。
結局、私は自分への誤解を解くどころか、却ってルシアン様の信頼を失ってしまった。
その事実がオリバー殿下に襲われたことよりも、ずっとずっとショックで悲しい。
しかも、悪いことはそれだけで終わらなかった。
オリバー殿下は今回の件でかなり私を逆怨みしたらしい。
翌日、廊下ですれ違ったとき、わざと聞こえよがしの大声で「淫乱な女に陥れられた」と、取り巻き達に笑って話していた。
その様子から、どうやら裏庭での一件を脚色した話を吹聴して回っているのだとわかる。
――初恋の人には軽蔑され、婚約者によってますます評判を貶められるという、辛い状況。
私が小さな精霊と出会ったのは、まさにそんなどん底にいるときだった。
第二章 精霊との出会い
裏庭での事件があった五日後の昼休み。
「ねぇ、あの人」
「ああ、リリア様の」
「そういえばオリバー殿下が……」
「信じられないわよね」
今日も周囲からの冷たい視線と陰口に晒されながら、私は生徒で賑わう中庭に来ていた。
オリバー殿下に襲われて以来、人気のないところが怖くなり、教室で昼食を済ませるようにしている。
だから、ここに来たのは純粋にイクス神像に祈るため。
あれからルシアン様と顔を合わせる機会はなかったものの、言われた批判や冷たい眼差しが繰り返し脳裏に蘇ってくる。
加えてオリバー殿下に酷い中傷を流され続け、現在の私の精神状態はこれ以上ないくらい最悪だった。
ルシアン様という心の救いをなくした今の私には最早、神への祈りしか残されていない。
人の邪魔にならない中庭の隅に立ち、悲愴な気持ちで彫像に目を向ける。
噴水の中央の台座に設置された女神イクス像は、左手に手桶を抱えて優しく微笑んでいた。
少し見入ってから両手を組んで目を瞑り、まずはイクス様へ感謝を伝える。それから一心に救いを求めて祈った。
――どうかこれ以上、私の悪い評判が広がりませんように。ほんの少しずつでもいいので、皆の私に対する誤解が解けてゆきますように。
心の中で呟きつつも、ルシアン様の顔がしきりに浮かんで、胸がズキズキする。
――友達がたくさん欲しいなんて贅沢は申しません。でも叶うなら、たった一人でいいので、私のことをわかってくれる存在が現れますように。
ささやかな、それでいて絶望的に思える願いを伝え、ゆっくりと目を開く。
――その時だ。
視界の片隅。
噴水近くの芝生に咲いている白い小さな花の近くで、チラッ、と光るものが動いた。
一瞬見間違えたのかと思ったが、目の錯覚ではない。凝視すると花陰から漏れる青白い光が確認できる。
私は思わず、ごくっと息を呑む。
あれはもしかしたら、花の精かもしれない。
――それは幼い頃、繰り返し母に読んでもらったお気に入りの絵本の中の存在。心優しい女の子が小さな花の精と出会って友達になる物語。
幼い私はその本の影響で、どこかに花の精がいないかと領地の城の中庭中の花の近くを調べ回ったものだった。
しかし、花壇の花はもちろん、草花まで見て回ったのに、いくら探しても出会えない。
しょげかえった私は母に質問した。
『花の精が現れてくれないのは、わたしが絵本に出てくる女の子みたいにいい子じゃないから?』
『いいえ、絶対にそんなことないわ。カリーナはとっても優しい子だもの。きっと単に、この庭にはいなかっただけよ。カリーナがそのままいい子でいたら、いつかきっと出会えるわ』
そんな母の言葉を思い出し、私は子供の頃のように胸を弾ませる。
ひょっとしたら、イクス神がさっそく私の願いを聞き届け、小さな友達を与えてくれたのかもしれない。
そう思うと、暗く沈んでいた心にぱーっと明るい希望の光が差した。
私は逸る気持ちを抑え、慎重に足を踏み出し、花に近づき始める。
その白い花は噴水から数歩程度。
風向きのせいでちょうど噴水の水飛沫がかかる位置に咲いていた。
花の精を驚かさないようにそっと進み、あえて三歩程度離れた位置でいったん立ち止まる。
そして息を詰めて静かに観察した。
やっぱりいる!
ちょうど花の部分で顔は隠れているけど、青白く発光する透けた身体の一部が見えていた。
喜びに舞い上がりながら、私がさらにもう一歩、足を進めようとしたとき。
「カリーナ」
いきなり後ろから名前を呼ばれ、心臓が口から飛び出しそうになる。
「ここにいたのか、捜したぞ!」
聞き覚えのあるがなり声におずおずと振り返ると、たてがみのような赤毛を靡かせて歩いてくるオリバー殿下の姿が見えた。
とたん、私は緊張で身を固くする。
その見るからに怒りをみなぎらせた表情から、また何か酷いことをされる予感がした。
オリバー殿下は大股でやってくると、青い瞳で威圧的に私を見下ろす。
「カリーナ、お前、兄さんに俺の悪口を言っただろう!」
いきなりまったく身に覚えのないことを言われ、私はとまどう。
「いったい何のことでしょう? あれからルシアン殿下とは一度も話しておりませんが」
怪訝な思いで問いながら、ルシアン様の名前を口にしてまた胸を痛ませた。
「見え透いた嘘をつくな! 俺がお前の下品な悪口を言い回ってるという嘘の話を、兄さんに吹き込んだだろうが!」
「いいえ、そんなことはしておりません」
仮にしていたとしても真実なので嘘ではない。
「とぼけるな! 素直に認めて謝れば許してやるものを」
「やっていないものは、やっていません」
「まだ言うか!」
オリバー殿下は苛立って叫び、勢い良く私の胸をドンッと突き飛ばした。
よりにもよって、白い花が咲いているほうに向かって――
「きゃっ!」
悲鳴を上げて後ろ向きに倒れながら、私は焦る。
いけない。このままでは花を潰してしまう!
とっさに身体を反転させ、どうにか地面に両肘をついて花を庇う。
おかげでお尻で花を潰すのは回避できたものの、どたっと派手な音を立ててその場に倒れ込んでしまった。
次の瞬間、前回ルシアン様から受けた厳重注意を思い出したらしい、オリバー殿下の焦った声が頭上で響く。
「いっ、今のはお前がそうさせたんだ! 決して俺が暴力をふるったわけではないからな!」
相変わらず他人のせいにしている。そんな言い訳を耳にしつつ、私はおそるおそる身体の下を覗き込み、ほっとした。
――良かった、花は無事みたい。
見たところ花びらにも茎にも葉にも傷ついている様子はなかった。
確認して、涙が出そうになる。
絵本に出てくる花の精は宿っている花が枯れると死んでしまうのだ。
ひとまず安心した私は、次に花の横にちょこんと立っている精霊に目を向ける。
まん丸の顔にきょとんとしたつぶらな瞳。
大きな頭に、お腹がぽっこりした胴体、そこから突き出た小さな手足。
絵本の花の精と違って羽はなく、花びらのスカートも穿いていない。
ほぼ裸であることといい、まるで生まれたての赤ちゃんのような見た目だ。
とにかくとても小さくて可愛い。
守れて良かったと心から思うと同時に、私は、はっ、と現実に引き戻された。
私は今、人の多い中庭で、地面に突っ伏した惨めな姿を晒し続けている。
しかも大勢の生徒達が近くに集まってきているらしく、急速に周囲が騒がしくなっていた。
あきらかに見世物になっている状態に、顔を上げるのが怖くなる。
そこに追い打ちをかけるようにオリバー殿下の興奮した大声が響いた。
「いつまで横になっているつもりだ、カリーナ! どうせ、そうやってまた被害者ぶる気なんだろう。このっ、疫病神がっ!」
理不尽に罵られ、私は息を呑む。
オリバー殿下がさらに地団駄を踏んで続けた。
「もう、いい加減、お前の底意地の悪さにはうんざりだ! 幼い頃から裏でリリアをいじめ抜き、俺を巧みに陥れようとするその腐った性根には、最早つける薬がない! 金輪際、関わるのはごめんだし、何よりお前のような誰もが認める嫌われ者の性悪は、俺の婚約者に相応しくない。カリーナ、貴様との婚約は今日をもって破棄する!」
突然下された婚約破棄宣言と、直後に周囲から起こる嘲笑。
私は口惜しさに歯噛みする。
なぜ私が、人前でここまでの辱めを受けなくてはいけないのか。
いったいこんな仕打ちを受けるような何をしたというのだろう。
疑問に思うと共に泣きそうになり、さらに歯を食いしばった。
オリバー殿下みたいな最低な男に、泣き顔なんて絶対に見せたくない。
そう思って必死に涙を堪えていると、精霊が眉尻を下げた悲しそうな表情で慰めるように私の頬を撫でた。
――とたん、魔法のように涙が引いていく。
私は驚いて精霊を見つめた。
この子は私の気持ちを理解してくれている。
ルシアン様含め、これまで誰一人わかってくれようとしなかったのに。
この子だけは私の味方なんだ。
そう意識した瞬間、不思議なほど勇気と力が身の内から湧いてくる。
おかげで私はようやく地面から身を起こし、敢然と立ち上がれた。
そうして堂々と元婚約者の顔を見据える。
「うんざりしているのはこちらのほうです。私はただの一度たりともリリアをいじめたことなどないし、あなたを陥れようとした覚えもいっさいありません。いい加減、根も葉もないことを言うのはやめてください。ただ、婚約破棄については望むところです。あなたのような男性と結婚しなくて済んで心から嬉しいわ!」
「なっ、なんだと――!」
オリバー殿下は目を剥き、全身をわななかせて顔を真っ赤にした。
「貴様」
再びカッとなって手を出してきたかと思いきや、なぜか途中で引っ込める。
「いったい、何の騒ぎだ」
「に、兄さん」
振り返ると、先日のように駆けつけてきたルシアン様の姿が見えた。
「べっ、別に、何でもない! 少し、こいつに、必要な話をしていただけで……」
しどろもどろに言い訳する弟に対し、ルシアン様が疑わしそうな目を向ける。
「こんなに大勢の人が集まっているのに、何もないことがあるものか!」
まさに正論だった。
そこで、言葉に詰まるオリバー殿下の代わりに、私が笑顔で答えてあげる。
「ルシアン殿下、本当になんでもないんです。ごくごく些細な、どうでもいい内容の話し合いをして、それが今終わったところです――ねぇ、オリバー殿下?」
「くっ」
悔しそうに喉を鳴らすオリバー殿下の顔を見て、私は胸がスカッとした。
そうだ、望んでもない縁を向こうから切られたからといって、痛くも痒くもない。それ以前に、こんな下らない人のことなんて気にする価値もない。
そんな私の気持ちに同調しているみたいに、いつの間にか空中に飛び上がっていた精霊が、オリバー殿下の頭上でくるくる回っていた。
「本当になんでもないのか? またカリーナ嬢に暴力行為をしていたのではないか?」
さらにルシアン様が切れ長の眼を細めてオリバー殿下を追及する。
瞬間、図星をさされたオリバー殿下はびくっと飛び上がり、「悪いっ、急用を思い出した!」と、わざとらしく叫んであたふたと走り去っていく。
集まっていた生徒達もとばっちりを避けてか、潮が引くように離れていった。
――あと、この場に残っている問題は一つだけ。
「兄さん……!」
「カリーナ嬢から離れろ!」
走りながら状況を判断したらしいルシアン様が、鋭く怒鳴りつけた。
オリバー殿下があたふたした様子で苦しまぎれの言い訳をする。
「待ってくれ、兄さん、勘違いしないでほしい。これは単なる婚約者同士のじゃれあいであって……」
口を手で塞がれている私は否定の意思を示すために「うーっ、うーっ」と唸り、激しくもがいてみせた。
「とにかく、離れろ!」
「わかったよ」
目前に迫る兄の剣幕に気圧され、オリバー殿下が慌てて立つ。
ようやく口が自由になった私は、間髪容れずに叫んだ。
「オリバー殿下が、襲ってきたんです!」
「ごっ、誤解だ。兄さん、カリーナの奴から誘ってきたんだ。こいつの性質の悪さは兄さんも耳にしているだろう?」
焦って弁解するオリバー殿下を無視して、ルシアン様はさっと膝を落とし、私を優しく助け起こしてくれる。
「大丈夫か? 頬が赤い」
それからキッとした目を向けて問う。
「お前がやったのか、オリバー?」
さすがに誤魔化しきれないと思ったのか、オリバー殿下はとっさに嘘をついた。
「カリーナが俺を侮辱するから、ついカッとなって……」
ルシアン様が美しい眉根を寄せ、はーっと長い溜め息をつく。
「オリバー、貴様、王族としての恥を知れ! この状況でどんな言い訳も通用するものか! 男としても女性に暴力をふるうなど絶対に許されないことだ。ましてや欲望にまかせて襲うなど、極刑に値する!」
「極刑!」
オリバー殿下は裏返った声で叫び、言い募る。
「兄さん、信じてくれ。俺は断じてカリーナを襲ってなどいない。だって、俺達は婚約者でいずれ結婚するのに、どこにそんな必要がある? そうだ、こいつが俺を煽って、わざと怒らせたのも、誘ったくせに襲われたふりをするのも、全部こうして俺を罠にはめるためだったんだ!」
そして、いかにも今気づいたというように、ポンと手のひらに拳を打ち付けた。
自己正当化もここまでくると見苦しい。
私は呆れて言葉も出なかった。
ルシアン様がうんざりしたように叫ぶ。
「もう黙れ、オリバー! そこまでで充分だ――あとの詳しい話はカリーナ嬢から聞こう」
「待ってくれ兄さん、カリーナから話を聞く必要なんてない! そいつには虚言癖がある! デッカー公爵夫妻も妹のリリアも、家族皆がそう言っている」
「いいからもうどっかに行け!」
「わかった、わかった」
ルシアン様の怒りの声に、オリバー殿下は諦めたように両手を上げ、逃げるように退散していった。
ようやくルシアン様と裏庭で二人きりになり、私は遅まきながらお礼を言った。
「助けてくださってありがとうございました。ルシアン殿下」
しかし、ルシアン様はなぜかこちらを見ないように顔を背けている。
「まずは胸元を直してくれ」
指摘された私は、恥ずかしさに頬を熱くして再びしゃがみ込み、ブラウスの前を閉じた。
「……直しました」
報告すると、ルシアン様は振り返って確認してくる。
「怪我はないか?」
「はい、たぶん」
曖昧な返事をする私に、彼は観察するみたいに真剣な眼差しを向けた。
「膝から血が出ている。医務室へ行こう」
「大丈夫、軽い擦り傷です」
「ダメだ。さあ――」
ルシアン様は有無を言わさぬ口調で言って手を掴み、いつかのように引き上げるように私を立たせてくれる。
とたん、懐かしい温もりに鼓動が激しく高鳴った。
「頬も冷やしたほうがいいな」
ときめく私の気持ちも知らず静かに呟き、彼はそのまま手を引いて歩き始める。
そんなルシアン様を強く意識しながら、私はといえばもう胸がいっぱいで、移動中ずっと話しかけることができなかった。
もちろん、危機に駆けつけてくれたことや、こうして間近で会えたことも感激している。
けれど何より、ルシアン様は迷わず私の名前を呼んでくれた。
八年前たった一度会っただけなのに、覚えていてくれたことが嬉しくてたまらない。
頬を腫らした私を気遣ってか、ルシアン様は人気のない経路を通り、誰とも会わずに医務室に到着する。
「誰もいないようだな。普段は校医が詰めているのだが――ちょうどいいので、ここで話を聞かせてもらおう」
ルシアン様は私に椅子をすすめた後、歩き回って、次々に戸棚や引き出しを開けては薬品と布を取り出していく。
私はその間、夢心地でぼうっと、その姿を眺めた。
オリバー殿下に襲われたショックか、はたまたルシアン様に再会できたからか。心臓がうるさいままで、なんだか息苦しい。
「さあ、これで頬を冷やして」
濡らした布を私に手渡し、ルシアン様は近くに椅子を寄せて座った。
それから私の膝を手当てしながら謝ってくる。
「先程は弟が申し訳なかった。謝って済むものでもないが」
「そんな、ルシアン殿下に謝っていただく必要なんてありません」
「いや、兄としても同じ王族としても、僕には責任がある。暴力も無体なことも二度とさせない。そう約束したうえで、何があったか詳しく聞かせてもらっていいか? もちろんまだ話すのが辛いなら、後日改めてでもいいが……」
「いえ、大丈夫です!」
力をこめて返事し、私は今日裏庭で起こったことをありのまま、順を追って話して聞かせた。
他の生徒達同様、私への悪い噂を聞かされているはずのルシアン様が、間違ってもオリバー殿下の無茶な言い分を信じないよう、真剣に。
私が説明を終えると、ルシアン様は確認するように尋ねる。
「では君は、リリアがオリバーをそそのかしたと言うんだね?」
たとえ、王太子の婚約者候補であるリリアの足を引っ張ることになっても、真実は真実だ。
「はい、オリバー殿下自身が、リリアからそうするようにすすめられたと言っていましたし、これまでずっとそうでしたから。リリアは計算高く嘘が得意で、私は幼い頃からずっと同じような被害を受けてきました」
「……そうか……」
重く頷いた後、彼は麗しい顔に憂いを浮かべて嘆息した。
「信じてくれますか?」
不安な気持ちで聞いた私に、率直に答える。
「正直に言うと、僕には君と弟のどちらの言い分を信じるべきか、判断がつかない。弟は母に特別甘やかされて育ったせいか、幼い頃から自分の思い通りにならないと癇癪を起こす癖がある――そしてカリーナ、君も……」
「私ですか?」
学園に出回っている悪評のことだろうか?
「ああ、デッカー公爵の口から、娘の君を溺愛して甘やかしすぎたことを後悔していると、何度か聞かされたことがある」
私は思わず自分の耳を疑う。
「父が……私を……溺愛?」
本気で言葉の意味が理解できなかった。
「そうだ。幼い頃に母親を亡くした君が不憫で、つい、我儘放題させてしまった、と」
「そんなことを、父が……⁉」
外面がいいことは知っていたが、まさかそんな娘に甘い父親を演じていたなんて。私は衝撃を受けて息を呑む。
「ああ。そのせいでリリアに無用な我慢を強いてしまったとも言っていた」
その言葉に激しくかぶりを振った。
「ルシアン殿下、それでは話が真逆です! 父はリリアを溺愛し、私のことを嫌っています!」
ただ信じてほしい一心で声を張り上げる。
「……だが、デッカー公爵だけではなく、夫人もリリアも皆、同じことを言っていた。君一人が嘘をついているのか、君以外の全員が嘘をついているのかという話なら、やはり前者に思える。何より血の繋がらない公爵夫人とリリアはわかるが、デッカー公爵にはそのような嘘をつく理由がない」
ルシアン様には、実の娘を嫌い義理の娘を愛する父親がいることが、想像できないのだろう。
それでも私には繰り返し事実を訴えることしかできない。
「私にもなぜ父が義理の娘であるリリアばかりを可愛がって優先するのかわかりません。でも嘘偽りのない真実なんです!」
ルシアン様は金色の長い睫毛を伏せて静かに首を横に振る。
「すまないが、僕には他人の悪口を言う人間の言葉を信じることはできない。カリーナ、君はリリアが計算高く嘘つきだと言うが、僕の前で彼女が君を悪く言ったことなど、ただの一度もないんだ。むしろいつも、妹として家族として、君を庇う言動をしてきた」
そう、それがリリアのいつものやり口なのだ。
決して他人を悪く言わないし、自分が表立って行動を起こすこともしない。常に表面上は同情的な言動を取りながら、結果的に私が悪く思われるように誘導する。
「悪口なんかじゃありません! 実際にリリアは……!」
なおも言い募ろうとしたとき、私に向けられるルシアン様の水色の瞳に浮かぶ冷たい光――軽蔑の眼差しに気づき、私は続きの言葉が出なくなった。
リリアの本性を伝えれば伝えるほど、家族を罵っていると思われる。
ルシアン様も他の人と同様、私を信じてくれない。口では話を聞くと言いつつ、最初から先入観で私を悪者だと決めつけている。
その事実に気がつき、深い失望が胸を覆ったとき、予鈴が鳴った。
そこでルシアン様が、もう話すべきことはないというように立ち上がる。
「悪いが僕はもう行かねばならない。君の担任には連絡しておくので、落ち着くまでここで休んでいるといい」
言葉こそ優しかったが、硬く冷たい声だった。
私は背中を向けて歩き出す彼の姿を、悲しい気持ちで見つめる。
「きっとルシアン殿下にはわかっていただけないのでしょうね。この世界には想像もつかない悪意や、自分ではどうしようもない、不可抗力の事態があるということを……」
泣くのを堪え、最後にそれだけ言うのがやっとだった。
ルシアン様は扉の前で一瞬立ち止まったものの、振り返らずに医務室を出ていく。
結局、私は自分への誤解を解くどころか、却ってルシアン様の信頼を失ってしまった。
その事実がオリバー殿下に襲われたことよりも、ずっとずっとショックで悲しい。
しかも、悪いことはそれだけで終わらなかった。
オリバー殿下は今回の件でかなり私を逆怨みしたらしい。
翌日、廊下ですれ違ったとき、わざと聞こえよがしの大声で「淫乱な女に陥れられた」と、取り巻き達に笑って話していた。
その様子から、どうやら裏庭での一件を脚色した話を吹聴して回っているのだとわかる。
――初恋の人には軽蔑され、婚約者によってますます評判を貶められるという、辛い状況。
私が小さな精霊と出会ったのは、まさにそんなどん底にいるときだった。
第二章 精霊との出会い
裏庭での事件があった五日後の昼休み。
「ねぇ、あの人」
「ああ、リリア様の」
「そういえばオリバー殿下が……」
「信じられないわよね」
今日も周囲からの冷たい視線と陰口に晒されながら、私は生徒で賑わう中庭に来ていた。
オリバー殿下に襲われて以来、人気のないところが怖くなり、教室で昼食を済ませるようにしている。
だから、ここに来たのは純粋にイクス神像に祈るため。
あれからルシアン様と顔を合わせる機会はなかったものの、言われた批判や冷たい眼差しが繰り返し脳裏に蘇ってくる。
加えてオリバー殿下に酷い中傷を流され続け、現在の私の精神状態はこれ以上ないくらい最悪だった。
ルシアン様という心の救いをなくした今の私には最早、神への祈りしか残されていない。
人の邪魔にならない中庭の隅に立ち、悲愴な気持ちで彫像に目を向ける。
噴水の中央の台座に設置された女神イクス像は、左手に手桶を抱えて優しく微笑んでいた。
少し見入ってから両手を組んで目を瞑り、まずはイクス様へ感謝を伝える。それから一心に救いを求めて祈った。
――どうかこれ以上、私の悪い評判が広がりませんように。ほんの少しずつでもいいので、皆の私に対する誤解が解けてゆきますように。
心の中で呟きつつも、ルシアン様の顔がしきりに浮かんで、胸がズキズキする。
――友達がたくさん欲しいなんて贅沢は申しません。でも叶うなら、たった一人でいいので、私のことをわかってくれる存在が現れますように。
ささやかな、それでいて絶望的に思える願いを伝え、ゆっくりと目を開く。
――その時だ。
視界の片隅。
噴水近くの芝生に咲いている白い小さな花の近くで、チラッ、と光るものが動いた。
一瞬見間違えたのかと思ったが、目の錯覚ではない。凝視すると花陰から漏れる青白い光が確認できる。
私は思わず、ごくっと息を呑む。
あれはもしかしたら、花の精かもしれない。
――それは幼い頃、繰り返し母に読んでもらったお気に入りの絵本の中の存在。心優しい女の子が小さな花の精と出会って友達になる物語。
幼い私はその本の影響で、どこかに花の精がいないかと領地の城の中庭中の花の近くを調べ回ったものだった。
しかし、花壇の花はもちろん、草花まで見て回ったのに、いくら探しても出会えない。
しょげかえった私は母に質問した。
『花の精が現れてくれないのは、わたしが絵本に出てくる女の子みたいにいい子じゃないから?』
『いいえ、絶対にそんなことないわ。カリーナはとっても優しい子だもの。きっと単に、この庭にはいなかっただけよ。カリーナがそのままいい子でいたら、いつかきっと出会えるわ』
そんな母の言葉を思い出し、私は子供の頃のように胸を弾ませる。
ひょっとしたら、イクス神がさっそく私の願いを聞き届け、小さな友達を与えてくれたのかもしれない。
そう思うと、暗く沈んでいた心にぱーっと明るい希望の光が差した。
私は逸る気持ちを抑え、慎重に足を踏み出し、花に近づき始める。
その白い花は噴水から数歩程度。
風向きのせいでちょうど噴水の水飛沫がかかる位置に咲いていた。
花の精を驚かさないようにそっと進み、あえて三歩程度離れた位置でいったん立ち止まる。
そして息を詰めて静かに観察した。
やっぱりいる!
ちょうど花の部分で顔は隠れているけど、青白く発光する透けた身体の一部が見えていた。
喜びに舞い上がりながら、私がさらにもう一歩、足を進めようとしたとき。
「カリーナ」
いきなり後ろから名前を呼ばれ、心臓が口から飛び出しそうになる。
「ここにいたのか、捜したぞ!」
聞き覚えのあるがなり声におずおずと振り返ると、たてがみのような赤毛を靡かせて歩いてくるオリバー殿下の姿が見えた。
とたん、私は緊張で身を固くする。
その見るからに怒りをみなぎらせた表情から、また何か酷いことをされる予感がした。
オリバー殿下は大股でやってくると、青い瞳で威圧的に私を見下ろす。
「カリーナ、お前、兄さんに俺の悪口を言っただろう!」
いきなりまったく身に覚えのないことを言われ、私はとまどう。
「いったい何のことでしょう? あれからルシアン殿下とは一度も話しておりませんが」
怪訝な思いで問いながら、ルシアン様の名前を口にしてまた胸を痛ませた。
「見え透いた嘘をつくな! 俺がお前の下品な悪口を言い回ってるという嘘の話を、兄さんに吹き込んだだろうが!」
「いいえ、そんなことはしておりません」
仮にしていたとしても真実なので嘘ではない。
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オリバー殿下は苛立って叫び、勢い良く私の胸をドンッと突き飛ばした。
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おかげでお尻で花を潰すのは回避できたものの、どたっと派手な音を立ててその場に倒れ込んでしまった。
次の瞬間、前回ルシアン様から受けた厳重注意を思い出したらしい、オリバー殿下の焦った声が頭上で響く。
「いっ、今のはお前がそうさせたんだ! 決して俺が暴力をふるったわけではないからな!」
相変わらず他人のせいにしている。そんな言い訳を耳にしつつ、私はおそるおそる身体の下を覗き込み、ほっとした。
――良かった、花は無事みたい。
見たところ花びらにも茎にも葉にも傷ついている様子はなかった。
確認して、涙が出そうになる。
絵本に出てくる花の精は宿っている花が枯れると死んでしまうのだ。
ひとまず安心した私は、次に花の横にちょこんと立っている精霊に目を向ける。
まん丸の顔にきょとんとしたつぶらな瞳。
大きな頭に、お腹がぽっこりした胴体、そこから突き出た小さな手足。
絵本の花の精と違って羽はなく、花びらのスカートも穿いていない。
ほぼ裸であることといい、まるで生まれたての赤ちゃんのような見た目だ。
とにかくとても小さくて可愛い。
守れて良かったと心から思うと同時に、私は、はっ、と現実に引き戻された。
私は今、人の多い中庭で、地面に突っ伏した惨めな姿を晒し続けている。
しかも大勢の生徒達が近くに集まってきているらしく、急速に周囲が騒がしくなっていた。
あきらかに見世物になっている状態に、顔を上げるのが怖くなる。
そこに追い打ちをかけるようにオリバー殿下の興奮した大声が響いた。
「いつまで横になっているつもりだ、カリーナ! どうせ、そうやってまた被害者ぶる気なんだろう。このっ、疫病神がっ!」
理不尽に罵られ、私は息を呑む。
オリバー殿下がさらに地団駄を踏んで続けた。
「もう、いい加減、お前の底意地の悪さにはうんざりだ! 幼い頃から裏でリリアをいじめ抜き、俺を巧みに陥れようとするその腐った性根には、最早つける薬がない! 金輪際、関わるのはごめんだし、何よりお前のような誰もが認める嫌われ者の性悪は、俺の婚約者に相応しくない。カリーナ、貴様との婚約は今日をもって破棄する!」
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私は口惜しさに歯噛みする。
なぜ私が、人前でここまでの辱めを受けなくてはいけないのか。
いったいこんな仕打ちを受けるような何をしたというのだろう。
疑問に思うと共に泣きそうになり、さらに歯を食いしばった。
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そう思って必死に涙を堪えていると、精霊が眉尻を下げた悲しそうな表情で慰めるように私の頬を撫でた。
――とたん、魔法のように涙が引いていく。
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この子だけは私の味方なんだ。
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「なっ、なんだと――!」
オリバー殿下は目を剥き、全身をわななかせて顔を真っ赤にした。
「貴様」
再びカッとなって手を出してきたかと思いきや、なぜか途中で引っ込める。
「いったい、何の騒ぎだ」
「に、兄さん」
振り返ると、先日のように駆けつけてきたルシアン様の姿が見えた。
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「こんなに大勢の人が集まっているのに、何もないことがあるものか!」
まさに正論だった。
そこで、言葉に詰まるオリバー殿下の代わりに、私が笑顔で答えてあげる。
「ルシアン殿下、本当になんでもないんです。ごくごく些細な、どうでもいい内容の話し合いをして、それが今終わったところです――ねぇ、オリバー殿下?」
「くっ」
悔しそうに喉を鳴らすオリバー殿下の顔を見て、私は胸がスカッとした。
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そんな私の気持ちに同調しているみたいに、いつの間にか空中に飛び上がっていた精霊が、オリバー殿下の頭上でくるくる回っていた。
「本当になんでもないのか? またカリーナ嬢に暴力行為をしていたのではないか?」
さらにルシアン様が切れ長の眼を細めてオリバー殿下を追及する。
瞬間、図星をさされたオリバー殿下はびくっと飛び上がり、「悪いっ、急用を思い出した!」と、わざとらしく叫んであたふたと走り去っていく。
集まっていた生徒達もとばっちりを避けてか、潮が引くように離れていった。
――あと、この場に残っている問題は一つだけ。
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